月の光に染まる街 第六幕
〜“守ってくれたもの”または“守りたいもの”〜
わたしはその場で待っていた。丁度よくあった切り株。深い森はまだ多い葉を抱えて、雨も通さない。
お陰で時間は昼ごろなのに日光はほとんど届かなかった。
薄暗い森の中。わたしは独り。
待つ相手は死神。わたしを殺してくれる人。
怖くはなかった。もう一度死んでしまったのだから。
それ以上の恐怖を知ってしまったから。
わたしを蝕むそれは、もうどうしようもないところまできてしまっている。
だから、わたしが私でいられる内に。
ガサリ
木陰から、白い影が現れた。
この闇の中でなお白いその姿。紅い瞳は彼女が人でないことを告げている。
……それもいいかもしれない。わたしを殺すのが人でなくても。
「先輩、隠れてないで出てきてください。ただでさえ二対一なんですから、そこまでしなくていいでしょ?」
「よく分かりましたね」
思ったよりあっさりと右の方の木の上から先輩の声がした。
横目で見るとなんだかシスター服みたいなのを着ているけど、似合っているからまあいいか。
そんなわたしの無意味な思考を遮って、正面の女の人が怒気を含んだ声を響かせた。
「あなたがどんな理由で志貴を誘拐したのか知らないけれど、ここで素直に志貴を放してくれるのならわたしはあなたを見逃してもいいわ」
射殺すようなその視線が、わたしの身体を震えさせる。
わたしの頭の中で、もうずっと警報が鳴ってる。にげろにげろって叫んでる。
でも……退けない。わたしはここを退くことが出来ない。
だってここ以外、もう行くところがないんだから。
無言のわたしに、彼女たちは否定の意思を受取ったらしい。
「そう、残念ね。それじゃあ殺してでも志貴を助けるわ――!」
同時に動く二人の影。人だった頃のわたしでは、目で追うのも難しかっただろう。
でも今のわたしは吸血鬼。人から外れたバケモノ。
最後の最後くらい、それに頼ってもいいと思う。
思い切り息を吸い込み、わたしの中の“世界”を解き放った。
「枯れてしまえ――!」
「なんですかこれは……」
正直に言おう。わたしは混乱している。
弓塚さつきはまだ死徒になって一週間と経っていないはずだった。
確かに、死徒として自我を手に入れるのを数日でやり遂げたその圧倒的な能力は認めよう。
だがいくらなんでもこれは行き過ぎている――!
「ちぃっ!」
枝を黒鍵で払い落とし、わたしは森の奥へと跳んで行く。
だがその目の前を再び遮られた。
破滅をもたらす腕が伸びてくる。
黒鍵を一本打ち込み、その柄に足をついて横に跳んだ。打ち込まれたそれは轟々と燃え落ちる。
弓塚さつきの姿は、これを発動された一瞬の隙からずっと捕捉出来ないでいる。
魔術的なもので探そうにも、この森一帯のマナは完全に彼女の支配下に置かれ、行使する事もままならない。
「これではまるでアインナッシュではないですか!」
あの時発動された彼女の切り札――固有結界。
それは辺り一面の大地を砂に変え、水を求めて襲い来る無数の樹木を生み出した。彼女の心象風景どおりに。
もはやこの森のほとんどが彼女のテリトリーとなっている。
まったく恐ろしいものだ。これは既に二十七祖クラスに達しているかもしれない。
また延びてきた枝を切り落とし、弓塚さつきを捜し続ける。アルクェイドと分断されはしたが、彼女も捜しているだろう。
――――
先ほど話していた様子からすると、彼女は吸血衝動を抑え切れているのかもしれない。
だがそれも時間の問題だ。そのうち必ず決壊がやってくる。
そのとき彼女は身近なものからその手にかけていくだろう。
それはなんと言う苦しみか。ああ、あのような苦痛が地上にあってよいものか。
あってはならない。あれはあってはならないのだ。地獄という言葉ですら生ぬるいあの苦痛は。
「あなたが堕ちるのなら、その前に――!」
それが、帰ってきた者の義務だ。わたしはそう思う。
あの苦しみから解放される手段なんて一つしかないのだ。繰り返す苦しみと悲しみから解放される方法なんて、死しかない。
彼女は幸せになれる人だったのに。それでもわたしは剣を振るうしかない。
「見つけた」
冷たく呟いて、わたしは向こうを駆ける彼女に黒鍵を飛ばす。
轟、とうなりを上げて飛ぶ黒鍵。が、察知されていたらしくあっさりと近くの樹で防がれる。
だがわたしはおとりだ。本命は彼女の頭上から振り下ろされる爪。
驚愕の表情で頭上を見上げる彼女。でももう死の爪はすぐそこまで迫っている――
ギィイン
金属音の様な不快な音が響いた。
