月の光に染まる街 十幕
〜日常または幸せ〜
――さぁ、最初の朝だ。
今朝から全てが始まる。
八年間止まっていた時計も、
さっさと動いて鳴り響け――
眼が覚めると朝だった。
窓から差し込む光は少しどころかかなり眩しい。朝日はこんなに眩しかったのだったかと首をかしげながら身体を起こした。
背伸びをして、ベッドを出る。
自分は昼まで寝る生活を送ってはいないのでいつもどおりの朝といっていいだろう。
ただそう――仕方ないとは言え残念なのは、翡翠が起こしに来る前に目覚めてしまったという事か。
…………
……
よく考えてみれば、それだけでいつもどおりとは言えない事に気がついた。
改めて、日常というのが凧糸を使った綱渡り並に危うい均衡で成り立っているのだなぁと思う。
そんな事が現実にできたら間違いなくギネスものだとは思うが、それはこの際どうでもいい。
つまり自分は奇跡を毎日目の当たりにしているという事か。
奇跡的な日常――そんな言葉が思い浮かぶ。
確かに奇跡的な日常だ。
二重の(意味で)奇跡。
ドッペル・ヴンダーってトコか。
いや、綴りを知っているだけで発音を聞いた事は無いのであっているか不安だが。
くだらない事を考えながら、取り出した服に腕を通し、傍らに置いたナイフを懐にしまう。
習慣的にナイフを持ち歩いてしまうのはご愛嬌。殺人鬼なんて言うのはご勘弁。
ナイトテーブルの時計の針は予定の時間を指している。
「さて、行くか」
くすくすと短く笑いながらパタリと部屋の扉を閉じた。
部屋と同じ様に絨毯の敷き詰められた廊下を歩く。
目的の部屋はどこだったか――西館一階の階段手前の部屋。
起きたばかりなのにすぐに即答してくれる脳細胞に感謝しつつ、柔らかな道を踏みしめる。
出たばかりの太陽は、窓から差し込ませた光で無数の十字を壁に映していた。
なんとなく顔をしかめたくなる様な気分で廊下の端を歩いていく。
結局誰にも会う事無く、目的の部屋に到着した。
ここに来てかすかに迷う。
今日は休日。流石の秋葉もいつもよりは遅く――といっても十分だけなのだが――多く睡眠時間を取れる日だ。
翡翠は起きているだろうが、まだ誰も起こさない様に部屋の中で出来る事をしているはず。
つまり邪魔は入らないと見て間違いない。
ただ彼女が起きているかどうか。
まあ……まだ機会はあるか。
そうくるりと踵を返しかけて、
「あらあら、お気になさらなくて結構ですよ?ちゃんと起きてますから」
どうにかして気付いたのだろう、部屋の主直々に声がかかった。
どうやらさっきのはまったくの杞憂だったらしい。
やれやれと肩をすくめながら取手に手をかける。
差し込む光が、薄い陰影を引き延ばしながら奥へと延びている。
ベッドの上に寝たきりの主は、クスクスと明るい笑みを浮かべたまま来訪者を歓迎した。
「おはようございます。随分早いんですね」
「おはよう。迷惑だったかも、と後悔してるとこなんだが」
ぽりぽりと頭を掻く。かもじゃないだろう、かもじゃ。
それに対しても彼女は笑みを崩さない。
「いいえ、そんな事はありませんよ。むしろこんな時間を選んでいただいて感謝したいぐらいです」
「大した事じゃない」
コイツに対しては照れ隠しも何も通用しない。
だからさっさと本題に入る事にした。
「身体の方は?」
「はい、後遺症も無いそうで。翡翠ちゃんに助けられちゃいましたから」
言葉とは裏腹に申し訳なさそうに言う。
「普通のやり方じゃ助からなかっただろうしな。たしかに共感だけだろう……それにしてもトリカブトとはまたらしい物を」
「そのつもりでしたから。ドアの向こうに翡翠ちゃんがいたなんて思いもしませんでした。
……ああまで言ったのに、あの子はまだわたしを信じていたんですね」
彼女が翡翠に何を言ったのか聞いていないが、予想はつく。
それはあえて聞く必要も、無い事。
それよりも大事な事がある。
「それで、どうするつもりだ?」
「どう、とは……?」
首をかしげる彼女に引き攣った笑いをこらえる。
ああ……こんなにもコイツは演技が下手だったか?
