Stay Dreamer






 人物紹介



   田崎雅史(たざき まさふみ)…工芸部部長/三年生

  九条美都里(くじょう みつり)…生徒会副会長/工芸部部員/三年生

     田崎 恵(たざき めぐみ) …工芸部副部長/雅史の妹/二年生

    田崎 悠(たざき ゆう) …工芸部部員/雅史の妹/一年生

芹川良介(せりかわ りょうすけ) …工芸部部員/二年生

     西川 歩(にしかわ あゆむ) …工芸部部員/一年生





プロローグ

 ―――― への手紙





 夢を見ない人は狂っている…そんな話がこの間持ってきてくれた本に書いてあったの。

 じゃあさ、夢しか見ない人ってのはやっぱり狂ってるのかな?

 夢にも色々な意味があるよね。

 追い掛ける夢、眠っている時に見ている夢、それから希望も夢と似たような意味だと思う。

 …どれを見ていれば狂わないで済むのかな。

 私は…夢しか見てない。

 追い掛けるものでも希望でもない夢を…ずっとね。

 …正確には夢だけじゃないけどさ、今の私には現実はちょっと…怖すぎるんだ。

 小さい時にさ、お母さんにわがままばっかり言ってたら置いて行かれた事があったの。

 これってお母さんが私を強く育てたい…って言うのから来てるんだと思うけど、その時に凄い寂しさと…それから途方もない恐怖感を感じたの。…そう言うのってある?

 私は…今ちょうどそんな感じなんだ。

 独りで目を覚ますと、現実は私を置き去りにして容赦なく先を歩んでる。

 止まることなく、戻る事もなく、無情にも淡々と…

 でも進んでるのは時間だけじゃないんだよ? きっとみんな…私を置いて先を歩いてる。

 あ、って言ってもそれが悪いことだとかじゃないよ? …少しだけ寂しいだけだから。

 そう言えば今日も来てくれたんだね。毎日来てくれるのは嬉しいけど、ちゃんと周りのことも気遣ってあげなくちゃ駄目だよ?

 それと…ちゃんと出迎える事が出来なくてごめんね。

 次はちゃんと出迎える…なんて約束は出来ないけどさ。…こんな手紙じゃなくって直接会って話したいよ。

 そろそろ卒業だから何かと忙しいと思うけど頑張って。





第一話   二人の思い出





 夏休みが終わり、就職活動の色が濃くなってきた教室に日毎冷たさを増す秋風が吹き、その風に吹かれたオレはたまらず体を震わせてしまった。

 恨みがましく向けた窓の外には、まばらになってきた下校する生徒の姿が見て取れた。

 ――放課後の黄昏時。

 オレは人の姿がまばらになってきた教室で、一人孤独に物思いにふけっていた。

 退屈な授業から解放された反動でもあったのか、部活に行かなくてはいけない時間になってからもオレは席を立つことが出来なかった。

 夕日に染まる景色を見ていて考える事は、どれもこれもとりとめのないもので、数分もしてしまえば記憶の中から消えてしまうものばかりだった。

 …教室の後ろにある書棚では熱心に就職活動を行っている同級生の声が聞こえきて、オレに特殊な感慨を伝える。

 今後ろで就職先を探している奴と違って、オレの進路は夏休みに入る前に内定が決まっていた。

 進学校と呼ばれるに値するほど大学への進学率が高いこの三ノ宮高等学校にあって、オレの進路は進学ではなく就職だ。

 最初は進学をしようと思っていたのだが、展覧会に出展されたオレの油絵を見た知り合いの芸術家が、わざわざ学校に来てまでオレを自分のアトリエへ来ないかと誘ってくれたのだ。

 そんな嬉しい申し出をオレが断るはずもなく、来年の四月からオレはその人の元でアシスタントとして働くことになっている。だがアシスタントというのは建前の話で、本当はその人の元で油絵の修行をすると言う感じだ。

 幼い頃時に父親の影響で始めた油絵は、今やオレの半身と言えるくらいに大きな存在になっていた。

 自分の好きな事が出来てそれなりの金をもらえるのだから手放しで大喜び…と、普通の奴ならこう言うだろう。

 かく言うオレも最初はそうだった。調子に乗って妹の恵と悠を無理矢理つきあわせてオレ主催のパーティーなんぞをしたくらいだ。

 …しかし今ではこんな疑念を浮かべてしまい、それ以来少しだけ憂鬱になっている。

 それは兄妹三人だけで暮らしている事を憂慮した親父が、せめて就職だけは問題ないようにと、その芸術家にオレを雇うように依頼したのではないか…と言う疑念だ。

 一番下の妹の悠が生まれた時、オレ達の母さんは悠と入れ替わるように死んでしまった。

 親父はまだまだ金のかかる三人の子供を不自由なく育てるために、給料が倍になると言うだけでオレが中学校に上がると同時に外国に飛んでしまった。

 確かに親父ががんばって働いているお陰で、オレ達は金銭的には不自由なく暮らしているが…当然ながら最初は捨てられたような気がして良い気はしなかった。

 親父自身もまだ幼かったオレ達を半ば置き去りにしたことに罪悪感を持っているらしく、時々過剰にも思える手助けをする事がある。

 そんな事が今までにも何度かあったせいで、オレは自分が望む理想の職に就けたことが親父の差し金のように思えて仕方ない。

 大体にしておかしい所はいくらでもあるのだ。

 今まで何回も顔を合わせた事もオレの絵を何回も見せた事もある人間が、何故今になって自分の所に来ないかなどと言ってくるのか…

 確かにオレが就職する時期だと言うのもあるかも知れないが、それにしたってタイミングが良すぎる。…自分から誘いにきたというのも怪しい話だ。

 …まあ、こればっかりは悩んでいたって解決の仕様がないのは分かっているけどな。

 そこまで考えて浅いため息を吐き、疲れた眼差しで時計を見やる。

 そろそろ部室に行った方が良いな。そうでもしないとまたうるさいのがやってくる。それに良い加減一人で鬱になるのはやめよう。人間もっと前向きに生きなくちゃな。

 そう考えて机の脇にかけておいた鞄を手に取ろうとすると…

「クソ兄貴! さっさと部室に顔だしなさいよ!!」

 その時教室の入り口からやかましい怒声が届いてきた。

 相手が誰かなんて見なくても分かる。この学校どころか世界中どこを探してもオレの事を兄貴と呼ぶのは一人しかいないからだ。

 脳裏に明朗快活を絵に描いたような我が妹が、遠目に分かるほどこめかみに青筋を浮かべている姿を思い描きつつ、こちらも負けじと怒鳴り返す。

「うっせえ恵! ちゃんと聞こえてっからちったぁ静かにしろ!!」

 そう言いながらしかめっ面をし、教室の後ろ扉へと視線を移す。

 開ききった扉の真ん中に立ち、居丈高にふんぞり返った恵が、肩口まで延ばしたショートヘアーを怒らせているのが見えた。脳裏に描いた恵と一つだけ違う所があるとすれば、それは茜色の夕日を背にしている事だろう。