アルクェイドはその体勢から跳ね飛び、近くの枝の上に降り立った。
「ハァハァハァ……」
弓塚さつきの荒い息遣いがここまで届く。
しかしいくら弱っているとはいえ、あのアルクェイド・ブリュンスタッドの爪を受け止めるとは。少なくとも並みの死徒では到底出来ない。
「あなたの様な平和に暮らす事が幸せな人が、こんな力を持ってしまうなんて」
――なんて、矛盾。
黒鍵を振り上げ、鉄甲作用をもって投擲する。今度は樹を使わずその場を飛びのき、彼女はまた深い森に消えた。
再び追いかけるわたしとアルクェイド。
……そう言えば、この固有結界はいつまで持つのだろうか。
なぜだかは分からないが、兄さんは遠野家の別邸に捕まっている事は確かな事らしい。
別邸の中は薄暗く、たしかに吸血鬼が居そうな場所だ。
いくらアルクェイドさん達が引きつけていてくれているとは言え、完全に安心するのは愚かというものだろう。
油断なく気を張りながら、私は静かに廊下を歩き続ける。
そんな捜索を続けて、二階に上ったとき兄さんの声が聞こえた。
「くそ……なんて暗示を弓塚は……」
声は確かにこっちからだ。焦る気持ちを抑えながら、兄さんの声を頼りにそちらに歩き続ける。
段々大きくなってくる兄さんの声。その声は悲しそうで悔しそうだった。
その声にせかされるように、私は足早にその部屋に飛び込む。
そこにはベッドの上に寝かされた兄さんが居た。
「兄さん!ご無事ですか!?」
「秋葉か!助かった……」
兄さんが安堵の息を漏らして、でもすぐに鋭い声を私に向けた。
「秋葉、俺のズボンの右ポケットに短刀がある。飛び出しナイフだ。それを出して俺の目の前にかざしてくれ」
兄さんの頼みはよく分からないものだった。
だが兄さんの剣幕は本物だし、私は急いで言われたとおりにした。
兄さんがナイフの刃を睨みつける。素人の私でさえ、兄さんがものすごい集中力でなにかをしようとしているのが分かった。
「ふっ!」
鋭い呼気はそのまま刃を通り抜けて断ち切られる。
それと同時に兄さんの右手が上がった。
「ありがとう秋葉。まったく……こんな暗示かけてくれるとはやってくれるよ」
ナイフを兄さんに返しながら、わたしは兄さんが何をやったか考える。
どうやら何者か――おそらく吸血鬼だろう――の暗示を受けて動けなくなっていたらしい。それをナイフの刃に自分を映すことで自分に暗示をかけて破ったといったところか。
言うのは簡単だが、それは一体どれほどの技術なのか。
だがそれは今はどうでもいいことだ。兄さんを連れて一刻も早くここから離れなければ。
「兄さん、急いで山を降りましょう。兄さんをさらった吸血鬼はアルクェイドさんとシエルさんが抑えていますから――」
でも兄さんは、私の言葉を聞いた途端凍り付いたみたいに動きを止めた。
静かにその口から、声が漏れる。
「なんて馬鹿なマネを……!」
「兄さん?」
「秋葉、お前は先に行け。俺はやる事ができた」
すっと立ち上がる兄さん。もうほとんど怪我は治ったようだけどそれでも危険なのは間違いない。
だから私は兄さんの背中に抱きついた。行かせたくなかったから。行ってほしくなかったから。
兄さんは私の手を振り払うなんてしない。優しく向かい合って、私に諭すように静かに語るだけ。
それでも――兄さんが行ってしまうのに変わりない。
変わりないのに――
「私も連れて行ってくださるのなら……」
「…………分かった。ただし俺の指示に絶対従うこと」
「もちろんです」
渋い顔ながら、了承してくれた兄さんはそのまま走り出した。
私に気を使ってくれているらしく、余裕がある感じだがそれでも十分速い。しかも音が一切しない。
……本当に、兄さんは昔から何も変わっていないんだ。
屋敷の周りに広がる森に飛び込みながら、私はそれがいい事なのか悪い事なのか考えていた。
森は広く深い。
暗いソレは、まわりを静かに飲み込んで、黒いヴェールで覆い隠している。
だが俺は、こんな森が嫌いではなかった。
時折聞こえる戦闘音。それを頼りに走り続ける。
秋葉も何とかついてきている様子だった。もう少しスピードを上げたいが、秋葉がついてくれないだろう。
ひたすらに森を駆け抜ける。音はもう近くまできていた。
やる事は唯一つ。
――うんっ!そうする!約束だよ遠野君、ピンチの時には助けてね!
「ああ、助けるとも……!」
歯を食いしばり、足に力をこめる。
ミシリと肋骨が軋んだ。まだ直り切っていないところにこういうことをするからツケがきたのだろう。
だが止まるわけには行かない……!