あの全てを騙し、自分すら手玉に取り、何もかもを演じきったアイツはどこに行った?
「とぼけるなよ。お前の部屋にあった毒薬は全部捨てた。間違っても死のうなんて考えるなよ」
ぎゅ、と彼女の手が毛布の上で硬く握られた。
横にある棚を見つめながら、視界の端で捉え続ける。
「どうしてそうお考えに?」
「長い付き合いだ。それくらいな」
本当、長い付き合いだ。
どうしようもないくらい、わけのわからない理不尽な状況のせいで、
ただぬくもりを求め合うしか出来なかった時間だけだったとしても、
それは確かにあったんだ。
それなのに――コイツは全く分かってくれない。
「どうして、ですか?秋葉さまでさえ殺そうとしたわたしがどうして生きていいんです?
人形のわたしは計画が終わったら、ゼンマイが切れたら、止まるしかないじゃないですか」
だからこんなことが言えるんだ。
虚ろなそれは、まだ変わらない。
だからこれがこの事件、最後の仕上げ――
すぅと息を吸う。
「わかってた。全部、あの時から」
今度こそ、本当にびくりとはねた後、彼女の動きが凍りつく。
息も、動作も、なにもかも。
誰も動かないこの静謐な空間は、刻の止まった劇場の様。
やがて、最初は小さくゆっくりと、そしてクレッシェンドで声は響いた。
「どういう、ことですか……なんなんですそれ……わかってたって、何をですか!」
「全部だ。人形に戻ったオマエの考えそうな事。覚悟したのはあの男を殺した時」
淡々と告げる。
反対に琥珀は、今まで見たことが無い程の激しさでこっちに言葉を叩きつけてくる。
「あの男とはまきひ――」
彼女がその発音を終える前に、流れを断ち切る。
殺意が止まらない。目の前がくらくらする。怒りでなにもかも血液ですら逆流しそう。
やっとの思いで彼女に忠告することが出来た。
「その名は言うな。スマンが今でも、まだまだ苦しめてから殺すべきだったと思ってるから」
思わず握り締めた手から滴る血に顔をしかめて、血で傷をふさぐ。
ばつが悪そうに顔を伏せた彼女。
それはそうだ、あの場面を思い出したのなら。
壁に貼り付けにされたあの男。
それでもヤツは彼女を詰った。
色仕掛けで味方を作るとはお前らしいやり方だと。
あの時ほど強烈な殺意を覚えた時は無い。ただコレが目の前にある事をどうしても許容できなかった。その存在を許せなかった。
唯の肉の塊になったあの男に気付いたのは、血に塗れた彼女が目に入ったからだった。
ああ……今思い出しても後悔だけだ。
激情に駆られずに、琥珀のいないところで、もっとゆっくり切り刻めばよかった。
「全部って、どうしてです……だってそんなの予想できるはず――」
「オマエの行動の根本は翡翠の幸せだ。
それにとって脅威となるのは自分の経験から考えて遠野の血だろう」
淡々とした口調を変えずに、俺は数年前から考えて来たそれを言葉にする。
「あの男の始末はどうにでも出来る。それこそ毒でも飲ませりゃいい。アレでも致死量を大きく超えれば死ぬだろう。
問題はオレと秋葉。オマエはオレの身体の事は知っていたから毒が効くかどうか確証がもてない。秋葉は世間に対して不審に思われる。
……いや、思われたって良かったんだろうけど、オレを殺すまでは捕まる訳にはいかない。
ならオレと秋葉、一度に殺す方法はあるか。自分でも出来る方法はあるか――?」
ずっとずっとあの暗い部屋でそれだけを考えていた。
それは止めなければいけない事だから。