「黙れこの甲斐性なし! 怒鳴られたくなかったら下らない悩み事すんなッ!!」

 …痛い所を突かれた。今の恵の言葉から分かると思うが、実は恵だけはオレが抱えている悩み事を知っている。

 いつかの夜に耐えきれなくなったオレが、とりあえず手近の人間に相談をしようと思って、どう血迷ったのか恵に話をしてしまったのだ。

 …最初に話をしたときは神妙な顔をして聞いてたくせに最近はいつもこうだ。

何となく例の悩みについて考えていると、突然背後から強烈なツッコミを入れてきたり、ツッコミが来ないと思ったら今みたいにドキツイ言葉を平然と吐き捨てる。

 最近の日常と化した事に対して今更ながらに疲れを感じてしまい、深々と溜め息を吐きながら鞄を手に取ろうとする。

 …そんな時、頭の中にキラリと光る名案が浮かんだ。その事に喜びながらコートを羽織り、恵の待つ教室入口にまで行く。すると出迎えてきたのは予想通り野獣の雄叫びだった。

「このヘボ兄貴! 悪びれもしねえでニヤつくな!! もうちっと殊勝な精神を持ったらどうだコンチキショー!!」

 とりあえず言いたい事だけ先に言わせておく。こうしておいた方がもしもの時に役立つかも知れないからだ。

 …そして頃合いを見計らってから、演技がかかった声と仕草でこんな事をする。

「ああっ! こんな所に時季外れの蚊が!? 危なーい♪」

 ゴスッ!!

「ぐ、ぐおぉぉぉぉぉぉ!?」

 居もしない蚊を目で追いながら、恵の頭頂部に平手を食らわす。平手とは思えない鈍い音がし、恵は頭を抱えてその場に膝をついた。

「ふぅ、これで可愛い妹が蚊に刺されて苦しむ事はなくなったな。…どうした恵。頭でも痛いのかァー?」

 わざとらしい口調とわざとらしいリアクションで、頭を抱える恵の肩に手を置いた。

「ち、違う!!」

 馬鹿にされたのが余程悔しいのか、恵は苛立たしげに立ち上がりオレの手を払いのけた。

「違う? あ、そっか。痛いんじゃなくて悪いのか。だからそんなに大騒ぎ出来るんだな。げひひひひひひひ」

 数歩後ろに下がりながら、自分に可能な限りの下品な笑い声を上げてやった。

 すると恵は怒りから肩を震わせ、顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。

「うっさい! 頭悪いンは貴様じゃッ!! 一体誰が家の家事全般アンド誰かさんの汁付きパンツ洗ってやってると思って――むぐぅ!!」

『し、汁付き!?』

 節操のない恵の言葉に、残り少なくなっていたクラスの連中だけでなく単に廊下を歩いていただけの奴まで異口同音に声をハモらせた。

「ちょ、馬鹿お前! 何つー事を公衆の面前で…!!」

 流石に焦ったオレは素早く恵の口を手で塞いだが時既に遅し、周囲からの奇異の眼差しはオレの背中を突き刺していた。

「はにふんが!! ごのほっくぅぶまんほおと!! …しえっ!!」

 何を言っているか分からない言葉の後、オレの中心に打ち当てられるカカト。

「ぐっはぁぁぁぁぁぁ!?」

 今度はオレが崩れ落ちる番だった。男ならば…いや、男にしか分からない痛打を浴びたのだ。それは自然な事だろう。

「ぷはっ、お前なんかインポになっちまえ、このド畜生!!」

 言いたい事だけ言って恵はどこかへと駆け出した。どうせ部室だろうが…それにしても…くぅ…

『汁付き…あの田崎が?』

『いやいや、ああ見えて実は………なんて事も』

『あり得るな…』

『えっ、じゃあやっぱり毎晩…?』

『九条さん大変だな…』

 黙れ、生徒A・B・C。そこで美都里を出すんじゃねえ。

 しかしもう、弁解するには何もかもが遅すぎた。この場に居合わせた奴らには『オレ=汁パン』というのが定着してしまっただろう。しかも美都里までつまらん事に巻き込んでしまった。もしかしたら明日辺り何か言われているかも知れない。

 今更ではあったが、恵を挑発してしまった事に後悔する。廊下の片隅で惨めにもうずくまり、痛みを堪えながら悔やんでいると、オレの体に差していた夕日が誰かによって遮られた。

 その人物を見上げるよりも早く、そいつはオレの目の前に屈んで優しく労るように背中に手を添えた。

「大丈夫? 雅史」

「美都里…か」

 見るとそいつはさっき外野が口にしていた九条美都里――オレの彼女だった。

 美都里は先程の恵と同じように夕日を背に受けながら、心配そうな表情をしてオレの背中をさすっている。チラリと見えた美都里の背後の窓際では、さっきの外野達が不自然に近寄って互いに談笑していた。しかし時折こちらを盗み見ているのを見逃すオレではない。

「今日は生徒会に行って来るから部活は遅れるって言おうと思ってたんだけど…大変な事になってたね」

 どういう表情をして良いのか分からず、取り敢えず場を繕うために笑顔を作ってみせる。しかしその笑顔すらも今は痛みのせいでぎこちない。

「まあ…気にすんな。それより悪かったな、根も葉もない陰口叩かれてよ」

どの辺りから見ていたのかは知らないが、オレが恵に蹴られた所を見ていたのは確かだ。もしかしたら外野共が美都里の事を話していたのを聞いていたかも知れないので、何かを言われる前に謝罪しておく。

 しかし美都里はそんなオレの言葉を受けると、理解出来ないとばかりに首を傾げた。

「陰口? …私は何も聞いてないけど?」

 一転して訝しげな眼差しでこちらを見つめる。どうやら本当に聞いてはいなかったようだ。

 オレはそう結論づけると、微かな笑みを浮かべて小さく首を振った。

「いや、そんなら良いや。…生徒会に行くって言っても部室には来るんだろ?」

 となればこれ以上この会話を続けるのは避けた方が良かった。半ば無理矢理に会話を余所へ逸らす。この頃になると股間の痛みも幾分楽になっていて、オレは言いながら立ち上がる事が出来た。

