Stay Dreamer 第二話  日々を振り返って





     オレの目覚めはいつも悪い。

 別に朝は低血圧だとか、毎日夜遅くまで起きているから…とかではなく、ただただ最悪だ。

 何故最悪かと言えば、それはもう説明するまでもないはず。

 我が家が誇るアマノジャク娘が、朝早くに…それもまだ眠っていても支障のない時間に叩き起こしに来るからだ。

 今日も今日とて例に漏れずオレの部屋の扉が勢い良く開いた音で目を覚ます。

「起きろ兄貴!! 起きて私のために馬車馬のように働け!!」

 寝ぼけ眼でドアの方を見やると、そこには制服の上にエプロンを着た恵が、フライ返し片手に立っていた。

 それを確認したオレは恵から視線をずらし、机の上に置いてある、今ではただの時計に成り下がってしまった目覚まし時計に目を向けた。

 時間は…早朝六時。自宅から学校までの徒歩二十分を考えると早すぎる朝だった。

 その上昨日は三時過ぎに美都里の所に行ったから疲れている上に眠くて仕方がない。今美都里を起こしに行ったってオレと大差ない反応をするだろう。

「うるへ〜、後三十分くらい寝させろ〜」

 無駄だと思いつつ布団にくるまり抵抗を試みる。

「黙れ朴念仁。私一人で一切の家事が出来ると思ってんの? 少しは手伝いなさいよ」

 オレが逃げに走ったのを見た恵は、遠慮なく部屋に入り込みオレの布団を力任せに剥ぎ取る。

 その途端に暖かい布団の温もりから一転して早朝の寒々とした空気がオレを包み込む。

「後三十分寝たら手伝ってやっから…取りあえずあっち行け」

 普段はこの段階になると仕方なく起きるのだが、今日は剥ぎ取られた布団を奪い返すなどで抵抗してみる。

 すると恵は何故か笑顔…それも好意的なのか悪意だらけなのか理解しがたい物を浮かべ、オレに背を向け部屋を出て行こうとする。

 その姿にただならぬ恐怖を覚えたオレは、眠気を忘れて思わず呼び止めてしまう。

「ちょ、ちょっと待て!! 何かお前変なこと考えてないだろうな!?」

 オレの制止する声に恵は…肩越しにニヤリと笑った。

 ――ふ、不吉すぎる!!

 それを見た瞬間、オレの中の本能を超越した何かが激しい警鐘を鳴らす。

「今行くから待て!! 頼むから早まった事するな!!」

 必死の呼びかけに応じ、部屋の前で立ち止まる恵。その顔にはなにやらさっきとは違った笑顔が浮かんでいて…

「あははっ、別に何もしやしないわよ。たまにはゆっくり寝させてあげようって思っただけ」

 それは紛れもなく優しい笑顔だった。

「…まぢで?」

 いたわりの言葉とその優しげな笑顔が半ば信じられなくて、オレは問いかけてしまう。

 恵はオレの言葉にこっくりと頷き――

「だってしょうがないじゃない。二人とも遅くまでお盛んだったんだし。…そりゃあ今日は一人分多くご飯作らなくちゃいけないとか、アンタらの後始末は誰がするんじゃい…とか思ってたりするけどさ。どーせ腰に力入らないだろうからいても邪魔かなーなんて思ったわけよ。お分かり?」

 もの凄い呆れ顔で一息にそう言った。しかも随所に渡って感情のこもった口調だった。

 この言葉は本心だ…そう思わせるには充分すぎる熱の入りようだった。

 そんな恵にオレが一体どんな反論をする事が出来るだろうか? …出来るわけ…ねぇよな?

「ごめんなさい。精一杯お手伝いさせていただきます…」

 泣く泣く布団の上で土下座をするオレに一瞬だけ見えた恵の表情はどこか満足げだった。

 だけどその中に幾ばくかの寂しさが混じっているように見えたのは…多分オレの見間違いだろう。



     2



 制服に着替えてから一階の客間で眠っている美都里を起こして、その日の朝は慌ただしく動き始めた。

 まず最初に寝惚けた美都里と後始末の役割分担を決めた。

 だが寝惚けたままの美都里に出来ることと言えばそう多くはない。なので自動的にオレが大きな事をやるこになった。

 具体的に言えばオレがベッドシーツの洗濯、美都里が部屋のゴミ捨てだ。

 しかし洗濯をする時になって恵の馬鹿たれが洗濯機は使うなとか言い出したせいで思いの他時間がかかったが…それでも全てが終わる頃には、ちょうどいつも朝食を食べている時間になっていた。