「ある。どちらも自分の手に負えない相手だからこそ、噛み合わせればいい。それが一番安全な方法だ。
そんな人を操るような真似が可能か。相手に怪しまれずできるか――可能だ。
オレは――アイツを殺した。その事で衝撃を受けていた秋葉には俺を憎むよう暗示をかければいい。
ただでさえ不安定なところに薬物やオマエの力、やれない事はない。
さらにオレを殺すのに協力すると言って秋葉の力を増す共感の契約を結ぶ。時限装置兼保険としてな。
そしてオレにも同じ事をする。オレの方はあの野郎がいたからな。オマエの力は必須だった。
これで準備は完了だ」
琥珀の表情は見えない。
オレも見るつもりはない。
ああ――まだ、ダメなんだ。
「だがまだ不安が残る。この二人を殺し合わせればいいが、どっちかが生き残っちまうだろう。それを殺さなくちゃならない。
生き残った方を倒す有効な手段は。せめてさらに傷を負わせられないか。それが出来る人間はいないか――いる。
オマエはアイツの素性をあの男から聞いて知っている。オレにも話したしな。
さらにアイツの運動能力も見ている。オレにも十分対抗できる。
そのためにアイツを呼んだ。秋葉を上手く誘導してな。反対するのはあの男くらいだろう、元々殺すつもりだ、何て事無い。
さて――これで後はタイミングだ。オレと秋葉を邪魔無く戦わせ、どちらかが倒れた時点でアイツが上手くそこに現れる様に図る。
ギリギリの戦いだ、嫌でもオレと秋葉は鬼種の力を出すし、先に仕込んだ共感でムリヤリ反転させてもいい。
残ったヤツは七夜の血に目覚めたアイツが狩るだろう。いや、アイツなら自分を押さえ込めるだろうが、すこしでも疲労させ傷を深くさえすればアイツの役割は果たせたんだ。
死に掛けなら、毒を塗ったナイフで心臓を刺せばきっと殺せるだろう。ここは不安が残るが、そこまで弱ったのなら自分でもなんとかなるだろうと踏んだ。
これで――遠野の血は絶える。翡翠は残された給金を受取り、安穏と暮らせる。
これが一番安全で確実なんだ」
琥珀の性格、能力、経験、知識――
それを踏まえ、最悪でも遠野の血は絶てるシナリオを考えればコレに行き当たった。
「分かった以上、利用するのは簡単だ。
オレも利用させてもらったんだよ、オレの望みの為に」
琥珀の気配がこちらを向くのが分かる。
振り返りながら、にやりと笑って告げる。
「オレの望みは、秋葉を遠野の呪縛から解く事」
遠野と言う鎖に繋がれ、常に自分はバケモノなのだと怯え、苦しみながら暮らしていた秋葉を自由にしてやりたかった。
「翡翠に平和に暮らしてもらう事」
感情を押し殺し、あの幼い頃の姉を救えなかった事に囚われていた翡翠に安らぎを与えてやりたかった。
「八年前、ついにアイツに言えなかった言葉を伝える事」
殺しておきながら、「ごめんなさい」も伝えられなかったあの後悔。今でも忘れない。ただ――ただアイツに謝りたかった。
「そんで――」
これが最後。これで、役目を終えれると思っていた。
「オマエをあの日向にひっぱりだして、とびっきりの笑顔にする事」
「四季さま……」
顔を上げた琥珀。
その顔は――ああ、本当、どうしようもなく、懐かしかった。
それを隠したオレの口調は淡々とした、平行線。
「さてそのためには、オレが遠野の血でも特殊なのだと秋葉に分からせ、同時に秋葉の反転の可能性を無くして死ねばいい」
「な……!?」
