夏の悪夢
夏───
そう聞けば、いろいろと楽しい事を思い浮かべる人も多いと思う。
祭り、花火、海、プール……
だが……夏は楽しい事ばかりが起こるわけではない。
そう”ヤツら”にとっては絶好の機会なのだから。
……これは、そんな”ヤツら”の為に散々な思いをしたとある少年の苦い記憶の話だ。
「名雪、ちょっと買い物に出てくるから」
夏休みまで1ヶ月を切った、とある日曜日の事。
俺と名雪がテスト勉強をしていると、台所からひょっこりと秋子さんが顔を出した。
「あれ……もうお昼?」
名雪の声に掛け時計を眺めると、12時10分前。
どうりで腹が減るわけだ。
「ええ、ずいぶんと集中していたみたいね。……とっても、名雪は別の方に集中していたみたいだけど」
「う〜…お母さん、意地悪だよ……」
「お昼、なんですか?」
目をこすりながら、口を尖らせた名雪を無視して俺は秋子さんに尋ねる。
「そうめんにしようかと思うのだけれど……祐一さんはそうめんで構いませんか?」
「ええ、俺はそうめんで構いませんよ。暑いし……」
「そうね。もうすぐ夏ですものね」
そう言いながら、秋子さんは頬に手を当てた。
……どっからどう見ても暑そうには見えないんだけど……
「どうしましたか?」
「いえ……じゃあ、気を付けて」
「いってらっしゃ〜い」
「じゃあ行ってくるわね」
ごまかすように俺は元気良く手を振って秋子さんを送り出す。
「……なぁ、名雪?」
「なに? 祐一」
「秋子さんって『暑い』とか言う時あるのか?」
「それは……」
名雪は当然という顔を最初したものの、急に自信のなさそうな顔をしながら、
「……たぶん有ると思うよ」
たぶんって……今まで聞いたことは無いのか?
考えていると、背筋の辺りが寒くなりそうなので、俺は黙って勉強道具を片づけ始めた。
「祐一〜、何か言ってよ〜」
「いや、今の会話は忘れよう。……それともそうめんを食べる前に涼みたいか?」
「……うん。忘れる……」
一瞬考えた後、名雪もノートや教科書をぱたぱたと閉じて、テーブルの上に溜まった消しくずを集めてゴミ箱に捨てる。
……1分でやる事が無くなってしまった。
「祐一、真琴を起こしてきてくれない? わたしはお鍋に火をかけるから」
「了解」
俺は名雪と一緒にリビングを出て、階段を上がっていく。
2階の廊下に出ると、がらりと開け放たれた真琴の部屋から『にょき!』っと足が1本突き出ていた。
……これが夜だったら怪談話になるだろうな……
俺は馬鹿な事を考えつつ、真琴の部屋の前に立つ。
「う〜ん……」
真琴は大の字になって、ぴろを胸の所に乗せながら唸っていた。
「真琴、起きろ」
「う〜ん……かき氷、食べたい……」
「真琴、昼飯だ」
「……アイス……」
………いい度胸だ。
俺は無言で真琴の部屋から立ち去ると、キッチンを目指す。
キッチンで大鍋に水をくんでいた名雪が、1人で降りてきた俺に怪訝そうな顔をした。
「あれ? 真琴は?」
「今から起こすよ」
俺はそう言いながら、ビニール袋に氷を入れ、ひたひたになるくらいに水を入れて口を縛る。
「真琴、熱でも有るの?」
様子を眺めていた名雪が心配そうに俺を見上げる。
「いや、起こすのに使う」
「?」
さらに怪訝そうな顔をした名雪にひらひらと手を振りながら、再び真琴の部屋へ。
「真琴、起きろ」
「………」
反応無し。
そうか、そうか。
これの手は使いたくなかったんだが……
と心にも無い事を思いつつ、大の字になった真琴のTシャツの首元に手をかけた。
「………投下!!」
俺はTシャツをぐいっと引っ張ると、手にしたビニール袋を真琴の胸の中に放りこんで、素早く廊下に退避する。
「きゃぁぁぁぁー! なに!? なに!? 冷たい!? きゃぁぁぁ!」
ゴロゴロゴロ! ガン! ゴロゴロゴロ!
部屋の中を転がる音と、あちらこちらにぶつかる音。
ミッション・コンプリート。
俺の警告を無視したのが悪いんだ……真琴。
俺は廊下の壁に寄りかかりながら、騒ぎが収まるのを待つ。
ダンダンダンダン!