「ふい〜、今終わったぞ〜い」

 手分けした作業を全て終わらせたオレ達は連れだってダイニングにやってきた。…が、室内には恵はおろか悠の姿も見受けることが出来なかった。その代わりテーブルには出来立ての朝食…ベーコンエッグにレタスとコーンのサラダ。それにフレンチトーストがうまそうな湯気を立ててオレ達を待っていた。

「わ、美味しそ…」

 それを見た美都里が心なしか目を輝かせてそれらを見る。その時キッチンの方から恵がひょっこりと顔を覗かせた。

「あ、終わったの? お疲れさん、後は飲み物出すだけだからちょっと待ってて。あ、でも兄貴は悠の様子見てきてくれない? あの子さっき行ったらまだ寝惚けてたから…」

 悠が降りて来ないことにはオレ達は朝飯を食べる事が出来ない。流石にこれの言葉には素直に従う事にした。

「ああ、分かった。んじゃ美都里、適当に座って待ってろや」

「そうする〜」

 美都里はオレの言葉に対し、食卓に並べられたメニューを凝視しながら手近な椅子に座った。

「先に食べるんじゃねえぞ」

 どうにも美都里の様子がおかしいのでダイニングを出る前に一応釘を刺すことにしたが、朝食を凝視しながらやる気なさそうに手を振る辺り信用できたもんじゃない。

 そんな美都里…と言うよりも、オレ達の分の飯を心配しながらもオレはダイニングを出て二階へと続く階段を上る。

 …階段を上って見えてくる二つの扉のうち、手前の部屋。そこが悠の部屋だ。

 ちなみに恵の部屋はその奥で、オレの部屋は一階にある。

 部屋に入る前に二三度扉をノックした後、中にいる悠に向かって室外から呼びかける。

「おーい、起きてるか悠〜!」

 すると返事の代わりにドアノブが回転し、ゆっくりとドアが開いていった。もちろんオレが開けているのではない。起きて支度を整えていた悠が出てきたのだ。

 しかし出てきた悠の顔を見る限り…どうやら半分以上夢の中にいるようだ。

「お兄ちゃん…おぁょ〜」

 先ほどのノックと呼びかけが聞こえていなかったのか、悠はオレが部屋の前に立っているのを見て寝惚けながらも少しだけ驚いたようだった。

「おはよーさん、支度はもう良いのか?」

 きっとうたた寝をしながら髪の毛をセットしていたのだろう。よく見ると後頭部のあたりに寝癖が残っていた。

 しかも悠はその事に気づいていないようで、寝癖を気にしている素振りは全くなかった。

「おいおい、ちゃんと起きろよ。寝癖、後ろに出来てるぞ」

「あぃ〜?」

 オレの言葉を聞いた悠は室内を振り返り、これまた眠そうな目を室内に巡らせて寝癖を探す。

「…にゃい。お兄ちゃん嘘つき」

 ひとしきり室内に視線を巡らせた後、悠はこちらに向き直った。そしてその瞬間、後頭部にある寝癖がまるでオレを小馬鹿にするかのようにゆらゆらと揺れる。

「…あるわけねえだろうが。寝惚けてねえでさっさと目ぇ覚ましやがれ」

 内心呆れながら悠の頬を左右に引っ張る。

「えぃ〜」

 ああ…伸びる伸びる。

 柔らかく伸縮性に富んだ悠の頬を、少しの間目的を忘れて堪能する。

「うぃー!! ひたひ!! ひたひ、ひたーひ!!」

 お、おもしれぇ…

 まるっきり餅か何かのように伸びる悠の頬と、ちゃんと発音できていない言葉が愉快だった。

 その声をもっと聞いてみたくて、オレは手に捻りを加えてみる。

「のぃぃぃー!?」

 角度にしてみればおよそ半回転くらい捻っただろうか? これまた面白い声が聞こえた。だが少しやり過ぎてしまったらしく、悠はオレの手を必死に引き剥がそうとしてジタバタと暴れた。その目は既に涙で潤んでいる。