びくり、と先と同じ様に琥珀の身体が震えた。さっきまでの笑顔が凍りつき、そこにあるのは恐れ。
「オレが特別なのだと秋葉が理解すれば遠野の血にも打ち勝てるだろう。元々反転の可能性は低いんだしな。
またオレが死ぬとき秋葉に侵されていない力を略奪させれば反転の可能性は下がる。
オマエの補助があればさらに完璧。オマエは秋葉の反転の可能性が低いのなら、自殺せずに生きて秋葉を助けるだろう。
ほら――オレが死ぬだけで、全部解決する」
「何をおっしゃってるんですか!そんなこと――本当に考えてらしたんですか四季さまはっ!」
「ああ。アイツにも言ったが、イケニエがいねェとカミサマはシアワセなんてくれねェんだ。
ならオレはソイツになってやるよ。あの野郎を抱え込み、さらにはアイツを一度殺したオレだ。
一番いらないだろ?それならオレが適役だ」
そのために生きてきたんだよ、と付け加える。
この望みがあったから、あの暗い檻の中の生活も、ロアとの戦いも、全て切り抜けられた。
これだけが全てだった。
ああ――そういう意味でも、オレと彼女は似ている。
だからこそ、なのだろうか。
無意味に――ただ罪悪感なんかでコイツが死にたがっているのが、どうしても許せない。
「ま、結局なんだかんだでオマエの計画は狂っちまったからな。おかげで便乗するはずのオレの計画もボロボロ。
オマエも修正しようとはしたんだろうけど、一度狂っちまったらそう簡単にはいかねぇからな。
でまあオレもこうして生き残っちまってるわけよ」
まったく何の因果だか、と肩をすくめる。
と、琥珀は顔を上げずにただ震えていた。
「こはく……?」
近付こうとした途端に、顔を上げて。
「どうしてそんな事を言われるんですか!どうして――!」
ベッドから抜けられないくせに、必死にオレに近付こうとする琥珀。
ぎこちなく笑って、ベッドに腰掛けた。
コイツの手が届くように。
「オマエ、やっと人形じゃなくなったな。
自発的に目的以外で他人の事考えられるんなら、そりゃ人形じゃねェよな?」
やっとオレの仕事も全部終わったらしい。
まったく、それもこれも全部――コイツが分からず屋だったせいだ。
しがみつく琥珀の髪を撫でる。
「これでもオレは怒ってるんだぞ?
秋葉を殺そうとした上死のうなんて……絶対許さねェ。
本当、泣いても許してやんねェぞ」
「どうしたら……許してもらえますか?」
無理に微笑みながら問い掛ける琥珀。
オレはにやりと笑って答えた。
「自分で考えろ。人形じゃないんだから」
徐々に冬が深まり行く十一月。
今夜も月が綺麗だった。
森の中。
すこし広場になったところ。
アイツと秋葉とオレと翡翠。四人で遊んだこの広場。
そこからの月は格別だった。
天に向かって伸びた木々が、上天だけぽっかりと空いていて、そこから降る光は燐光の様。
ああ、本当。いい夜だ。
座り込んで持って来た酒を注いで煽る。
辛口の酒が喉を通る度、体が熱くなる。
だがそれも、この寒さの中では心地良い。
月は白く。青く。
さながら月光は舞い散る雪。
さざめく冬の葉の音を聞きながら。
オレはアイツが来るのを待った。
「待ったかい?」
向かいの木の間からゆらりとアイツが現れる。
相変わらず気配の欠片も無いヤツだ、と苦笑しながらオレはもう一つの杯を差し上げた。
「いいや、まあちょっと早かったから先にやらせてもらってるけどな。
ほら、オマエの」
「ああ、ありがとう」
受取られた杯になみなみと注ぐ。