「うん、今日はどうしても行かなくちゃならないから…文化祭近いのにゴメンね」

 美都里も立ち上がりながら済まなさそうな顔で言ってくる。その表情にはどういう陰口を叩かれていたのかとか、そう言った事を疑問に思っている節が全くない。…まあ、もし聞かれたとしても答えられるようなことじゃないから良いんだけどな。

「生徒会だって忙しいんだろ? お前は副会長なんだから仕方ねぇって。…あんまり無理すんなよ?」

 美都里が疑問に思ってない事を疑問に思いながら、オレは美都里を気遣ってみせる。すると美都里はそれだけで気が楽になったようで、穏やかな笑みを返してきた。

「ありがと、それじゃ途中まで一緒に行こ」

 そう言って美都里はオレの手を引いた。オレは美都里の言葉に頷いてから、一瞬だけ野次馬共を盗み見る。…皆一様に不満そうな顔をしてオレ達を見ていた。…どんな会話を期待していたのかは知らないが…ざまあみろと言ってやりたい。

「おう、行くか」

 しかしまあ、明日どういう噂が立つのか知らないが、これで美都里がどうのと言う噂は立たないだろう。…代わりにオレの噂が酷い物になるかも知れないが…今はそれで、良い。美都里が巻き添えを食わないだけ百倍マシだ。





 ほんの二・三分歩いて別れ道に差し掛かった時、不意に美都里が足を止めた。そして繋いだ手を握り締め、オレを先に行かせまいとする。

「どうした?」

 それでも一歩先に歩いてしまったため、オレは振り返りながら問いかけた。

 美都里は夕日に照らされた頬を――しかし夕日以上に赤くしながら半歩、オレに歩み寄った。

「さっきの話だけどさ…」

 そこまでの美都里の言葉であの時の会話を思い返してみる。

 何か改まって話すような会話をしたか? …答えはノーだ。いくら考えても思い当たる節がない。

 思い当たる事が一つでもあれば相づちを打ったが、それがなかったのでオレは黙って美都里の言葉を待つ事にした。

「雅史だったら…それでも良いよ?」

「お前何言って――」

 美都里の言葉が一瞬理解出来なかった。だからそれを問いただそうとするのと、唇に柔らかな感触を感じるのは同時だった。

 戸惑ったオレの視界一杯に、目を閉じた美都里の真っ赤な顔が広がった。そして数瞬遅れて美都里の言葉の意味を悟る。

「雅史の事好きだから…こんな私でも良いよね?」

 名残惜しむように唇を離しながら、美都里は照れた様子で言った。…どうしようもなく、頬が熱い。

「どんな美都里でも…オレは好きだぜ」

 胸に広がる暖かい感情をどう言葉にして良いか分からなかったが…これだけは言えた。

 美都里はこの言葉を聞くと、照れた表情の上に幸せそうな笑顔を上塗りしてオレを熱っぽい眼差しで見つめる。

「うん…そろそろ行くね? あんまり遅くなるとみんなに迷惑かかっちゃうから」

 幸せな笑顔の中にいくらかの寂しさを浮かべて、美都里はそのまま後ろへ一歩引いた。

「ああ、部室で待ってるから…今日も一緒に帰ろうぜ」

 こんな時にもっと気の利いた格好良いセリフを言えたらもっと良いのにと思う。でも美都里はそんな事を微塵にも思わないようで…綻んだ笑顔で頷いた。

「うん! 好きだよっ!!」

 去り際の脈絡のない言葉。何でもない時に聞いたらかなり戸惑ってしまうセリフだったが、今のオレにはジンと染み渡る言葉だった。

 オレも好きで美都里も好き。相思相愛という事が何物にも代え難い幸せだった。

「オレも好きだぜ」

 オレは不器用だ。こと恋愛事に関しては他人よりも不器用と言いざるを得ない。そんなオレにとって、態度に表すというのは何よりも苦手な事だ。だけど、言葉でしか自分の気持を伝える事が出来ないのなら、その気持が相手に伝わるまで何度も口にすれば良い。

 多分オレも美都里と同じような笑顔を浮かべていたのだろう。美都里は再び幸せそうな笑顔を浮かべると、駆け足でこの場を去っていった。

 その後ろ姿をオレは黙って見送り、姿が見えなくなった所で部室へと向かう事にした。

 部室へ行くには一度屋外へ出なくては行けない。外では珍しく寒風が吹いていたけど、今のオレには気にならなかった。





     2





 かつては校舎として使われていた建物の一室にオレが部長を務める工芸部の部室はあった。

 古くからこの街にあった三ノ宮高等学校の、その創立当初から使われていたこの校舎は、現在では数年前に出来た校舎に取って代わられ、今では部室や資料室などの雑多な目的に使われている。

 校舎自体年代物で所々ボロが出てきているが、建物自体の作りがしっかりしているのでさして気にならない。それに昔ながらの建物がそうさせるのか、夏は涼しく冬は暖かいため、一部では新校舎よりこちらの方が好きと言う者もいたりする。ちなみにオレも美都里もその中の一人だ。

 目的地である工芸部の部室は三階建ての旧校舎の最上階。

 上がるたびにきしんだ音を奏でる階段を進み、それから廊下を突き当たると『工芸部』と書かれた引き戸が左手に見えてきた。

 ドアの取っ手に手をかけた瞬間、中から男女の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 声から察するに恐らく…

「お〜っす、遅れて悪りぃな」

 ドアをくぐると案の定、部屋の中には一年生の西川歩と一番下の妹の悠がいた。既にいるはずの恵の姿がどこにもないが、どうせトイレかどこかに行っているのだろう。

「あ、お兄ちゃん遅いよ〜」

「こんちゃ、部長」

 二人はオレがやってきたのを知ると揃って口を開いた。何の気なしに二人の真ん中にある机に目を向けると、そこには数冊のマンガ本が積まれていた。少しだけ気になりその内一つを手に取る。

 それは普通のマンガのサイズにしては大判で、何かの付録かと思ってしまうほどに薄かった。

「…何だこりゃ?」

 正直な感想はその一言に尽きた。本屋でこんな形のマンガを見た事は一度もない。

「部長、知らないんですか同人誌」

 これが何かを理解出来ていないオレに、これを持ってきたであろう歩がそう言ってきた。

「同人誌…? 知らねえな。…悠は知ってるのか?」

 見ると悠はオレと似たような本を読んでいた。ちらりと内容を見ると、それはどこかで見た事のあるキャラクターが何人も書かれていた。

「うん、この間歩君が教えてくれたから。…お兄ちゃんも読んで見る? 結構面白いよ」

 そう言って悠は今まで自分が読んでいた同人誌なる物を差し出してきた。半信半疑に思いながらその同人誌を受け取ろうとすると…

「ああ、ちょっと待った。部長にはそっちよりこっちの方が良いや。部長確か格ゲーやってましたよね」

 言いながら良介はオレに悠が持っているのとは違った絵柄の同人誌を差し出してきた。その表紙に書かれた絵は、オレが今一番熱中している格ゲーの物だで、表紙に書かれているのはオレの持ちキャラの短剣使いの少女だった。