「ぷっ…くくく、わりぃわりぃ。目は覚めたか?」

 オレが手を離した途端、座り込んで頬をさする悠に問いかけた。

「覚めたよー! 覚めない方がおかしいじゃんかー!!」

 涙目になりながらも懸命に訴える悠。そんな妹の姿を見た瞬間、流石に少し後悔した。

「悪い悪い、でも目ぇ覚めたろ?」

 謝罪の意味を込めて、寝癖のある部位を撫でてやる。元がサラリとした悠の髪の事だ。しばらくこうしていれば直らないにしても目立たなくはなるだろう。

「…うん」

 目尻からこぼれそうになった涙を拭いながら頷く。

「オレも次からはこんな事しないからよ。…もう泣きやんでくれ」

「うん…えへへ」

 頷いた次の瞬間、唐突に悠は笑い声を漏らす。…もう泣きやんでいる証拠だ。

 半ば寝癖を直してやるために撫でていたのだが、寝癖も目立たなくなって来ているし、悠も落ち着いてきてきた。

 …もう撫でる必要もないかな。

 そう思ったオレは、一二回軽く頭を叩くと手を引っ込めた。

 しかし――

「あっ…」

 その瞬間悠が残念そうな声を上げる。

「…何?」

 それが余りに予期しない事だったので、オレは訝しく思いながら悠に問いかけた。

 すると悠は少しだけ頬を染めて、小さく頭を振った。

「ううん、何でもない。それよりお兄ちゃん」

 悠の言うように今の声が何でもないようには聞こえなかったのだが、敢えてそれを追求することはせず、悠の言葉に耳を傾けた。

「お誕生日おめでと」

 と、言いながら悠は深々と頭を下げた。ただ、座り込んだ姿勢からのお辞儀なので、立っているオレから見ればそれは土下座のようにしか見えない。

 いやいや、問題はそう言うところではなくて…

「…オレの誕生日って今日だっけ?」

 冗談とか、照れ隠しではなく、本当に分からなかった。

「そうだよ。…もしかしてお兄ちゃん忘れてたの?」

 その時悠の顔に浮かんだ、「おい、こいつ頭大丈夫かよ…」とでも言いたげな表情は少しショックだった。

「ん、あ…ああ、覚えていたとも! 年寄りじゃあるまいし忘れるわけないだろ」

「そうだよね〜、私たちの誕生日きっちり覚えてるお兄ちゃんが忘れるわけないもんね〜」

 今まで考えていた事が自分の間違いだったと知り、悠は満足げな顔をして一人納得した。

 でもその悠を目の前にして、オレは内心冷や汗だらけだった。

(あぶねーあぶねー。…すっかり忘れてた)

