月の光に染まる街 第二幕〜紅い過去あるいは蒼い邂逅〜
授業はすべて終わり、放課後――
俺はいまだに帰る決心がつかなくて、教室に残っていた。
俺以外には誰もいない教室。昼間と反転した朱と静寂の世界。
教室内の机も黒板も壁も、窓から見る校庭も空も、朱色が染み込んでしまっている様だ。
――紅色は眼に響く。だから苦手だ。
何が原因かなんて分かっている。血の色を思い出させるからだ。あの真紅が、あの真紅を。
――そうとも。分かっている。だからと言って治せるわけではないのだ。
ぼんやりと外を見やりながら胸に手をやる。大きく残った傷痕に。
――事故。そう事故だったのだ、あれは。
不幸な偶然が重なった事故。それでいい――
大きく息をつき、眼を押さえる。この傷痕と同時に得た物。この等しき“死”をもたらす魔眼。
画かれた“線”を斬る事で万物を殺す。その“線”を視る事がこの眼の力。
カッターナイフでも、この眼がある限り人を切り裂き、壁を解体する圧倒的な凶器。
……やった事は無い。それもこの眼鏡のおかげだ。
先生にもらったこの眼鏡。“線”を視えなくするその力で、俺はようやく普通の生活をできる。
こんな事を考えている時、決まって思い出すのはあの時の事。
先生に初めて出合った、あの日の事。
眼が覚めると、白い天井が見えた。
顔を傾けると、慌てて走っていく看護婦さんの姿。そこから病院なのだと僕は分かった。
ああ、僕はけがをしたんだな。だからここにいるんだ。
でもおかしい。ここは病院。けがや病気を治す所。
そんな所になんであちこちに黒い線があるんだろう?
壁にも、
窓にも、
天井にも、
ベッドにも、
さっきの看護婦さんにも、
そして僕にも、
黒い線が走っている。それを見ていると、とても気持ち悪くて。
だから僕は眼を閉じた。
その暗がりの中では、線も紛れて見えなくなった。
「回復おめでとう、遠野志貴君」
あれからしばらくしてやって来たお医者さんは僕に握手を求めてから話し出した。名乗っていたような気もするけど、もう忘れてしまった。
「君がどうしてここにいるか、わかるかい?」
「……分かりません」
ウソだ。僕はちゃんと覚えている。
だけどそれは言ってはいけない事。アイツのためにも、きっとこれからずっと黙っていなくちゃいけない事。僕は遠野志貴だから。
本当はバレないか不安だったけど、お医者さんはそれで納得してくれたようだ。うんうんと一人うなずいている。
「君は自動車事故に巻き込まれたんだよ。胸にガラスの破片が突き刺さってね、とても助かるような怪我じゃなかったが、君は奇跡的に回復したわけだよ」
――そうか。そういう事になっているのか。
それならそれでいい。
それなら後一つ――
「一つ……聞いていいですか?」
「なんだね?」
「その黒い線なんですか?壁にも先生にもあるんですけど」
「…………」
それを聞いた途端、お医者さんは難しい顔になってしまった。隣の看護婦さんに小声で話し掛けたが、それは僕にも聞こえた。
「……やはり脳に異常があるようだ。芦屋先生に連絡を取っておいてくれ。あと午後は目の検査の方に回してくれ」
看護婦さんが小さくうなずくと、お医者さんは作り笑いのような笑い方をして看護婦さんと部屋を出て行った。
どうやら僕の話は信じてもらえなかったようだ。
それにしても、この線は一体なんなんだろう?