「これって最近出た新作のやつだよな? マンガなんて出てたんだ…」 

 そんな事を言いながら一ページ目をめくる。するとオレの目に飛び込んできたのは…

「こ、これは…!!」

 表紙を開いた先は当然の如く目次だった。しかしオレの目を引いたのは目次などではなく、そのバ背景として描かれたアラレもない少女の痴態だった。

「気に入りましたか?」

 目をむいて硬直してしまったオレを見てほくそ笑んだ良介が、意味深な笑みを浮かべて問いかけてきた。

「あ、ああ…しかしスゲェなこれ」

 歩の問いかけに頷きながら、オレはマジマジと同人誌のページをめくっていった。

 ページをめくるたびに表紙に書かれていた少女が様々な痴態を演じていく様は、どんなエロ本よりも凄い物があった。なまじそのキャラクターを知っているから余計にそう思う。

「え、何? そんなに面白いの? お兄ちゃん次見せて」

 悠もオレの様子からただならぬ物をこの同人誌に感じたのだろう。ただ、オレが感じた事と悠が感じている事に大きな差があるのは否めないが…

 しかしいくら可愛い妹の頼みと言ってもこればかりは聞く訳にはいかない。年頃の女の子…しかも自分の妹にこんな猥褻物を見せられる訳がない。

「いや、多分悠にはそっちの方が良い。お前格ゲー嫌いだろ? これそう言うのが一杯出てっから」

「そう? なんだぁ、じゃあ私は遠慮しとくよ」

 オレの言葉を鵜呑みにした悠は、再び最初に読んでいた同人誌に視線を移した。

「…歩、これ返しとくわ」

 これ以上見続けて悠がまた興味を持ったら今度はどう言いくるめればいい? それを心配したオレは早々に同人誌を歩に返した。

「また見たかったら言って下さい。その時はもっとハードなのも用意しますんで…けひひひひ」

 同人誌を受け取りながら、歩はある種、男にしか意味が通じない表情でそう言った。オレも歩と同じ種類の表情を浮かべながら小さく頷く。

 そんな男同士のやり取りの後、今まで蚊帳の外にいた悠が突然声を上げた。

「あっ、すっかり忘れてた。お兄ちゃん、これあげる」

 そう言いつつも、悠は足下の鞄からクッキングペーパーで包まれた何かを取り出した。

 その様子を見ていた歩が呆れたような声を上げた。

「何だよ、誰にあげるのかと思ったら部長かよ。つっまんねえの〜」

「別に西川君が面白くなくても良いもん。はい、お兄ちゃん。これ昨日の夜作ったの。お腹減ったら食べて」

 心底嘆息している歩に向かってむすくれた口調で返した後、それとは正反対に満面の笑顔でもってオレにそれを差し出してきた。

「サンキュ。…今回はクッキーか?」

 紙越しに伝わる中身の感触を読みとって、オレは悠に問いかけた。

「そうだよ。クッキーは割と得意なんだ。だから後でまた感想聞かせてね」

「今回? またぁ〜? っかぁ〜、いつもいつも誰にあげてんのかと思えば…」

 オレと悠のやり取りを一部始終聞いていた歩は、その会話から何かを読みとったらしく、先程以上の呆れ声を上げた。

「もう、私が誰にプレゼントしても関係ないでしょ?」

 度重なる横やりに業を煮やしたのか、悠は苛立たしげな口調で反論した。

 すると歩は、そんな悠の言葉を肩を小さくすくめただけで受け流す。

「いや、確かに関係ないけどさ。黙ってない人が他にいるだろ? 例えばほら、部長の後ろとかにさ」

 そして言いながら意味ありげな視線をオレに…いや、オレの背後に向けた。

「…後ろ?」

 歩の視線を辿って後ろを振り向くと…

「ゆ、悠やん…! わいにはなんもくれへんで雅さんにはこんなものを……」

 果たしてそこには滝のような涙を流す芹川良介の姿があった。

 良介は誰を見るでもなく、ただオレの手にあるクッキーを見つめ何かを耐えるように拳を震わせる。

「は…そう言う事…」

 情けない顔をした良介に視線を固定したまま、少なからず恐怖に駆られたオレは一歩後ろに下がる。

 その途端、良介の涙目がクッキーからオレ自信へと対象を変えた。

「雅さん…高ぉ買うでぇ…」

 暗い光を目に宿しながら良介はじりじりと躙り寄ってきた。

「お、おい。お前なんか目がやばいぞ…」

 良介から溢れ…いや、染み出す威圧感に気圧され、後ずさりを余儀なくされる。そうしていくらか後退を繰り返して常に一定の距離を保っていたが、ついには部室の隅に追いやられてしまう。そしてクッキーへと伸びる良介の魔の手。

「ま、まあ待て良介。そんなにこれが欲しければ少し分けてやるから…だから――」

すっかり理性を失った良介に対し、オレは必死の説得を試みる。何故ってこうでもして置かないと勢い余ってオレまで喰われそうなんだもんよ。

 オレの必死の説得が通じたのだろうか。良介はオレが少し分けてやる…と言った瞬間、人としての何かをその瞳に取り戻す。

 それを見てオレもようやく安堵のため息をつく。これで…助かる…

「芹川先輩に上げちゃ駄目…」

 と、思ったのもつかの間。たった一人の兄の苦労を無為にする悠の、笑えない一言。

「むきャーーーーー!!」

「はやまるなぁぁぁぁぁ!!」

 そんな悠の言葉を聞いてしまった良介は、せっかく取り戻しかけた理性のかけらを殴り捨て、再び獣となって今度はためらわず襲いかかってきた。

 ――もう…駄目だ。そう思って諦めと共に瞼を降ろした瞬間――!!