志貴は立ったまま一気に呷った。
「おいおい……酒強くなったのか?昔はビール程度で倒れてたクセに」
「多少はね。オマエは昔から強かったもんなぁ……九歳で利き酒が出来るなんて自慢になるぞ?」
「はは、酒は嫌いじゃねェからな」
志貴はオレの隣に座り、今度はオレに注いできた。
ありがたく頂いて、やはり一気に呷る。
「で、どうだった?久しぶりの故郷は」
「久しぶり、じゃないよ。毎年墓参りだけは行ってたからね」
その答えに少し驚く。
そんな事まで覚えていたのか。まったく……あの男の暗示とやらもまったく無意味に近いな。
まあそれはオレにとって悪い事ではなかったのでこれ以上何も言うまい。
「七夜の里、か……」
「うん、そう呼ばれている辺鄙な場所だよ。
今じゃあるのは森と廃屋以外は俺の作った墓だけなんだけどね」
「……すまんな」
思い浮かんだのは小さな志貴が淡々と、無言で一族の墓標を立て行く様。
それに居たたまれなくなって、オレは呟いた。
志貴はオマエのせいじゃないよと笑う。
「まあ今年は特別だね、八年越しの望みがかなったわけだし」
あっさりとした口調だが、その言葉がとても嬉しくて。
もう一度注いで一気に呷った。
勢いに任せて喋り続ける。
「それで姫さんは?連絡来てんのか?」
「ん、アルクェイドか?毎晩電話をよこして来るよ。それにもうすぐこっち来れるって。
でもその通話時間の七割を秋葉が使ってるってのが納得いかないなぁ」
「秋葉にすりゃあ姉みたいなもんなんだろ、姫さんは。
ああ――実際義姉になんのかね。なぁ志貴?」
そう言って肩を寄せたが、志貴の顔が真っ赤なのは何も酒のせいばかりではあるまい。
「うるさいな……オマエだって弓塚さんとはどうなんだよ?」
「さつきか?愛してるぞ、婚約も済ませたし」
「…………どーしてそう、臆面も無く言えるんだ……」
なにやら顔を押さえてうつむいている志貴。
そう言われてもな、と頬を掻く。
「ありゃあ完璧に一目惚れだったからなぁ。
アイツの血を吸ったのは反転してたオレでもなく、ロアでもなく、間違いなく素のオレだったんだよ。
一目見て頭ん中ぶっ飛んで――気がついたらアイツの首に噛み付いてたよ。
あん時は本気で後悔したけど、どっか嬉しかったな。これでコイツはオレの物だっ――て」
「はぁ……過激だなぁ、オマエ」
「オマエに言われたかないぞ、志貴よ」
ぎくり、と効果音がつきそうなくらい志貴が固まる。
ニヤニヤとオレはさらに詰め寄った。
「聞いたぞ?姫さん出会い頭に解体したんだって?七夜を制御できるのに?
オメェの方がよっぽど過激だよ」
「……言わないでくれ。思い出しても頭が痛い」
「はははっ、まあ飲め飲め」
志貴の杯にさらに酒を注ぐ。
志貴ももう自棄になったのか、たいして強くも無いくせにまた一気に飲み干した。
はぁ……と志貴のため息が、やけに大きく聞こえた。
そろって月を見上げるが、それはさっきと変わらない美しさのまま空にある。
ただ空に独りきり。
それはおそらく――なによりも孤独。孤高。それゆえに、美しい。
「志貴」
かつて孤高と感じた男にオレは問う。
「なんだ?」
彼は静かな声で問い返した。
湖面の様に静かな声は、波紋一つ無い美しさ。
だが、今はどうなのだろう。
「なんであんな無茶した。話に聞いたその眼なら、確かに今回みたいにオレの中のロアだけ殺すなんてマネも出来ただろう。
だがそれがどれだけ危険か、わかってんのか?