ベッドにあった一本を指で突く。するとあっさりと指は線に飲み込まれた。
もっと細いものならどうだろう?近くにあった果物ナイフを手に取り、線に沈み込ませる。
根元まで突き刺さった。
そのまま線をなぞる様にナイフを動かしていく。そしてベッドの端まで来て――
ごとり
ベッドはあっさりと切れてしまった。
「きゃあああああああああっ!!」
隣の女の子が叫んでいる。それもそうだろうなぁ、と納得しながら、僕はそのままやってくる誰かを待ち続けた。
「どうやってベッドをあんな風にしたんだい?怒らないから教えてくれないかな?」
「だから線があって、それをナイフでなぞったら切れたんです」
「さっきから言っている様に、そんな線は無いんだ」
この繰り返しだった。
僕は線があるといい、お医者さんは線がないという。
どうやらこの人には線が見えないらしい。だから僕の話を信じてくれないんだ。
そしてほかのみんなも線が見えない。だから僕の話を信じてくれない。
「……もういいよ。また今度にしよう」
お医者さんがそう言い、僕は部屋に戻った。
そこでゆっくり考えてみる。
この“線”は何なのか。
……きっとこれは、つぎはぎの様な物なんだろう。世界のつぎはぎ、とでも言う物。
だからここを切ればどんな物も切る事ができる。線がある限り、壁でもベッドでも、人でも。
怖かった。知りたくなかった。
世界はこんなに壊れやすいなんて、知りたくなかった。知らなければ良かった。
道を歩いていても、その道は今にも崩れそう。空を見上げても、すぐにでも落ちて来そう。
怖くて怖くて、こんな眼なくなってしまえばいいとも思った。でも出来なかった。
何も見えなくなる事も怖かったから。
あれから二週間、結局僕の話を信じてくれる人はいなかった。
それはまるで僕だけがおかしいみたいな、そんな感触。
誰も会いに来てくれる事も無く、つぎはぎだらけの病室に閉じ込められているような僕。
そこにはいたくなかった。線がある所になんて、いたくなかった。
だから誰もいない、そんな場所に行きたくて、僕は病室を抜け出していた。
走る。
走り続ける。
でも胸が痛くて、少ししか走れなかった。
昔はもっと速く走れたはずなのに。
昔はもっと遠くまで走れたはずなのに。
昔の自分からも見捨てられたような気がして、悲しくなった。
泣きたくないのに、眼からぽろぽろ涙がこぼれた。
事故からずっと、泣いた事なんて無かったのに。たったこれだけの事なのに。
なぜか悲しくて、僕は泣きながら走り続けた。
夢中になって走り続けて、気が付いた時僕が立っていたのは街の外れにある野原だった。
そこはちっとも遠い場所じゃなくて、
つぎはぎの見えない場所でもなかった。
でもよく考えたら、線の見えない場所なんかあるはず無くて、胸の傷もずきずき痛んで、
僕は余計に悲しくなった。だからまた泣いてしまいそうだった。
僕以外には誰もいない、夏の終わりの草原。そんな所に僕はいた。
見上げれば蒼い空。どこまでも続く蒼い空。その下に僕はいた。
このままここにいれば、いつか消えてしまうかもしれない、そんな草原の中。そんな空の下。
でもそうはならなかった。
「君、そんな所にいると危ないわよ」
突然後ろから何の気配もなく、唐突にその声はかかった。女の人の声だった。
「え……?」
振り向くと、そこには長い髪の女の人が立っていた。片手には大きなトランクを持っているから、きっと旅でもしているのだろう。
そんな人が、少し起こっている様子でしゃがんでいる僕を見下ろしていた。
「え、じゃないわよ。君はただでさえ小さいのに、草むらの中でしかもうずくまってると見えないんだから。気をつけないと蹴り飛ばされるわよ」
片手にトランクを提げたまま、その人はそんな事を言っていた。
……そんなに僕は、背が低くはないと思う。これでもクラスで前から四番目だ。
「できれば、蹴り飛ばされたくないなぁ……」
「そりゃそうでしょ。だったら気をつけなさい」
トランクを置きながら、僕の隣に座る。そうして僕ににこりと笑いかけた。
それは、僕にとってずいぶん久しぶりな笑顔だった。
「ま、ここであったのも何かの縁ね。少し話し相手になってくれない?私は蒼崎青子。君は?」
それからずいぶん長い間、女の人と話していた。
この人は僕を子供扱いせずに、ちゃんと一人の友達として見てくれたから、おしゃべりも楽しかった。