「天ッ誅ゥゥゥゥゥゥゥ!!」

「ィヒプ!!」

 高らかなその言葉と同時にこの世の物とは思えない奇怪な声が部室に鳴り響く。

 怖々目を開けると…

「か…かぺぺぺぺぺぺぺ…」

 眼前には顔を真っ青にした良介が、今まさにオレの手にあるクッキーに触れようとしている所だった。後数センチで目的のクッキーまで手が届くというのに、良介はそれを実行しようとはせず、何故か額に脂汗をにじませている。

 訝しく思ったオレは視線を巡らせ――そして気付く。良介の背後に浮かんだ残忍な笑顔と、良介の股間に生えた女の足を…

 まあ、生えているというのは適切な表現ではないだろうが……見るに耐えん代物だ。

「ふふ…第二の人生を歩むが良いわ。…ってか、いい加減悠の事は諦めたら? アンタだって今の悠の台詞聞いたでしょ?」

 上げていた足をゆっくりと降ろし、恵は勝ち誇ったような顔で言った。同時に恵の足という支えを失った良介は力無くその場に崩れ落ちる。

「ぐ、ぐぐぐぐ…え、ええねん。わいは悠やんが振り向いてくれるまで諦めへんねや…」

 内股になって股間を押えながら立ち上がると、良介は恨めしそうな顔で恵を睨んだ。

「その痛み、オレには分かるぞ良介。…オレもさっき食らったからな」

 少し前の自分を見ている気分になってしまい、良介の肩に手を乗せて同情する。

「くっ…同情すんねやらそれくれや……」

 しかし良介は余計なお世話とばかりに体をよじってオレの手を払い、次いでそんな事を言ってきた。

「いや、それは駄目」

「…こいつら兄妹そろって血も涙もないで…悠やんは別やけどな」

 こんな状況下にあっても悠を別視する辺り流石と言える。だけど悠が酷い事を言ったからこうなった事に気が付いていないのだろうか?

 とは言え良介が一途に悠を思っているのには変わりない。だから…と言うわけでは全くないだろうが、そんな良介に対して神様はオレ達には想像も付かない方法で報いを与えた。

「…芹川先輩、これ…もしよろしければどうぞ」

 そう言って悠が良介に歩み寄り、オレに渡したのと同じ…いや、それ以上に大きな包みを差し出したのだ。

『はぁ!?』

 理解不能な悠の行動に、その当事者たる悠と良介以外の人間が異口同音に声をハモらせる。

 …部室中に疑問符が飛び交う中、股間を押さえて蹲る良介の瞳に鬱陶しいほどの涙が浮かぶ。

「くぅ…悠やんやっぱワイの事…もう…もう……辛抱堪らん!!」

 本当に今し方金的を打たれた人間かと疑わんばかりの動きで、良介はクッキーに…ではなくそれを差し出す悠に抱きついた。

「あっ…痛いですよぉ…それにみんなが見てます…。芹川先輩…聞いてますか…?」

 拘束された体を必死に動かし、良介を見上げて悠は抗議する。

「聞こえとる…聞こえとるで…!! せゃかてしゃーないやんか、悠やんが可愛すぎるんがいけないねんで?」

 良介はそんな悠の耳元に顔を寄せると、咎めるような口調で…しかも感極まった声でそう言う。

「そんな…可愛いなんてお兄ちゃん以外に言われたことないですよぉ」

 頬どころか耳まで真っ赤にした悠は、首を巡らせてオレを見つめた。

 だが、こんな状況下でこっちを見られてもオレは何もすることが出来ない。だから当然、困惑の眼差しを返すことになる。

 悠はそんなオレの事を見てから、今度は良介の事を見上げる。それにつられてオレも良介の顔に視線を移す。そしてオレの目に映った良介の表情は…とても寂しそうな…悲しい表情だった。

「…また雅さんなんやな。…やっぱ悠やんの中には雅さんがいるんやな…」

 そう言うと良介はそっと悠の体を解放し、諦めにも似た悲哀混じりの眼差しを悠に向けた。

「芹川先輩…?」

 まさか良介がこんなに早く解放するとは、悠自身思いもしなかったのだろう。もしかしたらそれ以前に良介がどう言った理由で解放したのかが分かっていないのかも知れないし、良介の視線が言わんとする事が分からなかったのかも知れない。…オレも分かんねぇけどな。

「悪かった…つい嬉しなってしもてな。…堪忍な」

 言いながらも良介はバツが悪そうに悠の瞳から視線を逸らす。そして何かを言おうとする悠の言葉を待つことすらせず、まだ悠の手にあったクッキーを手に取る。

「大事に食うき…ホンマありがとな」

 ここで再び悠の目を見て…そしてすぐに視線を逸らす。まるで何か気負っているかのように…

「あ、はい。…あの…ごめんなさい。私なんだか先輩の気に障るようなこと言ったみたいで…」

 泣き出しそうな顔をして、悠はおろおろと狼狽する。そんな悠に対して、良介は打って変わって優しい眼差しで悠の頭をなでる。

「悠やんは悪ない。悪いんはワイや。大人になりきれへんワイがアカンねや」

「それってどう言う…」

 悠の問いかけを体を背けることで振り切り、良介は床に置いてあった鞄を拾う。

「すまん…今日はこれで帰るわ。また明日部室で会おか」

 その言葉を最後に良介は部室を出て行く。

「どうしたんだいきなり…」

 後に残されたオレを除く部員全員は、それが余りに突然な事だったので良介が出て行った後の扉を見て、何も言えず黙っていた。

 部室内に立ちこめる何とも言えない気まずい空気。各人その気まずさから、会話すらもままならない状態だった。

「…まぁ、ここで私たちが気まずってても解決しないわね。なんだかこれから部会も出来そうにないし…今日はこれでお開きにしましょっか」

 現状で考え得る打開策はどこにもなかった。今から良介を追いかけて真意を聞けばよいのだろうが、そんな事が出来るほど図々しい人間はあいにく工芸部には存在しない。

 そんなわけで恵のこの言葉に反対する者は誰一人としていなかった。

「…そうですね。まあ良介先輩のことですから明日あたりにはケロッとしてるかも知れませんし…今日の所は僕も帰ります」

 戸惑いを隠しきれない表情で、歩が誰にとも無しに言い、荷支度を始める。

「そう…だね、私も帰る。…お兄ちゃん達はどうするの?」

 …誰かが提案して、それに他の誰かが賛同すれば、こういう状況だと皆同じ行動をとるケースが多い。別にそれを悠が知っているわけでは無いだろうが、そんな問いかけをしてきた。

