月の光に染まる街 第七幕
〜または〜





黒いクロイ流れの中、彼女が笑顔で流れていく。

手を伸ばしても届かない。離れていく距離に、俺は何もできない。

そしてとぷんと、あっけないくその腕が沈んだ。

荒れ狂う濁流が、その途端急に静かになる。

でも彼女は帰ってこない。

彼女はもう帰ってこない――

「うわああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」





飛び込んで来たのは、黒い水ではなく白い天井。

そこは使い慣れた部屋だった。

ベッドから半身を起こし、顔を覆う。

息が荒い。激しい動悸は治まらない。

自分の絶叫で眼が覚めたのか。

……なんて、無様。

……女の子一人、助けられないクセに。

バタバタと廊下を駆ける音がした。こちらに近づいてくる。

部屋のドアの前で止まりその勢いのまま、ドアが開いた。

「志貴っ!どうしたの!?」

「遠野君なにかありましたか!?」

「兄さん、ご無事ですかっ!?」

「志貴さまっ!」

飛び込んできた四人に、軽く手を振って答える。

……そう言えばシエル先輩がなんでここに居るんだろう。あの森の中でもそう言えば居たし。

そんな疑問も彼女の服装を見ればすぐになくなった。

なるほど埋葬機関か……日本にきているのは意外だったけど、それならいままで先輩に持っていた幾つかの疑問の同時に氷解する。

「大丈夫だよ。ちょっと悪い夢を見て……それだけだから」

俺の簡単な返事に、アルクェイドはむーと顔をしかめた。

「志貴、貴方ずっとうなされてたのよ?秋葉と翡翠が泣きそうなほど心配してたんだから何か言ってあげなさい」

ボンっと音がしそうなほど、秋葉と翡翠が真っ赤になった。

翡翠は黙ったままだが秋葉は猛然とアルクェイドに食って掛かる。

「あ、アルクェイドさんっ!それを言うなら貴方もそうじゃないですか!」

「わたしはいいのよ。こういうのは年下からでしょ?」

「いいえ、目上の方には敬意を払うべきですから」

「遠野君、わたしは慰めてくれないんですかー?」

「「貴方は口を出さないで!」」

いつのまにか俺の手を取っていたシエル先輩の手を二人が引き剥がす。

「はーい、志貴さんお加減はどうですかー?」

今度は遅れて入ってきた琥珀さんが俺の手を取ったが、脈拍をとったり真面目な事なので秋葉達も口出しできないでいる。

そう言えば秋葉とアルクェイド、いつの間にこんなに仲良くなったんだ?うれしい事だけど。

ギャアギャアと騒ぐ五人の姿は、俺にはとても楽しそうに見えた。

それは紛れもなく俺が何より望んだ日常だ。

でもそれは、一時のものでしかないことも分かっている。

弓塚が語っていた事。アイツが生きているという事。

それはとてもうれしい事なのに、そこにはどうしても不安が潜んでいる。

生きているのに、アイツはどうして俺に会いに来ないのだろう?事情があるとしたらどんな事情だろうか?

アイツが吸血鬼になったというのは一体いつ、何処で、なぜ?

そして――街で起きていた吸血鬼事件との関係は?

