月の光に染まる街
幕間ノ弐〜白ノ決意〜
「まったく、冗談じゃねぇ……お前何やってるんだよ……」
かすかに聞こえた声に、私は神経をそちらに向けた。
薄暗いこの部屋は、鬱陶しく降り続く雨に辟易しつつあくまでキャンプに拘る歌澄の意向を叶えた実にありがたい空間だ。
……まさかこんな馬鹿らしい事に空間拡張なんぞを使う必要が出て来るとは思いもよらなかったが。
その木の間の洞を広げた空間から外に出る。そう言えばなんだかドンパチやっていたようだが。実に傍迷惑な事だ。
怪我人が居るかもしれないなと思い、その方向に向かった。少なくとも声がするからには何か居るだろう。
消毒薬の匂いが、白衣に染み付いて実に心地よい。やはり私はこうでなくては、と思う。これを消す雨なんて、私は大嫌いだ。
ねぐらにしている樹からすこし歩いた所に、ずぶ濡れの着流しを着た少年が、同じくずぶ濡れの服――ああいうのはおそらく学生服だろう――を着た少女を助け起こしていた。
七割方、あの人間じゃあ到底戻って来れなさそうな濁流から、少年が少女を助け出したのだろう。
なかなか勇敢な少年だ。例え人間でないとしてもあの量では助ける事すら迷うものを。そして迷えば助けれまい。
少女は傍目にも随分衰弱している。気の流れを見たが、絶対的に崩壊の方向に向かっている。
舌打ちしながら私は急ぎ足で二人に近づいた。
少年がやっと私に気がついたらしく顔を上げた。警戒の色が強く、殺気立っている。無理もないな。
「医者だ。その娘を死なせたいのか」
端的に告げる。コイツが頭が悪いヤツでない限り、端的に言った理由くらいわかるだろう。一刻も猶予がないのだ。
少年は一瞬迷うような表情を見せたが、素直に素早く横に退いた。うむ、頭は悪くないらしい。
患者の身体を観察する。決定的に生命力が足りていない。そのために死に流れていっているわけか。右腕の欠落はこの分だと壊死と考えて間違いないな。
「とりあえず壊死を止めるか……」
袖口から愛用の道具を取り出し、少女の孔点に打ち込んでいく。
少年は後ろから何か言いかけたが、すぐに黙った。私の治療方法がわかったか、それともその魔眼の力か。どちらでもいい事だ。
とりあえず負に向かう気は堰き止めた。だがこれさえ所詮応急処置だ。生命力が足りていないのだからそれを補給しない限り彼女は死ぬ。
と、弱々しく少女がうめいた。
驚いた。この状態でまさか意識が回復するとは。
「気がついたか?私は医者だ。お前は死にかけている。血を飲め」
左手の手首を構えた針の先で掻き切り、ソレを差し出す。
どくどくと流れる赤い血。これさえ飲めば彼女なら回復できるだろう。壊死した右腕は永久に無理だが。
だが彼女はそれから眼を逸らした。必死に何かに耐えるように目を瞑り震えている。
こういう反応はこの状況を含めて考えれば、おそらくたった一つの理由しかないだろう。
「吸血嫌悪か……厄介だな」
実に厄介な状況だ。少女は血を飲み、生命力を回復しないと間違いなく死ぬ。だが吸血嫌悪の吸血鬼に無理矢理血を飲ませた時の末路は、人格の変質と相場が決まっている。
つまりどっちをとっても悲惨な状況に変わりないという事だ。
この一刻の猶予もない状態なのに――!
「嫌だよ、せっかく信じてくれたわたしを守れたのに……もう死なせて。これしかないの……」
弱々しく、儚く呟く少女。
その言葉で原因はわかった。吸血行為という儀式を通しての一般――いや、今までの自分との乖離に対する恐怖か。
確かに彼女の思っているとおり、もう以前には戻れないだろう。だがそれがなんだと言うのか。連続する自我を持つ限り、それは自分だ。
ソレを説明してやろうと私が口を開きかけた時、後ろで推移を見ていた少年が声を荒げた。
「バカ言うな!オマエが信じてくれてたとか言うヤツは、オマエが吸血鬼になったくらいでもうオマエじゃないなんて言っちまう様なヤツなのかよ?