「私は帰るけど…兄貴は美都里さん待ってるんでしょ?」

 悠の言葉を受けて、今度は恵がオレに問いかけてきた。

 オレはその言葉に頷いて答える。

「ああ、待ってるって約束したからな。二人とも先に帰ってろよ」

「ん、そうする。…それじゃ悠、晩御飯の買い物してから帰りましょ」

 意味深な笑顔で答えながら、恵は鞄を手に取った。

「うん、ばいばいお兄ちゃん」

 恵が自らのそばまでくるのを待ってから、悠はオレに向かい手を振ってきた。オレはそれに向かってぶらぶらと手を振って答える。

「んー、気をつけて帰れよ」

「兄貴戸締まりよろしく。さっ、帰りましょ」

 自分でも窓を一通り見渡してから恵は言った。そしてオレの返答を聞こうともせず、悠を連れて部室を後にする。

 オレは二人の妹の後ろ姿を見送ってから完全に人の気配がなくなったのを確認し、誰もいなくなった部室で深いため息をついた。

「あぁ〜くそ、何かドタバタした日だな」

 人口密度が減って、その代わりに寒さが増した部室でそう独りごちてから、視線を部室の隅に保管してある水彩画郡へと移す。

 そこには粗末な布にくるまれたキャンパスが軒を連ねており、その布に薄くつもった埃は、その絵がそこに置かれたまま放置されている事を無言で語っていた。

 しかしそんな埃にまみれた周囲のキャンパスとは違い、何故か一つだけ真新しい布にくるまれたキャンパスがそこに紛れ込んでいる事を、他の部員は気づいていない。

 完成するまではたとえ美都里にであろうと見せない…。そう決めたオレがここへ隠したのだ。…木を隠すのに適したのが森ならば、絵を隠すのならやはり…と言うことだ。

 そう言えば最後に描いたのはいつだったか…

 別にこの絵の存在を忘れていたわけではない。ただ、この絵だけは満足の行く最高の物に仕上げたいのだ。

 そんな事を目指しているのだから、普段みたいに絵の具をキャンパスに乗せる行為だけでは出来るはずがない。その日に感じた事…特に、永遠に残しておきたいと思った事を絵の具に乗せて描かなくてはいけない――そう思っていたから描いていなかったのだ。

 最近学校に来ても、これは――! とか思うような事がなかったからな…

「…でも待てよ? 美都里が言ってた事で描きゃ問題ねえか?」

 あの時の言葉は冗談抜きで嬉しかった。人に言えた話じゃないが、永遠に残しておきたい言葉ではあった。

「むぅ…」

 この事で絵を描くか描くまいか、オレは考えあぐねた。そして出た結論は…

「…やめとくか、あれで描いてたら絵がピンク色に染まりそうだ」

 いや、冗談抜きで。なにせあの時の美都里を思い出すだけで体が大変な事になる。

「まあ良いや、文化祭までに描き上げりゃ良いわけだし、別に急ぐこともねえや。…つーか寒くなってきたな。ストーブはまだねえし…」

「何を文化祭まで描き上げるの?」

 寒さで肩を震わせていると背後から予期せぬ言葉が聞こえてきた。そしてそれと同時に感じる柔らかく暖かい感触と、シャンプーの甘い香り…

 それは余りに突然なことだったが…それについてはさして動じることもなく、横目でその人物を確認する。

「結構早かったな。もう生徒会は良いのか?」

 オレは首に手を回して無邪気にじゃれついてくる美都里に向かいそう言った。

「うん、大した仕事じゃなかったし、あんまり雅史待たせておくのも嫌だったからパパッと片づけてきたの」

「へへっ、嬉しいこと言ってくれるね。…だけど生徒会の仕事もしっかりな」

 顔のすぐ横にある、すべすべした美都里の顔に頬を当てながらオレは言う。

 すると美都里はくすぐったそうに笑いながら、より一層強くオレを抱きしめてくる。

「分かってる。生徒会だけじゃなくってこの部活も…雅史のこともしっかりするよ♪」

「まったく…ホントお前はオレのツボ心得てるよ」

「そりゃそうでしょ、何年付き合ってるのと思ってるのよ。雅史のことなら何でもお見通しー」

「へへっ、そうだな。んじゃあ、そろそろ帰るか? 最近寒くなってきたから遅くならない方が良いだろ」

 そう言いつつも美都里の手に自分の手を重ね、新校舎からここに来るまでにどれくらい冷えてしまったかを確かめる。…かなり、冷たい。

 もしかしたら生徒会の仕事は色々なところを駆けずり回るような物だったのかも知れない。

 さっき美都里はパパッと片づけてきたと言っていたが、それのせいでこんなに体が冷えたのだとしたら…それはやはり心配でしかない。

「んっ、それもそうね。それじゃ帰りましょ」

 美都里がそう言って、オレ達は各々の身支度を整える。そして何となく美都里に視線を向けると、美都里はこちらを見ながらオレを待っていた。オレが目を向けた事に気付くと、首を傾げて笑い掛けてきた。

 何か用…? とでも思っているのだろうが、別に用なんかありゃあしない。だからオレはその笑顔に対して首を振ろうとし…ある事に気がついた。

「おい、コート着てこなかったのか?」

 驚いたことに美都里は防寒着らしい物を何一つとして持ってきていなかった。マフラーも、手袋も何もかも。申し訳程度にしか寒さをしのげない冬服を着ているだけの服装で鞄を両手に持っていた。

「あ、あはは。…実は今日寝坊しかけたのよ。それでドタバタしてたらつい…ね?」

 とか言いながら言葉尻に軽くウインク。可愛さで誤魔化そうとしているのが良く分かった。

「ばか。笑ってすまそうとすんな。…寒くねえのかよ?」

 美都里に歩み寄りながら問いかける。すると美都里はいつもと変わらぬ笑顔で答えてくる。

「別に寒くないわよ。今の時期ならこの服装でも良いかもね♪」

 そう答える美都里の事を、オレはじっと見つめる。そしてしばらく見つめて…浅い溜め息を吐きつつ着ていたコートを脱ぐ。そしてそれを、微かに肩を震わせ、それでも寒くないと言い張る美都里に羽織らせた。

「やせ我慢すんなばか。風邪でも引いたらどうすんだよ」

 コートのボタンをきっちり掛けてやりながら咎めるような口調で言う。

「うん…ごめん、ありがとね。でも私にコート渡したら雅史が寒いでしょ?」

 片手でオレの制服の裾を握りながら、美都里は心配そうな眼差しで問いかけてくる。

「寒い気もする。んでも構いやしねえよ。つーかお前が風邪引かなきゃそれで良い」

 ぶっきらぼうにそう言うと、美都里は一瞬だけ優しい笑顔を浮かべたが、次の瞬間に一転して困り顔になる。そしてこう言ってきた。

「それじゃ私が良くないよ。私だって雅史に風邪なんて引いてほしくないもの」

「そりゃオレだって引きたかねえって。まあ優先順位の差だな。…ちなみにコートの返却は許可しねえぞ?」

 とか言っている間にコートを脱ごうとしている美都里に、そう言って少し遅い釘を刺す。

 すると美都里は動きを止め、恨めしそうな顔をして睨んできた。

「…いぢわる」

「はははっ、意地悪で結構だよ。それよか帰ろうぜ? いつまでもここにいてもしょうがねえだろ」

 ブスッとして頬を膨らませる美都里に向かい笑顔を向けた後、視線を巡らせて戸締まりを確認する。

「ほんっと、言い出したら聞かないんだから…まあ良いわ。それじゃコートはありがたく借りとく。…電気消すわよ?」

 一通りの戸締まりを確認し、オレの帰り支度がすんだのを見計らって美都里が問いかけてきた。それに対してオレは無言で頷く。

 そして電気が消され、オレ達は部室を出た。扉を閉めて鍵閉めて…数歩歩いた後に部室を振り返ると、そこにはつい数十分前には騒がしかった部室がひっそりと、親友に別れを告げられた時に似た寂しさすらたたえてオレ達を見送っていた。