人間の認識レヴェルで魂、時間――それらの死を視る事は、眼と脳にとって冗談じゃない負荷だ。廃人にすらなりかねない。
それなのに――」
「四季」
僅かならない怒りを込めた声が、オレを遮った。
オレは黙り込む。
「…………」
「つまらないこと、聞くなよ」
なんでもない事のように――ああ、違う。本当になんでもないのだろう、コイツは答えた。
そう言ってくれるコイツがいた事。それはどれほど幸福だろう。
あの男の暴走のせいで家も一族も亡くした志貴。
その原因の子であるオレや秋葉にすら優しい志貴。
どれほどコイツに助けられてだろう、どれだけコイツに頼っていただろう。
この閉じられた夢(セカイ)の中で、コイツはいつでも、ウソみたいに綺麗だった――
「泣くなよ四季」
「オマエだって」
ぼやけた視界に浮かぶ月。
あるはずの無い、雲の無い朧月夜。
それは今まで見てきたどんな月より綺麗だった。
「これから……どうするんだ?」
唐突に語りだす志貴。オレは何も言わず、視線を向ける事もなく、ただ月を見上げた。
「オマエは?オレのは後」
志貴もこちらを向かずにその場に横になった。
ああ、成るほど。それなら確かに涙は目立たないかも知れない。
「そうだな……とりあえずアルクェイドと一緒にいるよ。しばらくこっちで暮らすって言ってたし……」
「その後は?」
オレも寝転びながら問う。何せ相手は吸血鬼だ。寿命――もって生まれた期限が違う。
志貴は黙り込んだ。
コイツの思考は単純だ。簡単に読める。
だから、言ってやった。
「別れの最たるものは死別だ」
志貴は何の反応も返さない。
だがオレは構わない。コイツが真剣に聞いているのは知っている。
「病死。事故死。他殺に自殺――
寿命。期限。命の終わり。時の果て――
生物として定められた終わりに、どれほどの人間が納得できずに、ただ突きつけられる覆せない事実に絶望したと思っている。
その壁をなくせない事を、どれだけの人間が嘆いていると思っている」
「それでも俺は――できない。
そんな気持ちを持ったままでは、アルクェイドに血を吸わせたくないんだ」
その答えに深く深く嘆息する。
なんでこう、自分の周りには分からず屋ばかりなのだろうと。
だから一発殴ってやった。
ごいん、と重い衝撃が腕を震わす。
頭を押さえてこちらを睨み、叫ぼうとする志貴を遮ってオレは声を張り上げた。
「バカ野郎!責任ぐらい果たしやがれ!
オマエは何をやった!」
志貴は目を丸くして、それでも素直に答える。
「アルクェイドを殺したこと……」
「ならそれに対してオマエは何をしなけりゃならない!
どうやってそれを償う気だ!
オマエはそこに、何を望んだ!」
叫ぶオレの声がわんわんと森に響く。
深く。
遠く。
夜に染み入り。
それは透る。
「アイツを――できうる限り幸せにしてやる」
「ならそんな悲しいこと言うな。絶対口にするな。
もし言いやがったら金輪際口利いてやんねェぞ」
渇いてしまった喉を潤すために酒を継ぎ足し、一気に飲み干す。
志貴はしばらくうつむいて考えているようだった。
まあ答えはいつか出せばいい。
それは結局自分だけのものでしかない。
だがすこし――このバカに他人を頼ってもいいんだっていう選択肢を思い出させてやりたかったのだ。
なにもかもを背負ってしまう、孤高で、孤立してて、優しすぎるこのお人好しに。
「それで、お前は?」
そういえばと問う志貴。どうやら忘れてはいなかったらしい。
再び寝転んで月を見上げながら、それに答えた。
「さつきを人に戻す方法を捜すつもりだ。生憎、時間は余るほどあるしな。
ま、それもさつきが卒業してからだ。そうすりゃまずヨーロッパでも周って来るさ」
「そうか……お前も大変だな」
苦笑気味に志貴は呟く。
大変、か。
そんな事は無いと思う。
だってこれは責任だから。
人間のさつきを“殺した”オレの責任――
クックッと笑いながら、
「オレ達だけだろうな。殺した責任をその本人にとらなきゃなんねェなんてな」
そう呟く。
ああ、本当だ。と志貴も頷く。
本当、なんて縁だ。
だがそれも、悪くない。
この奇妙な縁も、心地良い。
だからこのまま歩いて行こう。
この銀幕の下りた中、夜の舞台を歩いて行こう。
月の光はまだ止まない――
風が吹き抜ける草原の中。
ただ空を見上げていた。
先にあるのは白い月。