山のように積もった疑問に答えられるだけの材料を俺は持っていない。

「はい、大丈夫ですね。ではわたしはまだ仕事がありますから。志貴さん、お大事に」

「ありがと、琥珀さん」

琥珀さんにほとんど生返事を返しながら考え続ける。

……と、嫌な想像が頭を掠めた。

そんなこと、あるはずないのに。

だけど確かめずにはいられなかった。

「アルクェイド、吸血鬼の被害者はまだ出ているのか?」

「え?」

質問の意味がわからない、といった様子でアルクェイドが聞き返した。

俺はもう一度聞こうと口を開きかけるが、その必要はなくなった。

「ええ、まだ……その様子ですから兄さんも遅くに外出するのは控えてください」

秋葉の答えに息を呑む。それは予想していて――そうでなければいいと思っていたことだから。

今良く考えれば、ネロが吸血事件を起こすはずがない。アイツなら事件にすらされない。

死体が残るという事からネロではないともっと早く気付くべきだった。

なら、誰が――

「秋葉」

頭のどこかで、誰かがヤメロと叫んでいる。それはきっと、この平和に何も考えずに浸かっていたいと願う俺なんだろう。

でもそういう訳にはいかなかったから、その叫びを切り捨てる。

「四季はどこにいる」

「――――ッ!」

怯えた様に秋葉が身を震わせた。翡翠も黙ってこそいるが、青い顔でうつむいている。

ああ、これだけで分かってしまった。決定的なことに。

「兄さんは……そんな事まで覚えていられたんですか!?」

「もちろんだ。アイツとの思い出を忘れるはずがないだろ」

そう、忘れるはずがない。

まあアイツとの最後の約束をしなかったら、あっさり槙久親父の暗示にかかっていたかもしれないが。

「やっぱりか……それで、オマエはアイツがやったって考えてるのか?」

端的に聞く。何かなんて言う事を、俺は意図的に避けている。

だってそれは、俺にはとても信じられないことだから。

長い長い沈黙の後、秋葉はうつむいたまま答えた。

「…………はい」

「理由は」

「え?」

思いもしなかった事を言われた、そんな顔をしている秋葉に繰り返す。翡翠もまるで同じ様な表情だ。

「四季が今になってそんなことをする理由はなんだと思うんだ。

 槙久親父が死んだからってのは理由にならない。四季の相手にならないからな。

 それに言っておくがアイツは昔から今までちゃんと理性を保ってるぞ。あの時以外は」

それともう一つあるとしたら弓塚の血を吸ってしまったときか。

それ以外はアイツは理性的に動いているように俺は思う。いや、感じるといったほうが正しいか。

……この感覚は、もしかしたら核心に近い物かもしれない。そう、ソレこそが俺が胸を貫かれてなお生きていた理由――

「そんなはずはありませんっ!ロアに転生されて変わらない自我を保てるなんて――!」

「ロア?誰ですか先輩」

叫んだ先輩は俺の言葉に息を呑んだ。そんなあからさまにまずいことを言ったみたいな顔をされてもとは思うが。

諦めたような顔をして、アルクェイドが俺のベッドに腰掛けた。

「わたしが追っている吸血鬼よ。ネロは別件だったの」

「それじゃあ転生ってのはどういう事なんだ?吸血鬼なのに転生する必要なんかあるのか?」

「それがアイツはあると考えたのよ。吸血鬼だって死なないわけじゃないわ。

 ロアはね、自分が死んだ時のために代わりの身体を用意しておいてそちらに魂を移すの。

 輪廻転生って知ってる?ロアはそれを意図的に、自分の好きな身体に行えるの」

吸血鬼にもある死というのは理解できる。だがそれで――転生しても吸血鬼のままなのだろうか。

その質問にはシエル先輩が答えてくれた。

「真祖に血を吸われた人間は、魂までも汚染されます。ですから肉体もそれに引きずられてしまうのです。

 ロアが狙うのは社会的な権力をもち、金銭的に豊かで、特異な血筋の持ち主。

 当てはまるでしょう、彼に」

……確かに、その条件は当てはまる。嫌なぐらいにその事は、四季がロアなのだと告げてくる。

だがそうとしても、アイツがこの吸血鬼事件を起こしたとは考えられない。

だってそうじゃないか。弓塚は助けているのに、他の人にはなにもしていない。そんなの、アイツらしくない。弓塚を助けた一件だけがアイツらしい事――