     3





「…さぶっ!!」

 旧校舎から一歩足を踏み出した瞬間、季節を疑うほどの寒風が吹き荒んだ。

 日は既に落ち、灯りと言えば背後に旧校舎の灯りがあるだけだ。その上目の前にそびえる新校舎はすべての光が消えており、鬱蒼とした物すら感じられた。

「ふふっ、やぁっぱり。…どうする? やっぱりコート着る?」

 昇降口の前で靴を履くのに手間取っている美都里を待っていると、不意に背後からそんな笑い声が聞こえてきた。

 振り返って、見ると、そこにはオレのコートを大事そうに羽織った美都里が笑顔を浮かべて立っていた。

 オレは寒さに震えながらもその言葉を懸命に拒否する。

「それだけは絶対にやだ。我慢して帰る」

 ここまで外が寒いとは思わなかったせいか、少しだけ意固地になっているのかも知れない。必要以上にぶっきらぼうな口調で言ってしまった。

 そんなオレを見て美都里は再び笑い声を上げて歩き始めた。オレも美都里に合わせて歩き始める。

「…やっぱり寒い?」

 しばし無言で歩き続けて、校門を通過した辺りで美都里がそう問いかけてきた。

「んな当たり前のこと聞くな。寒いにきまってんだろ?」

 指先は既に痛みを伴う寒さに蝕まれていた。気温が低いのもさることながら、風が強いのも原因だ。

 かじかむ手をかばうため、ポケットに手を突っ込む。すると美都里が――何を思ったかするりとオレの腕に自らの腕を巻き付けてきた。

「これなら少しはマシじゃない?」

 とか言いながら美都里はオレの腕を抱き寄せ、体を密着させてきた。部室でも嗅いだ甘い香りと、女らしいふくよかな箇所が腕に密着して、えも言えぬ心地良さが駆け抜ける。

「お、おい…誰かに見られたらどうすんだよ」

 今の姿をあの時の外野共に見られでもしたら、せっかくの苦労が台無しになってしまう。それで美都里が変な噂の対象になるのは避けたい事柄だった。

「むふ、気にしない気にしない。雅史だってこう言うの嫌いじゃないでしょ? それに今更離れろって言っても許可しないし」

 言いながら美都里は腕に力を込め、さらに密着度を高くする。

「嫌いなわけあるか。…はっきり言って恥ずかしいけどな」

 下校している連中の姿はどこにも見受けられないが、それでも通行人がいる。そいつらが時折オレ達のことをチラチラ見ているのが恥ずかしかった。

 もちろんオレがこの程度の事でガキみたいな拒絶応を起こすわけがないのだが…

「恥ずかしいのは私だって同じだよ。こーゆーのは気にしなかった人の勝ちなの。今すれ違った人と知り合いなわけじゃないんだから…」

 周囲を見回しながら美都里は言う。

「とか言ってる美都里さんが一番気にしているのでした、ちゃんちゃん」

 妙にそわそわして辺りを見回す美都里をからかってみたくなって、オレはそんな意地悪を言ってみた。

 すると美都里は意外な事に比喩抜きで顔を真っ赤にし、ふてくされた口調でこう言ってきた。

「そーゆうこと言わない。…ホントに恥ずかしいんだから」

 言葉尻に近づくにつれ、だんだんと声が小さくなる。それに目を合わせようとしない辺り、本当に恥ずかしがっているのが良く分かった。

「ははは、んじゃさっさと帰った方が良いな。近道してこうぜ」

「と言う訳で善は急げ」

 美都里はオレの提案を聞いた途端、急に歩くスピードを速めた。

「っと、…おいおい、んな急がなくても良いだろ?」

 先を歩く美都里に引っ張られる形で歩きながら、オレは美都里の背に問いかける。

「やだ、取りあえず学校から離れたい」

 背後から見える美都里の顔は、耳たぶまで真っ赤になるほど赤面していた。それを見た瞬間、たまらず苦笑してしまう。

 それが聞こえたのかどうかは知らないが、オレが苦笑したのとほぼ同時に美都里の歩くスピードが更に速くなったのは確かだ。





 …結局、美都里がいつものペースまで速度を落としたのは、三ノ宮の生徒が近道としてたまに使っている裏道に来た時だった。

 美都里にとっては速いペースで歩いていたためか、傍目に分かるほど息を切らせている。

「そんなに恥ずかしかったら腕組まなきゃ良かったんじゃねえか?」

「そしたら…寒いでしょ? 仕方、ないじゃない」

 …実を言うと美都里に合わせて歩いていたため、最初に外に出た時程の寒さは感じていなかった。だがこんな事を今の美都里に言おう物なら良い顔をされないのは目に見えている。

「まあ、な。…なぁ、どっかで一休みすっか?」

 よほど疲れているのか、抱きしめたオレの腕に体重を預け、よたよたと歩いている美都里に向かい、オレはそんな提案をした。

「そうしたいのは山々だけど…今日はもう遅いからやめましょ。あんまり遅くなると恵ちゃんに怒られちゃうでしょ?」

 それだけ言うと美都里はそうそうに歩き始める。オレは内心残念に思いながらも美都里を気づかい、いつもより遅いスピードで歩を進める。

 オレ達は当初の目的通り、通学路から見て脇道にのびた近道と称される細長い道を歩いている。

 周囲には民家がまばらにあるだけで、それ以外にはだだっ広い空き地が広がっているだけだ。

「そりゃそうだけどよ…」

 美都里と付き合い始めておよそ丸二年と少しが経過しているが、その時からオレは変わらず二人の時間を大切にしている。そしてそれは美都里も同じ考えで、余程の事がない限りは今みたいにゆったりと歩くことを常としている。…今は美都里が疲れてるからっていうのもあるんだけどな。