 相手が悠だから深くは突っ込んでこなかった物の、これが恵相手だったらどうなったか分かったもんじゃない。

 心の中で眼前で笑顔を浮かべる悠に手を合わせて一言謝る。

「今日はごちそう作る予定だから、お兄ちゃんはゆっくり帰ってきてね」

 言いながら立ち上がった悠は、先だって階下へと降りて行く。

 その後ろについていきながら…オレはこっそりとため息を吐いた。



「二人とも遅いッス! もう先にいただいてるッスよ」

 悠と共にダイニングに入って美都里が放った第一声は何故か体育会系だった。そしてその言葉通りに美都里の手には半分になったフレンチトーストがあった。

「今日は遅かったじゃん、もしかして悠まだ寝てたの?」

 頬杖をついて朝の広告を眺めていたらしい恵が笑いながら言った。こちらは一口も食事に手を着けていないようだ。

「寝てないよー。ちゃんと用意してたもん。ねえお兄ちゃん?」

 恵の隣の椅子に腰掛けながら、悠はふてくされた口調で言い、その後オレに同意を求めてきた。

 オレも美都里の隣に腰掛けつつその同意に答える。

「おうよ、オレがドア開けようとしたらちょうど出てきたぞ。…寝惚けてたけどな」

「寝惚けてたって…。悠、この間朝はちゃんと起きなさいって言ったよね?」

 オレの言葉を聞いて目を細めた恵が、心なしか不機嫌そうに問いかける。そしてそれを見た悠は決まり悪そうな顔をして頷いた。

「言ったのに、起きない。…どうして?」

「昨日…遅くまで起きてたから」

 悠の顔が泣きそうだったのを見て、流石に恵は口調を和らげた。とは言え悠の声は既に涙声になりつつある。

 恵はそれをあえて無視し、言葉を繋ぐ。

「いつまでも子供じゃないんだから…自分で出来ることは全部自分でやりなさい」

「…はい」

 震える声で悠は頷いた。その瞬間涙が一滴、悠の手に落ちる。

「何も私は遅くまで起きてるのが悪いとは言ってないの。だけどそれが次の日にまで響くようだったら止めなさいって言ってるの。…それは分かるわよね?」

「はい」

 その言葉にも悠は従順な返事を返す。そしてそれを見た恵は…

「…頑張ったんだね。朝起きたらあんな物があったから驚いたよ」

 小さな笑みを浮かべて、優しく悠の頭を撫でた。

 悠を撫でながら言うその意味不明な一言。だが悠には通じるところがあったらしく、その言葉を聞いた途端悲しそうな表情を申し訳程度の笑顔で上塗りした。

「うん、ごめんねお姉ちゃん」

 素直に謝罪する悠に恵は満面の笑顔で頷く。

「もう良いのよ。それよりご飯食べて学校に行き来ましょ」

「うん、いただきまーす」

 さっきまでの泣き面はどこに行ってしまったのかと疑ってしまうほど元気な声で悠が手の平を合わす。

 立ち直りが速い点はオレ達兄妹の中では一番だ。それが悠の長所でもあり、ある意味短所でもある。

「さて、私たちも食べましょっか」

 悠が食事を始めたのを見て、恵が広告を片づけながら言った。

「それもそうだな。んじゃ、いただきますっと」

 流石に高校三年にもなって手を合わせてのいただきますは無いだろうと思うが、長いこと習慣にしている事だから体が勝手に動いてしまう。

「んじゃ私も…いただきます」

 だがそれはオレだけでなく恵も悠にも同じ事が言えた。

 しかし同じ事が言えるにしても、恵はオレと悠とは違いもちゃんとお辞儀まで加える。この辺り恵が礼儀作法に凝っている事を暗に語っている。

 そんな恵をぼんやりと見つめ、我が妹ながらに感心な奴…とか思っていると、美都里も恵を見つめている事に気がついた。

 訝しく思い、そんな美都里を眺めていると、不意に恵に話しかけた。

「…恵ちゃんって何だか悠ちゃんのお母さんみたいだね」

 今まさにトーストを囓ろうとしていた恵は、その言葉を聞いて照れくさそうな笑顔を浮かべる。

「あはは、そんな風に見えた? やっぱり長いこと兄妹だけで暮らしてるとそうなっちゃうのかな?」

「かもね、でも良いんじゃない? お料理だってすっごく上手だし」 

 楽しそうな笑顔を浮かべながら美都里は心底うまそうにトーストを囓る。

「そう言ってくれると私も苦労してる甲斐があるよ」

 自らもトーストを囓りつつ答える。

「苦労人だね、恵ちゃんは。私と一個しか違わないなんて嘘みたい。私だったらすぐに嫌になっちゃうのに…」

 自分には出来ない…とでも言わんばかりに美都里は首を振る。そんな美都里に恵は冗談めかしたことを言う。

「私だって最初は嫌だったよ? でもしょーがないじゃん、お父さん役が役に立たないんだから。…ねえ?」

 と言いながらオレに同意を求める。

「オレに話を振るな馬鹿たれ。自分が悪く言われてるのに頷く奴がいるかっての」

 肯定は出来ないが如何せんすべて事実。家事無能者には言い返すことが出来ない。

 ちなみにオレは何もしないくせに無能者を語っているわけではない。オレにだって料理に挑戦したことぐらいある。

 …挑戦したことはあるのだが――開始一時間後にやっとこさ出来たのは材料の区別すらつかない消し炭。

 出来上がった代物が黒一色に統一された料理は流石にいただけない。しかもそれを皿に盛りつけて途方に暮れているところを恵に見られたのは更にいただけない。…指さされて笑われたしな。