音はもうすぐそこ。俺はその木の間に飛び込んだ。
――そして見た。彼女の右腕が、ぼとりと落ちる様を。
分かっていた事だった。
自分の身体がもう限界なんだって。
血も吸わない吸血鬼が、力を振り絞るなんて死を近づけるだけだって。
でも仕方ないじゃない。
守りたいものがあったんだから。
それを守るために、ほかに方法なんてなかったんだから。
だったらこれしかないじゃない。
進む道なんて、一つしかないじゃない――
「そんな!?」
わたしは自分でも気がつかないうちに叫び声を上げていた。
彼女の固有結界は邪魔なものの、途中から明らかに力が落ちてきていた。
まだ扱いに不慣れなのだろうかといぶかしんだが、その好機を逃す術はない。
アルクェイドと二人一気に攻撃を仕掛けて、増水し濁流となった川縁まで追い込んだ。
荒れ狂う川を背に立つ彼女に、最後の攻撃を加えようと黒鍵を構えたとき、ソレは起きた。
ぼとり
嫌な音だった。肉の塊が地面に落ちた音だった。
彼女は悟ったように、静かに欠落した右腕を見下ろしている。
見ればアルクェイドも動きを止めて彼女を見入っていた。
ありえないはずのソレ。
吸血鬼は肉体の劣化を防ぐため、常に血を摂取し続けなければならない。ソレを怠った時に起こる崩壊――壊死。
ソレが弓塚さんの右腕を落としていた。
「どういう、こと……」
惚けたようなアルクェイドの気持ちも分かる。
つまり彼女は――おそらく一滴も――血を吸わずにわたし達と戦い、アレだけの時間固有結界を維持していた事となる。
そんなもの、自殺行為でしかない。
なぜそんなマネを――
「弓塚っ!」
遠野君の叫びに振り返る。遠野さんを伴って、木々の間から遠野君が飛び出してきた。
そのまま弓塚さんに向かおうとする彼を止めようとわたしは――
「来ないでっ!」
鋭い声の主はわたしではなかった。
残った左腕をこちらに突き出し、弓塚さんはうつむいたまま叫んでいた。
「来ないで志貴君……もう来ちゃだめ」
必死にこらえるように、彼女は苦しそうにうつむいている。
わたしにはソレが何か見当がついていた。
死徒として、生存するための身体からの警告。吸血衝動――
それを必死に抑えながら、彼女は語り続ける。他の誰でもない遠野君だけに。
アルクェイドも遠野さんも、もちろんわたしもそれがわかっているから何も言うことがない。言えないのだ。
これは彼女の遺言なのだから。
「もう限界なんだ……わたしのなかの吸血鬼を抑えられない。いままでずっと隠してきたけど、もうだめなんだ……」
「そんな、どうして!?」
「血を吸わなかったから、いままでずっとわたしでいられた。でもこれ以上は血を吸わないと生きていけない」
「それなら――」
血を吸えばいい。そう遠野君は言いたいのだろう。生きていなければ何かすることさえ出来ないという、彼らしい意見だ。
でもそれは欺瞞なのだ。例え生きていてもそれが自分でなければ、それは果たして意味があるのだろうか。
わたしの胸中と同じ様に、弓塚さんは首を横に振る。
「血を吸ったら、もうそれはわたしじゃない。それは志貴君が助けてくれたわたしじゃないの」
「俺は……なにもしてない」
口惜しそうにこぶしを握り締めて、吐き捨てるように遠野君は言った。
それに弓塚さんはまた首を振る。
「違うよそれは。だって志貴君はちゃんとわたしを守ってくれたもの。
今の今まで、わたしがわたしでいられたのは志貴君がいたから。それって守ってくれたって事だよね?」
儚い笑顔で彼女は歌う。いくら納得が行かなくても、それは彼女の真実なのだ。
「志貴君、約束守ってくれてありがとう。弓塚さつきは、あなたのおかげで最期まで弓塚さつきでした」
一歩一歩後ろに下がりながら、彼女は歌い続ける。
彼女が歌う、最後の歌を。
「だからありがとう。わたしはあなたが守ってくれた弓塚さつきを守りたいから、ここでさよならです」
轟々と、うなりを上げて流れる川。それまでもうあと数歩。
ぴたりと、彼女の足が止まった。
彼女は――最期まで普段と変わらない明るい笑顔だった。
「ばいばい、志貴君。ずっとずっと、好きでした」
トンッと、なんの恐怖もないような自然さで彼女の身体が後ろに跳ぶ。
揺れる長い髪が、暗い闇に踊る。
あとは引き込まれるように、水の中に消えていった。
「弓塚ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
長く長く尾を引いて、酷く悲しい絶叫があたりに響いた。
消える事無く嗚咽が続くなか、わたしはただ彼女が消えていった濁流を見つめていた。死に場所を探していた、一人の哀れな吸血鬼を飲み込んだ黒い流れを。
――いつのまにか、雨は上がっていた。
でも空は陰鬱な曇り空のまま。
暗く重い、落ちて来そうな空の下。
わたしは一人の大切な後輩を失った――
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