ずいぶんいろいろな事を話した。
家の事。秋葉の事。いつも遊んでいた時の事。森で鬼ごっこをしていて、秋葉が泣いてしまった時の事なんか、僕自身懐かしかった。
本当に、いろいろな事を話した。だから時間もずいぶん経っていた。
「――ああ、もうこんな時間か」
女の人はポケットから取り出した古そうな懐中時計を見て残念そうに呟いた。
「悪いわね志貴。少し用事があるのよ。お話はここまでね」
「…………うん」
女の人は行ってしまう。僕はまた一人になってしまう。
そう考えると寂しくて、うなずきたくなかった。でもきっと、それは迷惑だから、僕のわがままだから、僕はうなずいた。
女の人は立ち上がると、最初と同じ様に僕を見下ろして言った。
「それじゃあまた明日、ここでね。君も病院に帰って医者の言いつけを聞いて速く怪我治すのよ」
「――――」
「ん?どうしたの?」
「明日も、会えるの?」
「当たり前じゃない」
女の人はトランクを持ち直して続ける。
「私も君の話、もう少し聞きたいのよね。それじゃあね」
もう女の人が振り返る事は無かった。でも僕もそれで十分だった。
帰ろう、病院に。
もう寂しくはなかった。
その日から、僕は午後になるとあの野原に行く事が日課になった。
女の人を最初は青子さんと呼んだけど怒られてしまった。自分の名前が嫌いだから、と言っていた。
仕方なくどう呼べばいいか考えて、なんとなく偉そうなので“先生”と呼ぶ事にした。
それからも先生とはいろいろな話をした。先生はどんな話でもまじめに聞いてくれて、どんな悩みでも一言で片付けてくれる。
あの事故で失ったものを、少しずつだけど僕は取り戻していった。
それにあの線も、先生と話しているとあまり怖くはなくなってきていた。
だからある日、僕は先生にその線の事を話した。
「先生、僕きっと他の誰にも出来ない事が出来るんだ」
先生を驚かせようと思って、病院から持ってきた果物ナイフで近くの木の線を切った。木は根元からごとりと音を響かせて倒れた。
唖然とする先生を振り返り、僕は得意げに微笑んだ。
「どう?線の見える所ならどんな所でも簡単に切れるんだよ。きっと僕以外誰にも出来ないよね?」
「っ志貴!」
ぱぁんと言う乾いた音。頬からしびれたみたいに痛みが広がっていく。
先生に叩かれた、という事に僕が気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。
「先……生?」
先生は厳しい目で僕を見つめている。それは僕が今まで見た中で、一番厳しい眼。
「君は今、自分がどれだけ大変な事をしたか、分かってない」
その声と、その眼で。
僕はとてもいけない事をしてしまったのだと思い知った。
その顔と、頬の痛みで。
僕はとても悲しくなった。
「ごめんなさい、先生……」
頬を今度は温かいものが伝っていった。
いつのまにか、僕は泣いていた。
「ごめんなさい……」
「……謝る必要はないわ」
ふわりとした感触に、僕は目を開ける。僕は先生に抱きしめられていた。
そのまま先生は言葉を続ける。
「でもね、今君を叱る人間がいないと、いつか取り返しのつかない事になるわ。
だから私は謝らないけど、志貴は私の事を嫌ってもいい。
その代わり、もう軽々しくあんな事をするのはやめて」
「分かったよ、先生。でも僕は先生の事、嫌いにならない」
嫌いになるはずなんか無かった。悪い事をしたのは僕なのだから。そして先生はそれを止めてくれたのだから。
「よかった……それにしても、どうやら私と志貴が出会ったのは一つの縁だったみたいね……」
「縁……?」
「その事はいいわ。それよりその線の事、詳しく話して」
僕は事故にあって以来見る事になった黒い線の事を話した。
先生の僕を抱きしめている腕の力が強くなった。
「志貴、それは本来決して視えてはいけないものなの。
“モノ”である限りね、それには壊れやすい個所があるの。いつか壊れる私達だからこそ、それは存在するわ。
君のその眼は、その壊れる瞬間――つまり“死”を視ているのよ」
「“死”……」
「そう、“死”よ。今はまだ、それ以上は知らなくていい。必要になれば、それは必ず分かることだから」
僕はがんばって考えるけど、先生の言っている事はよく分からない。ただとても――怖い事なのだという事だけ分かった。