 まあこう言った理由でオレには公然と肯定することが出来ないわけだ。

「もう、いちいちふてくされちゃ駄目でしょ? 出来なかったら練習すればいいじゃない」

 隣の美都里がたしなめるような言葉で言う。

「そうだよ、お兄ちゃんも頑張れば出来るよ。お姉ちゃんもそう思うでしょ?」

 そしてオレの対面に座る悠までもが美都里の言葉に同調し、恵にも同意を求める。

 同意を求められた恵は失笑にも似た笑い声を漏らし、嫌味っぽく言う。

「やめといた方が良いんじゃない? 兄貴が作ったご飯なんて人が食べれる代物じゃないし。…そもそもご飯かどうかも分からないしね」

 最後に嘲笑を上げて言葉を締めくくる。

「何それ? …もしかして雅史、料理したことあるの?」

 恵の言葉に興味をそそられたらしく覗き込むような視線でオレを見る。

「教えてやんね。…つーかさっさと食えよ。後少しで出る時間だぞ?」

 ぶっきらぼうに吐き捨てた後、時計を見ながらそう言った。

「もうそんな時間なの? …しょーがない、雅史が料理したことがあるかは歩きながら聞きましょうか」

 言って美都里は残りの食事を片づけに入る。恵達もそろって時計を見た後、普段よりも早いペースで料理を口に運ぶ。

「…ごっそさん」

 オレは最後に残していたベーコンエッグを平らげると軽く手を合わせた。

「あ、兄貴、食べ終わったんならみんなの分のお弁当持ってきて。美都里さんの分もあるから四人分ね」

 と、恵が悠の頬についたドレッシングをティッシュで拭いながら言ってきた。

「おう、コーヒー飲んだら持ってきてやるよ」

 恵の頼みを了解し、オレは宣言通りコーヒーを入れる。

「…恵ちゃん、私の分も作ってくれたの?」

 オレと恵の言葉の切れ間を待っていたらしく、会話終了と同時に美都里が恵に話しかけた。

「そりゃ作るわよ。だってお昼無いでしょ?」

 まるで作られないと思われたのが心外だとばかりに言う恵。そんな恵に美都里は心からの笑顔で礼を言った。

「ありがと〜! これで今日のお昼はおいしいご飯が…ああ、幸せ…」

「んなオーバーな。私のご飯なんて十人並みよ」

 自分の作った料理を褒められたことで、自分も褒められたのが照れくさいらしい。

「謙遜しないでよ、恵ちゃんのお料理が美味しいのはそれだけ頑張ったって事なんだから」

 美都里は照れ隠しに笑う恵に対し、笑顔で日頃の苦労をねぎらった。その言葉を聞いた瞬間、恵はこの場にいる人間から顔を逸らすようにして俯く。

「――美都里さん、ありがとう」

「お姉ちゃんどうしたの?」

 流石にその行動に違和感を感じた悠が心配そうに恵を見る。

「ううん、何でもないよ」

 しかし恵は一向に顔を上げようとはせず、小さく首を振って答えた。

「だってお姉ちゃん泣いてるよ?」

 言ってから悠は恵の制服の裾を掴んだ。出来ることなら自分が慰めたい…そう思っているようだ。

「め、恵ちゃん。私変なこと言っちゃった?」

 だが美都里の困惑は一秒ごとに度を増しているようで、いつになく戸惑った表情をしている。

「違うよ、ただ…ちょっとだけ…」

 そこまで言って恵は言葉を詰まらせた。果たしてその先を言っても良いのか…そんな迷いを恵から感じることが出来た。

「――もうみんな飯食い終わったんだろ? だったら学校に行く準備しようぜ」

 美都里と悠が必死になって恵が泣いているわけを知ろうとしている中、オレは普段と変わらぬ口調でそう言った。

 そんなオレに対して二人が非難の眼差しを向けるのは当然だった。

「ちょっと、恵ちゃんが泣いてるのにそれはないんじゃない? いくら雅史でも怒るわよ」

 誰が聞いても明らかに怒りを露にしている美都里の言葉。その中にもいくらか戸惑いがあったようだが、やはり怒りの感情の方が勝っていた。

「お兄ちゃん、なんだか変だよ。そんな冷たい事言うなんて…」

 予想だにしていなかったオレの冷たい言葉に、悠の方は戸惑いを強く感じているようだ。

 しかしオレは二人の言葉をあえて聞き流し、二人の注目がオレに来ていることを良い事に隠れて涙を拭っている恵に向かって言った。

「恵、皿片づけるから手伝ってくれ」

 恵が涙を無食い終わったのを見計らってオレは立ち上がる。

「あ…うん。分かった」

 先ほどのオレの言葉を気にしていないのか、恵はいつも通りの表情で頷いた。

「雅史…」

 すぐ隣で皿をまとめていくオレを呆然とした顔で見ながら、美都里は呟いた。

 オレはそんな美都里にだけ見えるように顔を動かし…小さく微笑んで見せた。