 そうしてゆっくり歩いてしばらくして…美都里が突然笑い声を漏らした。

「なーに笑ってんだよ」

「あはっ、ごめんごめん。だってこの道歩いてたら二年前のこと思い出しちゃってさ」

 二年前…と言えばオレが美都里と付き合い始めた頃だ。この道を歩いていて思い出したのが二年前の事というのであれば、思い当たるのは一つしかない。

「つーことはあれか、オレがお前に痴漢呼ばわりされた事件だな?」

 思わず美都里と同じ笑顔を浮かべて言ってしまう。それだけあの事件がオレ達の想い出になっている証拠だ。

「うん。あれ思い出したら何だかおかしくなっちゃって。あの時の雅史の顔…あはは!! 傑作だわ」

「ひっでぇなお前。オレがあの時どんだけ苦労したと思ってんだよ」

 とか言いながらも顔に浮かんだ笑顔は消えない。それどころかますます深くなっていると自覚することが出来た。

 …ちなみに痴漢呼ばわりされたと言うと悪い話のように聞こえるだろうが、オレ達にとってそれは正反対だ。

 何故ならこれこそがオレが美都里との馴れ初めであり、こうやって付き合うようになったきっかけであるからだ。

「ふふふ、ごめんね。でも今思うと良い想い出じゃない? それに何だか運命的な出逢い方じゃない。私が落とした定期を雅史が拾ってくれたなんて…」

 傍らから見上げる瞳には過去を懐かしむ美都里の気持ちがよく見えた。…だけどそんな目を見るとつい意地悪したくなるのがオレの悪い癖で…

「そうだな、拾ってお前に返そうとして走ったのは良いけど、とんでもない勘違いをしたお前が痴漢と間違えて逃げたんだったな。…あ、確かに今じゃ良い想い出だ」

「またそうやって意地悪ゆー。そんな事ばっか言ってると別れちゃうぞ?」

 それを笑顔で受け止めた美都里が冗談を言うのがオレ達の通例となっていた。

「はははっ、それは勘弁」

 そしてオレが冗談めかした口調で拒否すると美都里は笑い声を上げ、不意に真剣な表情をして見せた。かと思うと次の瞬間には今まで組んだままだった腕を解放し、それから今度は身を擦り寄せ、オレの体に両手を回して抱きしめてきた。ちょうど美都里にとうせんぼされた形になってしまい、やむなく足を止めた。

 急変した美都里の表情と突拍子もない行動に戸惑い、オレは美都里の顔を見ようとした。しかし美都里の顔が胸に密着している事と、何故か顔を背けていたのでその表情を伺うことは出来なかった。

 しょうがなく、言葉でどうかしたのか聞こうとするとすると、美都里が先んじてこう言ってくる。

「…私は雅史のこと嫌いになんてならないから。…だから雅史も――私のこと嫌いにならないで」

 そう言う美都里の声は不安か怯えからか、微かに震えていた。

 目の前でオレに抱きつく美都里を見て、正直に言えばオレは美都里の行動を理解出来ずにいた。

 こんな会話になってきたのだって元はと言えば美都里が想い出を話すからだったし、オレの意地悪にしたって今に始まった事じゃない。それにオレの意地悪を美都里は冗談で返してきたではないか。

 …何一つとして理解するための手がかりのない、世界一複雑なロジックを突きつけられた気分だった。

 だけどオレは幸いにも恋人が――不安か何かは全く分からないが――震えているときに掛ける言葉を見つけることが出来た。

 それは至極単純な…だけれどもっとも大切な言葉。オレはそれを知っているし真摯な気持ちで言うことが出来る。

 オレは震える美都里の髪に手を絡ませ、その言葉を紡ぐ。

「オレが嫌いになるわけねえよ。なんつったって将来まで色々と考えてんだからな」

 …後三ヶ月程でオレ達は毎日会うことが出来なくなる。オレが就職、美都里が進学を目指しているから、それは考えるにさしたる時間も必要としない単純な事だ。

 互いの時間に都合をつける事が出来れば良いのだが、恐らく最初の一ヶ月…いや、もしかしたら一年は慣れない環境のため時間的な都合や精神的な都合がつきにくいと思う。

 美都里はそんな時にオレが別の誰かを好きになってしまったら…そんな事を考えてしまい、恐れを抱いているのかも知れない。

 相手が離れたところにいる。会いたい時に会えない。相手が何をしているのかを知る術がない。…それは全部、今までの安穏とした学園生活では考えられない事だった。

 とは言え実際に新しい生活をしてみれば拍子抜けするほど簡単に解決する問題だと思う。直接会うことが出来なくても電話をすることが出来るし、土曜日や日曜日には会う事も出来るはずだ。それにオレが就職すると行っても普通のサラリーマンではないから平日に休めることだってあるだろう。

 …だけど美都里は人一倍こう言うことに敏感だからこそ、目の前に迫った不安に駆られてしまいそれに対処する術を見いだせないのだろう。

 ――とは言え流石に不味いことを言ってしまったかも知れない。今の自分の言葉を反芻するにどう考えても…

「あ…それってもしかして……プロポーズ?」

 としか考えられないよな…。まあ半分以上本気で言っていることだから問題はないけど…やっぱ早すぎるよな…

 しかし前言を撤回するには遅かったし、そんな事が出来る雰囲気でもなかった。…となればオレの取る道は一つしかない。

「――文句あっか? オレがこう思ってたら迷惑かよ?」

 もはや開き直るしかないだろう。言い方が悪ければ素直になると言い換えても良い。

 オレは美都里の体を抱き寄せ、熱くなった頬を自覚しながら美都里の温もりを感じる。

「迷惑じゃないよ…それって私のこと愛してるって事なんだよね? それだったら…迷惑じゃないよ。…私も雅史とそうなっても良いかな…なんて思ってたから」

 答えながら…美都里はオレに体を預ける。

「…雅史の馬鹿。変な事言っちゃったら…帰りたくなくなっちゃったじゃない」

「――だったら泊まりにこいよ。部屋なら…余ってる」

 美都里は俺の誘いに対して長い逡巡の後、オレの胸の中で頷いた。

 そしてそれからはお互い無言で、俯き加減に寒空の下を並んで歩いた。

 風が強くて鼻とか耳が痛くなったりして本当に寒かったけれど…しっかりと繋がった手と心は暖かい温もりに包まれていた。





第一話終了





あぃ〜、何とか書けました…

桜香さん遅れてごめんなさい。遅れに遅れた割にしょぼい小説ですけど勘弁してください。

…えっと一応この小説は後…二話か三話くらいで終了する見込みです。

次の話からダーク路線を走ってみようと考えているので覚悟して下さいね♪(m(_ _)m)

桜香さんのHPの面汚しになっちゃうかも知れませんけど、どこか隅っこに置いてくださると嬉しいです。

次のお話がいつ出来るかはちょっと分かりませんけど、ちゃんと完成させまっす!

そんなこんなでさようなら〜



ユタカ





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