「もう一度言うわ。その線を軽々しく切らないで。君の眼は“モノ”の命を軽くしすぎてしまう」
「うん。先生がそう言うならもうしない。本当にごめんなさい、先生」
その時になって、先生はやっと安心したように息をついた。
「本当に、よかった……志貴、今の言葉を忘れないで。ずっとよ。
そうすれば、絶対に君は幸せになれる」
先生がそう言うのなら、そうなのだろう。でも僕は不安で仕方がなかった。
この線が見える限り、いつ切ってしまうか分からない。それに世界がこんなにつぎはぎだらけじゃ怖くて仕方が無い。
今は先生がいるけど、それもずっとじゃない……
その事を話すと、先生はにこりと微笑んで僕の体から手を離して立ち上がった。
「その事については心配しないで。私が何とかする。
どうやらそれが私がここに来た理由みたいだし、ね……」
それから先生は、また明日、同じ時間にここに来るようにと言い残していつものように去っていた。
その日の夜、僕は先生に言われた事を思い出していた。
『“モノ”である限りね、それには壊れやすい個所があるの。いつか壊れる私達だからこそ、それは存在するわ。
君のその眼は、その壊れる瞬間――つまり“死”を視ているのよ』
『今はまだ、それ以上は知らなくていい。必要になれば、それは必ず分かることだから』
『その線を軽々しく切らないで。君の眼は“モノ”の命を軽くしすぎてしまう』
『本当に、よかった……志貴、今の言葉を忘れないで。ずっとよ。
そうすれば、絶対に君は幸せになれる』
先生の言葉が頭の中で何度も繰り返されて、その日はなかなか眠れなかった。
窓から差し込む白い光を見つめて、僕はようやく眠りについた。
次の日、同じ場所、同じ時間。
先生と初めて会ってから、ちょうど七日目のその日。
そこで待っていると、先生は初めて会ったときと同じ様に現れた。
トランクからごそごそと何かを取り出す。
……眼鏡だった。
「志貴、この眼鏡をかけてみなさい」
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい」
先生は半ば無理やり僕にそれを押し付けた。僕はそれを受け取り、とりあえずかけてみる。
すると、あっさりと僕の目の前から、今まで見えていた線は消えた。
無いのが当たり前、とでも言うように、そこにはその残骸も無い。
「すごい……!すごいよ先生!線が全然見えない!」
「そりゃそうよ。姉貴の魔眼殺しを奪って作った蒼崎青子渾身の一品なんだから。
ただし、それは見えなくするだけ。それをはずせばまた線は見えるわ」
「……いやだな。僕こんな眼いらないのに。こんな眼があったら先生との約束、破っちゃうかもしれないのに」
それだけは、いやだった。
でも先生はそれを聞くとクスクスと笑って、
「ああ……あんな約束、破っていいわよ」
「え?でも――」
「でもその時は、きっと君がその力を必要としている時なんだと信じてるわ。だって志貴は、私の自慢の生徒なんだから」
先生は本当にうれしそうにそう言うと、傍らのトランクを手に取った。
――その時、理由なんか何も無かったが。
先生が行ってしまう事が、何よりはっきり分かった。
「……行っちゃうの?先生……」
「ええ、この街でする事も終わったしね。それに志貴ももう大丈夫だし」
「……無理だよ。僕まだ一人じゃ怖いよ」
僕は先生にすがりついた。先生は僕の頭にぽんと手をおく。
「志貴、前に言ったでしょう。自分も騙せない嘘は人を傷つけるだけだって」
「僕はウソなんか――」
「いいえ、君は自分でももう一人で大丈夫だって知っている。だからそれは嘘」
先生の言葉に僕は詰まる。
でも――
「先生……」
「なに?」
「またいつか――いつか会えるよね?」
先生は一瞬驚いたような顔をして――
微笑んだ。
「ええ、またいつか会いましょう。それじゃあね、志貴」
声が聞こえたと思ったら、途端に強い風が吹いた。
もう一度そこを見たときには、先生はもういなかった。
『またいつか会いましょう。それじゃあね、志貴』
そう言って――そう言い残して、先生は行ってしまった。でも僕は泣かなかった。
またいつか――会えるから。
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