 すると美都里は驚いた表情をしてオレの目を凝視する。そしてしばらくすると微笑みを返してきた。

 …意味は通じたらしい。

「そっちはもうまとめたか?」

 オレと美都里の分の食器を両手に持ったオレは、恵に向き直る。

「こっちはオッケーよ」

 見れば恵も既に悠と自分の食器を手にしていた。

「ああ、じゃあ持って行くべ」

 その言葉と同時に恵はキッチンへと歩き出す。

「…私お兄ちゃんの事見損なった」

 そしてオレが恵の後を追おうとした時、悠が悲しそうな声で言った。テーブルの上に置かれた両手はそれぞれきつく握りしめられている。

「…悪かったな」

 謝罪とも邪険とも取れる言葉を残して、オレはキッチンへと歩き出した。

 …キッチンに入ると、恵が制服の裾をまくってエプロンをつけようとしているのが見えた。

「兄貴お皿はそこに置いといて、ちゃっちゃと洗っちゃうから」

 エプロンの紐を後ろ手に結びながら、恵は顎をしゃくってシンクを指定する。

 オレは指示された通りに皿を置くと、蛇口を開けようとしていた恵の手を引いて強引に抱き寄せる。

 突然オレに抱きすくめられて戸惑う恵の体は、美都里よりも華奢に感じられた。

「ちょ、何すんのよ兄貴」

 恵はオレから離れようとして腕を突っ張ろうとする。が、しかしオレは恵を抱きしめる手を弛めることはしなかった。

 次第に抵抗を緩慢にしていった恵は、しばらくすると沈黙した。

 その時玄関の方から美都里の声が聞こえてくる。

「雅史ー! 私と悠ちゃん先に行ってるから!! すぐに追いついてきてよー!!」

 それを聞いた恵はキッチンの出口に目を向けたが、自分たちも早く行こうとか、そんな言葉は一切無かった。

 それから玄関が開く音と閉まる音が聞こえ、この家にいるのはオレと恵だけになった。

「…恵」

 すっかり大人しくなってしまった恵を見下ろし、オレはここに来てようやく話しかける。…いつしか恵の手はオレの制服の裾を握りしめていた。

「何よ」

 それは珍しく拗ねたような声音だった。

「…今までお前ばっかりに苦労かけてた。…悪かった。それから――ありがとう」

 華奢な恵の背に回していた片方の手で、謝罪とか感謝とか…色々な想いを込めて恵の頭を撫でる。

「うっ…うぅぅ〜」

 抱きしめる体が震え、口がうわずった声を上げる。

「オレ達ずっとお前に甘えてたんだな。オレよりお前の方が歳も下で女なのに…」

 胸の中から様々な想いが流れ出す。…後悔…自責…感謝――言葉ではとても言い表せない暖かい気持ち。

「お前だって甘えたい時もあったんだろ? それなのに…全然気付かなかった」

 オレの言葉に恵は泣きながら頷いた。恵の手は今では制服の裾ではなく、オレの体に回されている。

「でも今日やっと気付いたから…これからは我慢しなくて良い」

「そんな事…言ったって、私…どうすれば良いかわかンないよ…」

 途切れ途切れな言葉を紡いで、正直な気持ちを露にする。長い月日は…恵に甘え方を忘れさせてしまったのだろうか――?

「考えなくて良い。考えなくて良いから…今は泣けるだけ泣け。気が済むまでこうしてやるから」

「――ッ!」

 その言葉を皮切りに、必死に押し殺そうとしていた想いを――堪えていた物を全て解放した。



     3



 …それから恵が落ち着くのを待って、二人並んで学校へ向かった。

 出がけに時計を見ると、どう頑張っても一時間目は遅刻してしまう時間だったからオレと恵はゆっくり歩いた。もちろん美都里達が持っていかなかった弁当も持ってきている。

 道中、恵はオレの前で泣いてしまったことを恥じているようで、話しかけても大した返事は返ってこなかったが、それもしばらく歩いていると普段の調子に戻っていった。

 端から見れば何も変わっていないように思える恵。しかしその表情の中にどこかスッキリとした清々しさが浮かんでいる事にオレは気付いていた。

 たわいない世間話をしながらようやく学校に辿り着き、昇降口を歩いていると背後から誰かかが駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。

 オレと恵は、それが自分達の元へ来ていることを無意識のうちに悟り、立ち止まって振り返る。

 すると振り返った先には体操服を着た悠が、息を切らせてグラウンドから昇降口へやってくるところだった。

 体操服を着ていると言うことは今は体育の時間なのだろうが…それにしても授業はどうしたのだろうか?