「どうしたの!?」
真琴の悲鳴が聞こえたのか、階段を駆け上がって名雪がやってくる。
「いや……起こすのに非常手段をな……」
「……祐一、何をやったの?」
ジト目で見る名雪の視線を、俺は天井を見上げてかわした。
「いや……冷たい物が欲しいって言うからな……」
そう言った矢先、びしょびしょになったTシャツ姿の真琴が部屋から顔を出した。
「あぅ……なんか知らないうちにびしょびしょ……」
その姿に名雪が慌てて自分の部屋に入ると、タオルを持って出てくると、真琴の体を拭き始めた。
「………」
「………」
2人の視線が痛かった。
「替えのTシャツ出して上げるから、シャワー浴びてきた方がいいよ」
「あぅ……」
「さてと……俺は……」
「真琴の部屋のお掃除してくれるんだよね?」
面倒な事に巻き込まれないうちに逃げようとした俺の襟首を名雪の声が捕まえる。
「いや…俺は……」
「お掃除、してくれるよね?」
……物腰は丁寧な物の、名雪の顔は笑っていなかった。
このパターンは……
「……はい、やらせていただきます」
「ちょっとやりすぎたか……」
真琴が暴れたせいでビニール袋が破けたらしく、びしょびしょになった床を俺は名雪から渡されたバケツと雑巾で拭き取っていく。
自業自得って奴だなぁ……
そう思いながらも、床を拭き終わって真琴の部屋を出ようとすると、
『きゃぁぁぁぁぁ!』
1階の方で悲鳴が上がった。
「どうした!?」
俺は手にしたバケツをその場に置いて階段を駆け下りる。
なんなんだ今日は? 悲鳴のオンパレードか!?
俺は頭の片隅でそんな事を考えながら、キッチンへ飛び込んだ。
その時。
ぶぅぅぅ〜ん……
目の前を黒い物体が羽をはためかせて飛んでいった。
こいつは……ゴキ!?
「名雪、大丈夫か?」
俺はゴキがピタッとキッチンの壁に張り付いたのを横目で見ながら、流しの側にへたり込む名雪に声をかけた。
「う、うん。ちょっとびっくりしただけだから……」
そう言いながら、名雪が立ち上がろうとすると、
ぶぅぅぅ〜ん……!
タイミングを計るようにゴキが俺と名雪の間を飛んでいく。
「ゆ…祐一〜」
「ちょっと待ってろよ……」
俺はリビングに駆け込むと、殺虫剤とハエ叩きを掴んで再びキッチンに赴く。
完全武装じゃぁ! 地獄にたたき込んでやる!
意気揚々とキッチンに入ると、俺の気合いを無視するようにゴキが飛んでいた。
「喰らえ!」
「駄目!」
飛ぶゴキに向かって殺虫剤をつきだした所で名雪が叫ぶ。
「キッチンで殺虫剤を使うなんて……お母さんが泣いちゃうよ……」
「くっ……」
有効な武器の一つが使用不可になってしまった……
だが、しかしぃ!
俺には舞直伝の剣技があるっ!
俺はテーブルの上に叩きつける様に殺虫剤を置くと、ハエ叩きを構える。
「さぁ、来い! ……ってどこに行った?」
殺虫剤を置いている間に目標をロストしてしまうとは……!
相沢祐一、一生の不覚!
「祐一、上!」
「なにっ!」
名雪の声に見上げた天井には”ヤツ”がカサカサと音を立てそうな早さで俺の頭の上間で来ると、自由落下をしながら俺の目前まで落ちてくる。
俺は不意を付かれながらも、ハエ叩きで応戦するが素早い”ヤツ”の事、攻撃をかいくぐって再び天井にくっついた。
一撃離脱戦法とは……やるな……!!
俺は額の汗を拭いながらハエ叩きを持ち代えると、”ヤツ”が降りてくるのを待つ。
そして……
「さっきから何を騒いでるの?」
ひょっこりと顔を出したバスタオル姿の真琴の前に”ヤツ”が飛んで来る。
「天誅ぅ!」
俺は渾身の力で”ヤツ”にハエ叩きを振りかざした。
……腕を真横に振るように。
ビタッ!