違うだろ!?なに言ってんだよ!そうやって死んで――オマエは何を残せたって言うんだ!
生きろよ!生き抜いて見せろ!オマエなら――こんな事が出来るオマエなら、吸血鬼の自分なんて目じゃねェだろ!」
「勝手な事言わないで!あなたが……あなたがわたしをこんなにしたんじゃない!」
激しく少女が叫んだ。
その言葉に、思わず少年を仰ぐ。少年は苦痛を滲ませながら、それでも強固な意志を貫いていた。
「そうだ!オレの責任だよ!
だからだ!だからオレはオマエを死なせたりはしない!それがオレの責任なんだよ!
オマエが苦しかったら傍に居てやる。憎かったら殺させてやる。
その代わりに生きろ!その間ずっとオレはオマエは生きてる間、オマエが生きるための事ならなんでもやってやる!オマエが望むのなら地獄の底からでも舞い戻ってやるさ!」
私はその少年の横顔を、感嘆に近い心境で眺めていた。
長く生きて来たが、この歳でここまで強い意思を持つ者は稀だ。彼なら自分の言った事全て確実に実現させるだろう。
実に、素晴らしい。
彼はその証明の様に持っていた小刀で自分の首を切りつけた。医学を識っているのか上手い切り方だ。アレぐらいの深さが丁度いい。
それに喉を切りつけるのには心理的な効果もある。この場に及んでも冷静な判断を下せる事は実に好意に値する。
だくだくと赤い赤い血が流れ、彼の蒼い着流しを朱に染めていく。それを少女は迷うような表情で眺め、そして――
ピチャ、ぴちゃぴちゃ――
少年の喉に口を寄せ、あふれ出る血を丁寧になめ取っていく。
私の打った針が短針でよかった。長針なんぞ打とうものなら邪魔になって仕方がなかっただろう。
どうやら私の出番は終わったか。今や少女は完全に少年の血を舐め取る事に夢中に――否。
彼女の顔を伝う涙。まだ彼女もまったく変わらぬ彼女のままだ。
両者共まったくなんと強固な精神か。あきれて物も言えやしない。
終わったら分かるぐらいの距離をとっておいてやろう。メンタル面の細かなケアも医者に必要な条件だ。
あとは右腕の代わりか……義手を用意するしかないな。壊死となると再生も効かないし。
この近くに知り合いの医者は居ないな。刻代家の名前を出すのは気に入らないが仕方ないか。
いや……居るじゃないか、実に丁度いいのが。蒼崎なら間違いなく一級の代物を作ってくれるだろう。
実に実に素晴らしい。この出会いは中々幸運だ。
私は実に上機嫌だ。
「さて、そろそろ晴れるかな。今日もいい日になりそうだ」
煙管からくゆる消毒薬の匂いを存分に楽しみながら、私は空を見上げて呟いた。
久しぶりの独りに、私は思い切り煙草を吸っていた。
式は黒桐とデートだそうだ。本人達は否定していたが、式が微妙に化粧をしているのにあの男は気付いていないのだろうか。
鮮花は講義をキャンセルしてまでその妨害工作に走っている。恋心の暴走とは恐ろしいものだ。浅上まで巻き込む事はないと思うのだが。
というわけで、私は誰にも気兼ねなく――居てもするつもりなどないが――煙草が吸っている。
「ん?」
外側の探知結界に知った気配が入り込んできた。人数は三人。まあこいつらを人と呼んでいいのかは疑問だが、少なくとも半分は人なのだからいいとしよう。
椅子を立ち、窓から下を見下ろす。丁度やつらがこちらを見上げたところだった。
…………手を振るな馬鹿。
あまりの変化の無さに目眩すら覚える。それはともかく、あいつらが来たのだから余程の事なのだろう。