「悠? 授業はどうしたの?」

 どうやらオレと同じ疑問を抱いたらしく、悠に向き直りながら咎める口調で恵が言った。

 オレ達の前に来た悠は、よほど焦って走ったのだろう…肩で荒い息をしながらこう言った。

「お兄ちゃん達が歩いてるの見つけたから…トイレ行って来ますって言って抜けてきたの」

「そう…でも授業はちゃんと受けなくちゃ駄目よ?」

 言いながら恵は悠の額に浮かんでいた汗をハンカチで拭う。

 そんな時、悠が怖々とした視線でオレを覗き見た。

「どうした? 何か話したいことでもあるのか?」

 悠の性格からして何かきっかけでも無い限り言いたい事を言えないだろう。そう思ってオレは問いかけてやった。

「…今朝はごめんねお兄ちゃん。見損なったとか言っちゃって…」

 汗を拭ってくれた恵に小さくありがとうと言ってから悠はそう言った。

 大方美都里からオレがあの時取った態度の真意を聞いたのだろう。

 単純にそう確信したオレは、申し訳なさそうな顔をしている悠の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。

「気にすんな。変な言い方したオレが悪いんだからよ」

 少しだけ迷惑そうにオレの行為を受けていた悠だったが、それでもはにかんだ笑顔を浮かべた。

「ありがとうお兄ちゃん。…私もう授業に戻らなくちゃ」

 自分の誤解を許してもらえたことを素直に喜んでいる様子で、悠はそれだけ言うと駆け足でグラウンドへと戻っていった。

「…私たちも行こっか」

 悠が走り去った後の昇降口をぼんやりと見ていた恵が、それでも視線だけは動かさずにそう言った、

「そうだな。じゃあ放課後に部室でな」

 胸に一杯の空気を吸い込み、オレはそれを吐き出すと同時に答えた。

「ああっと、悪いけど今日は私たち部活休む」

 不意に思い出したかのような口調で恵は言った。それにしても私たち…だと?