ぽっかりと浮かぶ白い月。
闇の中にあって、それは底の無い穴のように穿たれていた。
ああ――だからだろう。
月は魔界の扉とも言われるのは。
…………
……………………
ここにいれば、会えるかもしれないと思ってはいたけれど。
まさか本当にそうなるとは。
薙いだ一陣の風は、俺に彼女の到来を告げていた。
「いい夜ね、志貴」
そこにいることが何よりも正しいかのように、彼女はそう話し掛けた。
「ええ、そうですね……先生」
言って振り返る。
あの日のように風に身を包まれて、長い髪をはためかせ、先生はトランク片手に空を見上げていた。
「おひさしぶりです。お元気そうで何よりですよ」
「それほど調子がいい訳でもないんだけどね。聞いてない?姉貴との一件」
「知ってますよ。かなり騒ぎになってましたから」
苦笑しながら返答する。
先生は大きくため息をついた。
「まったくね……結果的に雨降って地固まるになったけど、一歩間違えれば凄い事になってたわよ」
「協会では魔法使いが一人消えたことだけでも大事でしょうけど」
「協会ってそういうとこよ。あっちのミスでわたしが死にかけたってのに、何も言って来やしない」
やれやれと先生は言って、俺に目を向けた。
「それより志貴、貴方完全にあちこちから眼つけられてるわよ。
……会った時には想像もしなかったわ、まさか真祖の騎士にまでなるなんて」
「それには興味ないんですけどね……アイツのそばにいられるならって言うか……」
「おーおー言ってくれるわね」
ニヤニヤと笑いながら先生は俺を肘で小突く。
……こういう人だったっけ……
なんだかやさぐれていく過去の幻影を惜しむ俺。
そんな俺には構わずに、先生は世間話でもするようにそのことを言ってきた。
「それから貴方のお友達二人、正式に二十七祖指定されたわよ。これから一層賞金稼ぎやら何やらが来るでしょうね」
「…………遂に、ですか」
いつかはされるだろうと思ってはいたが、こんなに早くか。
まあ――教会の上層部も、莫迦ばかりではないということか。
「どうやら埋葬機関長が枢機卿達にごり押ししたらしいわ。例のワラキアの夜事件で彼らの力を見ている彼女としては放っては置けないんでしょうね」
「確かに。ある意味あの事件で有名になりましたからね、あの二人」
「そう、現象なんていう世界に溶け込んだ存在を殺したんだもの。あれを殺せるのは貴方か彼か――」
「両儀さんか」
先生はクスリと笑って頷く。
「きっと真祖でもあれはそう簡単には殺せない。まったくたいしたものだわ……」
「そうでもないですよ……」
「……そうね。間違いなく、そうなのよね」
さっきより大きく、ため息をついて先生は俺の隣に座る。
赤い髪が、ざあと揺れる。
「そろそろ行くわ。他人の要らない詮索を受ける必要も無いしね」
苦笑いを見せながら立ち上がる先生。
その彼女に、俺は問い掛けていた。
「何も言わないんですか?」
俺がアルクェイドの護り番になったことも、
俺の身体がそう長く持たないことも。
ざあ――
風が、鳴る。
通り抜けるそれに手をかざしながら、先生は微笑んだ。
「必要ないもの」
それだけを言って、彼女は後ろを向いて二歩三歩と歩いていく。
「……なんだ……お見通しなんですか……」
ポツリと呟いた。
「やっぱり、かなわない」
ゆるゆると首を振って、俺は叫んだ。
流れる風に乗せて、去り行く先生に届くように。
伝えたい言葉があるのだから。
「ありがとうございました、先生!またどこかで!」
届いたのだろう、その言葉が。
一度振り返り、
「どういたしまして。それじゃあね、志貴」
ごう、と今まで以上に大きく風が鳴く。
揺れた視界を戻した時には、先生はあの時と同じ様にいなかった。
しばらく先生のいた場所を見つめて、また草原に横になる。
見上げる月は、先と同じく白い光を放っている。
――また会う事もあるだろう。
この俺の選んだ道の上で。
そのときはどうなるか、わからないけれど。
後悔だけは、しないだろう――
見るだけ見た空。もういいだろう。
腰を上げて、帰路に着く。きっとあのお姫様が待っている。
急いで帰ろう、いつもの俺の居る場所に。
アイツが笑顔で待ってる場所に――
――了
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