階段を上ってくる間、その用件を考えておく。
意外に早く辿り着いたらしく、扉がノックもなしにガシャリと開いた。
「ひさしぶりだねー、トーコちゃん」
「変わらないね、お前は。ちゃんと働いているのか、宗像歌澄?」
飛び込んできたかつての学友に苦笑いしながら、適当に椅子に座ってもらう。
「それにしても刻代に夢見まで来るとは。オマエらもしかして暇なのか?それとも精霊の守護者にも有給とかあるのか?」
「くだらん事言ってないでさっさと用を済ますぞ」
消毒薬の匂いをくゆらせたキセルを吹かしながら、白衣姿の刻代が宗像をせっついた。
宗像は頷いて夢見のリュックからなにか両手に乗るぐらいの箱を取り出した。そのために絵の具やらパレットやらイーゼルやらを撒き散らされたのは、腹を立ててしかるべき事象だと思う。
「はいこれ。トーコちゃんの新作人形につかうんでしょ?歌澄のとこに余ってたから持って来たの」
「ああ、あれか!よく手に入ったな、こんな代物が」
受取って蓋を開けると、確かにそれが布に包まれて乗っている。さっきのは取り消しだ。実にありがたい連中だ。
「魔術を吸収、内部で反復詠唱を繰り返すことで効果を数倍に上げる合成金属。接触面にしか効果がないのが弱点といえばそうだが詰まらん事だ。これの型式は何だったか?」
「えっと、Mythril=effect7だったかな。
学院が北欧支部に負けるのはミスリルの改良だけだと思うよ。でもそれだけはいつまでたっても追いつけないね。
あ、ちゃんと永遠さんに空間圧縮かけてもらってるから実際は七百キロぐらいあるから。お陰で転移が出来ないって永遠さんぼやいてたよ」
「助かった、これの在る無しで随分戦力が変わるんでな」
「その事で追加だ」
と、今まで黙っていた刻代永遠が口を開いた。いつのまにか手にはファイルを持っている。
そのファイルをぽんと机に投げ出した。
「これは……」
「例の件の追加資料。ついに相方が分かったんでな。実に厄介なヤツだった」
その言葉に、私はファイルを開いた。一番上の書類にある名前。それは確かに知った名前だった。
「比良方水望か……ああ、たしかに。アイツならやりかねん。アイツか……」
“存在の等価化”を追い求めた魔法使い。ああ、そうか。アレが私の敵か。
吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。ねじる。あいつに苦痛が少しでも伝わるように。
「橙子さん、ボクらも協力するよ?あの人は触れちゃマズイ人だから」
夢見の声に我に帰る。
「助かる。久しぶりの抑止力としての仕事か?」
「久しぶりと言うのは実に余計だ」
刻代が不機嫌そうに応えた。
突然、ぱん、と手を打ち鳴らしたやつが一人。
「永遠さん、あの子あの子。忘れてない?」
「あ」
夢見の言葉にしまった、という顔をして刻代がキセルを灰皿においた。
「すっかり忘れていた。私も歳か。
蒼崎、オマエに頼みたいことがある」
天を仰ぎながら立ち上がり、“何もない空間に手をかけ”引き下ろす。
ビリビリ――と紙でも破くような音を立てて空間が“破れた”。
私はかすかに顔をしかめる。結界に影響はないだろうが、心配なものは心配だ。コイツは意外とどこか抜けているところがある。医者というのがいまいち信じられない。
刻代は私の胸中も知らずに“道”に向かって叫びながら歩いていった。
「体調は大丈夫か?オマエ、私の患者にヘタな治療していないだろうな?