「悠も休むのか? …まあ構わねえけどよ」

 恵と悠が抜けるとなると部会をやるにしては人数が足りないとも思ったが、こいつらなら家に帰った後でも内容を話すことは出来る…そう考えて頷いた。

「それから美都里さんも借りるね」

「お、おいおい、何で美都里を貸さなくちゃいけねえんだよ?」

 こいつらが休む分にはさっきの通り全然構わない。ただ美都里が休むとなると…大したことねえか。美都里も立場的に言えばこいつらと同じだもんな。

「…まあ美都里が良いって言ったら好きにすりゃ良いじゃん」

 そんな答えに行き着いたオレは更に困惑しながらそれも了承した。

「あんがと、それでもう一個お願いしたいことがあるんだけど…」

「おいおい…まだあんのか」

 連続して頼み事をされるとは思っていなかったオレは、流石に面倒くさくなって嫌な顔をした。

「そんな嫌そうな顔しないでよ、これで最後だからさ」

 表情から度重なるお願いに嫌気がさしていることに気がついたのか、なだめるような言葉遣いで恵は笑った。

「…で?」

 まあこれで最後だと言うし、こんなにも恵が頼み事をしてくること自体珍しい。そう考えた途端、聞いてやるろうと言う感情が芽生えてきた。

「いやね、大したことじゃないんだけど…今日は遅く帰ってきてね」

「…あん?」

 今まで早く帰ってこいと言われたことはあったが、遅く帰ってこいと言われたことは一度もない。前の二つも真意を測りかねる願い事だったが、これは更にその上を行っていた。

「何だよそれ、意味わかんねえ。ちゃんと説明しろよ」

 だからこればっかりは「はいそうですか」と答えることが出来なかった。

「それは嫌。とにかく兄貴は遅く帰ってくれば良いの」

 一体どんな理由があるのかは知らないが、とにかく答える気はないようだった。

「…わーったよ、今は聞かないで置いてやるから帰ったらちゃんと話せよ?」

 答える気がない恵というのは非常にやっかいな存在で、どんな事をしてもそれだけは絶対に喋らない。仕方無しにオレが引き下がる形になった。

「ありがと、まあ家に帰ったら分かるから期待しててよ。じゃーねー」

 言うが早いか駆け出すのが早いか…恵はそれだけを言うとさっさと自分の教室へと行ってしまった。

 そしてオレはそんな恵の後ろ姿を見送り…その時ようやく度重なるお願いの意味を理解した。

「あ…今日はオレの誕生日だったっけ…」

 …冷たい風が吹いた。



     4



 一時間授業を受けないと言うのはそれなりに普段のペースを狂わせる物で、今が四時間目が終わった後の昼休みだという事に全く気がつかなかった。

 実際、授業終了のチャイムと共にクラスメートが我先にと廊下に出て行くのを見て不思議に思っていた程だ。

 そんなオレがどうして昼休みに気がついたのかと言えば、突然教室に美都里がやってきたからだった。

 オレ目当てで教室に頻繁に訪れる美都里が、勝手知ったるなんとやらで教室に入ってくるのを、オレは次の時間の用意を調えている最中に発見した。

 しかし美都里の様子は目に見えて普段と違っていた。

 何より足取りが軽いし、すれ違うクラスメート達にわざわざ声を掛けている。普段の美都里なら、親しい奴に声を掛けることはあっても、全く知らない奴に話しかけるなどという事はしないはずだ。それに終始にやけ面というのも気になる。

「雅史っ、ご飯ご飯」

 オレの席の前まで来て、美都里は大仰な手振りで飯を寄越せと主張する。

「あん? もう飯だっけか?」

 言われて初めて時計を見る。確かに時計の針は四時間目の授業の終わり…すなわち昼休みを示していた。

「おう、ホントだ、んじゃあ飯食いに行くか」

 目を輝かせてオレを見下ろしてくる美都里に、オレも同じく笑顔で言った。

「うぅ〜、早く早くぅ〜♪」

 オレが鞄の中から弁当箱を取り出す様を一挙手一投足見逃さず、美都里は弁当を求めた。

「ほらよ、横にして持ってきたから片寄ってるかも知れねえけどな」

 いったん机の上に二つの弁当を出してから、その片方を美都里に差し出した。

 弁当を受け取った美都里はそれまで以上に嬉しそうに笑った。

「それじゃ部室で食べよ」

 大事そうに弁当を抱えながら、美都里はオレの手を引いた。

「わーったよ。でもそんなに急かさないでも良いだろ? 弁当は逃げたりゃしねえよ」

 どうして弁当ごときでここまで喜ぶことが出来るのか…その事に呆れながら立ち上がった。

「お弁当は逃げなくても昼休みは逃げちゃうよ、ほらっ早く早く」

 オレが立ち上がったのを良い事に、美都里はオレの腕を引いて教室を出ていこうとする。…オレがまだ弁当を持っていないのに…だ。

「待てって、弁当まだ持ってねえって」

「うーご飯ー、おべんとー!」

 そう言っても美都里はオレの手を離そうとはしなかった。

 オレはそんな美都里に対してほとほと困り果て…その反面こんなやりとりを楽しく思っていた。

 だがそれは、これから起きる事を知らないからで、それを知っていればこんな感情を抱く事なんて出来なかっただろう。

 失って初めて気付く大切な物…悠が持っていた悲恋物の小説か何かにそんな事が書いてあった。

 最初見た時は大して気にも留めなかったが、これから数時間後…最悪の形でその言葉の重みを知ることになる。

 当然そんな事を露ほどにも知らないオレは、机の上に置いてあった弁当を持って、美都里に急かされるまま部室へと歩いて行くのだった。



第二話終了



第二話あとがき



えんい〜、会社の営業不振で給料を下げられたユタカです。

前回のあとがきで「次はダークになる予定」とか書いたくせにどっこもダークじゃありませんでした。(鬱

ストーリーの構成上、第二話はダークにしにくかったので、今回はこんな感じになりました。

でも第三話は出来うる限り暗い話にしていきます。

しかしまあ出来た後に文章見返してみると……駄文ですね(泣

次こそはー次こそはーとか思うんですけど毎回こんな結果に終わってしまう自分がイヂラシイ(爆

もうそろそろレベル上がらないかなーとか願いつつ、今回はこれで…



ユタカ(鬱)




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