”ヤツ”は俺の攻撃をまたもやかいくぐった。
しかし、俺の一撃は止まることをせずに真琴の顔面に吸い込まれていった。
「あぅ……!」
俺の渾身の一撃を顔面に受けた真琴は鼻血を空中に撒きながら、キッチンの入り口の前で崩れ落ちた。
「真琴っ! ……くそぅ! 屍は後で拾ってやるからな……!」
俺は滴り落ちる塩水を拭いながら、戦友を奪った”ヤツ”をにらみつけた。
「祐一、二手に分かれようよ」
視線を外すと、馬鹿でかい木のヘラを持った名雪が立ち上がっていた。
「よし、共同戦線だ!」
「うん! ……えい!」
やる気満々の名雪が返事を返した所で”ヤツ”が目の前を横切る。
バコッ!
「ぐぁ……」
「わ! 祐一、大丈夫!?」
気合いの入った名雪の一撃が、テーブルを挟んだ俺の頬にヒットした。
ぐ……良いモン持ってんじゃね〜か……
片膝を付いた俺の目前に”ヤツ”が着地した。
チャンス!
俺はそれを見逃さずにハエ叩きを叩き付ける。
びしぃ!
「……っ!」
俺の一撃は、夏用のスリッパを履いた名雪の足を直撃した。
「あ…大丈夫か?」
「うん……えぃ!」
ゴスっ!
「ぐぁ……くっ……」
びしぃ!
「いたい……」
………
………
………
数分後。
ぶぅぅぅ〜ん……
目の前をゴキが飛んでいた。
しかし、俺と名雪に取ってはそんなことはどうでも良くなっていた。
俺と名雪は自分の獲物を持ち、テーブルを挟んで相手の動きを探り合う。
周りには散らばった食器や菜箸。
……俺は腕と顔がシンジンと痛み、名雪の肌は赤くなっていた。
「えぃっ!」
「とぅ!」
テーブルの上で木のヘラと、ハエ叩きがぶつかり合い火花(?)を散らす。
力の上では俺の方が有利!
ここはっ……!
俺はぐいっと力任せに木のヘラを押し返すと、バランスの崩れた名雪に一撃を加えようと手を振り上げる。
勝ったぁ!
「……何をしているの?」
まさに勝ち鬨の声をあげようとした時、キッチンに秋子さんが入ってきた。
「あ、あ〜これは……ゴキ退治だよな? な? 名雪?」
「う、うん。そうだよ〜お母さん。 あははは……」
俺達2人は自分の獲物を背中に隠すようにしながら乾いた笑みをこぼした。
「なら良いのだけれど……真琴も倒れているし……」
秋子さんは真琴を抱き起こしながら、丁度横切ったゴキを床に転がっていた菜箸で掴んだ。
「この時期は嫌だわ……お掃除しても出てくるんだから……」
そう何気なく呟きながら、窓の外へゴキを放りだす。
「………」
「………」
秋子さん……あなたは宮本武蔵ですか?
「2人とも、ご飯はもう少し待ってくれるかしら? ここをお掃除してしまいたいから」
秋子さんはいつものように微笑みながら、そう言った。
「分かりました……」
俺達は同じ様な事を口にしながら、真琴を担ぎ上げてリビングへと移動した。
………
………
「ううん……」
「よぉ、目が覚めたか」
しばらくした後、真琴が意識を取り戻す。
「さっきは悪か…うおっ!」
「に゛ゃ!?」
目覚めたと当時に、側に居たぴろをぶん投げる真琴。
「いてて……こら! 爪を立てるな!」
「わ! ぴろ〜」
必死の思いで顔にへばりついたぴろを名雪に放り投げると、目の前にはバスタオルに仁王立ちと言う妙にアンバランスな格好をした真琴が居た。
……手には丸めた新聞紙を持って。
「さっきは……良くもやってくれたわねぇ〜」
「ま、まて! あれは不可抗力だ!」
「問答無用!!」
「うおっ!」
真琴の一撃をなんとか避けると、俺はリビングから飛び出して外へ。
「ま〜ち〜な〜さ〜い〜」
祐一を追って走り去る真琴に、少し遅れて名雪も飛び出していく。
「真琴、そんな格好で外に出たら駄目だよ〜」
ドタドタドタ!
「勘弁してくれ〜!」
真夏の空に、祐一の悲鳴が響き渡った……
その頃、台所では掃除を終えた秋子さんが外から聞こえる3人の声を聞いて、
「この暑さだっていうのに……若いっていうのはうらやましいわね」
1人で楽しそうに微笑んでいた……
あとがき
久々にギャグ(?)を書きました。
このネタは、とあるチャットでゴキの話が出て、ピンと来て書いた物です。
あんまり久しぶりなんで、どうもテンポが良くない気がするんですが……あんまり気にしないでくださいね(汗
では、冬蝉 夏雪でした。
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