しばらくは無理な運動はさせるな?誰に物を言ってるんだ御白。
ああ、構わないからこっちに来てくれ」
その様子だと向こうは御白の診察室か。どうやら誰か連れてくるらしいが、一体なんだというのか。
その間に夢見が事情を説明しだした。
私は二本目の煙草に火をつける。
「あのね、途中で三咲町ってあるじゃない?そこの近くの山で女の子の保護を頼まれちゃって。
永遠さんが『もうこの子は私の患者だ』って言っちゃって。すっごいご機嫌で、どうしたのかなって思っちゃうくらいだよ?
あ、あの山とっても綺麗だったから今度紅葉でも描きにいこうかな?橙子さんもどう?」
「……夢見、それと私に頼みたい事と何の関係がある?」
とろとろしたその喋り方には、一生慣れる事はないだろう。倉上や御白の様に必要以下しか言わないのも困り物だが。
それに答えたのは道を戻ってきた刻代だった。
「見りゃ分かる。この子の義手だよ。私の知る限り、最高の義手を作るからな、オマエは」
彼女に伴って現れたのは、学生服の様な目立たない服を着た、ツーテールの少女だった。
……まあ、ただの少女というわけではないが。
「なんだ死徒か……オマエもいい加減物好きだな。どんな縁で拾ったんだか」
見たところかなりの力を持ったやつらしい。その割にはその右腕の状態は壊死――つまり血液の過度の補給不足よる崩壊を起こしている。
死徒が私の視線に怖気づいたか、困ったように刻代を見た。
「おいおい、獲物でも見るような眼で見るな。この子はまだ成って一週間もしてないんだからな」
刻代の言葉に私は目を剥いた。
「なんだと?これでか?冗談はよせ」
「トーコちゃん、永遠さん冗談嫌いだよ」
宗像の指摘に眉根を寄せる。確かにそうだ。あのフザケた連中の中でコイツと御白は冗談は言わない。
となれば結論は一つ。
「本当なのか?余計興味が湧いてきた」
「だあああああっ!だからやめろ!まったくその研究意欲をこの二人に分けてもらいたいぐらいだ。
この子はな、とある事情で血も飲まずにあの真祖の姫と第七位とまともにやりあったんだぞ?しかも理由が好きな少年に告白するためときた。
その心意気が実に気に入ってね。コイツを私に託したヤツも稀に見る精神力の持ち主だったしな。アレはそのうち大物になるぞ」
「それで、持ってきた報酬に義手を作ってもらいたいの」
一気に畳み掛けるように言ってきたが、私はとてつもなく聞き逃せないような事を聞いた気がする。
「ちょっと待て……何と言った。姫と第七位とまともにやり合った?独りで?成りたてが?
――お前等、私を担ごうとしていないか?」
「う〜ん、信じられないけど本当みたい。戦い方とか実際にやらないと知らないことばかりだったし。
話を聞くと固有結界までもう使えるみたいだから。
このまま生き残ってたら二、三年の間に確実に二十七祖入りだね」
あはは、と気楽そうに宗像が笑った。
だが、私はそれどころではない。それどころではないのだ。
「……おもしろい」
「なんだって?」
「おもしろい。固有結界までだと?くっくっ……笑わずにいられない。
私は蒼崎橙子。娘、名をなんと言う?」
押さえ切れない感情に、私は目を輝かせて問う。
娘は答えた。存外はっきりとした態度で。
「弓塚さつきです」
「いいだろう、弓塚。そこの破壊人形か死体人形しか作れん宗像には到底無理な義手を作ってやる。
ちょうどいい、これを使ってやろう。いやいや、本当に運がいいぞお前」
弓塚と名乗った少女の紅い瞳を射抜きながら、私ははっきりと宣言した。
「お前の力、私が引き出してやろう。この人形師、蒼崎橙子がな」
それまではしばらくここで居てもらうか。出来る限り元の物に近づけたいし、なにしろこのミスリルを使うのは初めてだ。
さて、忙しくなりそうだ――
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