「まさか」

それなら確かにすべてのつじつまは合う。

だがそんなことが――有り得るのだろうか。

「シエル先輩。ロアってヤツに転生されたヤツは、生まれた時からロアなのか?」

先輩は意外そうな顔をした。たしかに普通聞かないことだろう。

だが、今の俺には何より重要な事だ。

「本来はそうなのですが……今回は違います。

 ロアは遠野四季に引っ張り込まれたと考えるのが妥当でしょう。

 彼は本来別の肉体に転生するつもりだったと考えられています。その証拠が残っていましたから。

 ですが彼の魂は四季に引きずり込まれた。それは――」

「共融、ですね……」

唐突に、秋葉が呟いた。

その言葉にシエル先輩は頷いて話を続ける。

「はい。そう呼ばれている能力です。もっとも彼の場合は侵食に近いですけどね。

 自分と他者を繋ぐ能力。その力のせいで彼はロアをその身に呼び込んでしまった」

「それが、八年前か……」

思い出すのは突然苦しみだした四季の姿。

あの時、すべてがオカシクなりだした。

つまりは、ロアとかいう会ったこともない吸血鬼があまりに生き汚いせいで、俺達は――

ため息をつき、俺は残りを語る。

「大体予想がついたよ……

 四季は昔のままだ。でもアイツはロアと戦ってるんだ。だから二重人格みたいにアイツのときとアイツじゃないときができる」

それが一番しっくり来る形だ。

ロアの時のシキは吸血事件を起こし、四季の時のシキは弓塚を助けた。

そこまで考えた時、俺の手を細い指がつかんだ。秋葉が心細そうに俺を見つめている。

「兄さんはシキが昔のままだと仰るのですか?シキは兄さんを殺しかけたのに」

「それはロアが入ってきたせいだ。そのあとすぐに四季は元に戻っただろう」

「戻った?いいえ、そんな事はなかったはずです。あの後お父様達が暴れるシキを――」

「何を言ってる秋葉……」

秋葉の言葉を遮る。そんなはずはない。それは俺の知っている景色と違いすぎる。

「だってシキはオマエのとなりで泣いてたじゃないか。その後大人達に連れて行かれる時も、まともな目をしてた。

 あれが俺達の知ってる四季じゃないっていうのか?」

「――嘘。だってあのとき――あのとき……」

今の秋葉は酷く危うい気がする。顔色は蒼白そのものだし、なによりもう一言でもなにか言おうものならコワレテしまいそうな気がする。

「志貴、今はそれくらいにしとこうよ。明日でもいいでしょ?」

アルクェイドが気を利かせてくれて、話はそこで終わった。

秋葉は震えながら、アルクェイドの袖をつかんで部屋を出て行った。その後ろに翡翠がつき従う。秋葉はよっぽどアルクェイドを気に入ったんだろうな。

だが残った先輩は、いまだに怪訝そうな表情をしていた。

なんですか、と目で問うと思案しながら先輩は言った。

「ずいぶん彼を信頼してるんですね……わたしは貴方はシキを憎んでいると思っていましたが。

 殺されかけたんですよ?今までいろいろあっても、あれは故意ではなかったと割り切れる物ではないと思いますが」

「命の恩人を憎むヤツはいないよ、先輩」

「どういう事ですか?逆でしょう?」

怪訝そうに聞き返す先輩。

やっぱり先輩は知らないらしい。というより、これは俺しか知らないんだろう。その俺だってさっき気がついたんだ。

「四季の力は共融なんだろ?あの時死ぬはずだった俺は四季に命を共有させてもらって助かったんだよ。

 その証拠に、四季が弓塚の血を吸う夢を見たことがある」

つまりあの夢は四季の見た現実だったのだろう。それを共有している俺が拾い見てしまった。

だが先輩は否定の意思を崩さない。前以上に強くなった気がする。

「そんなのは無理です。

 遠野君も知っているでしょう、遠野家の血族は常に反転の危険を背負っていると。さらに彼は貴方の言葉を信じるならロアも抱えているんですよ?

 その上遠野君に命を共有してるだなんて……」

たしかに常人なら到底無理なことかもしれない。

でもそれをやっているのは四季なんだ。その事実がなにより俺を後押ししている。

「四季ならやれるさ。というより、アイツだからこそ出来るんだ。

 昔から誰より四季は強かった。自分の異能から逃げたりしないで正面から受け止めて、ただ前を見ながら秋葉を引っ張っていた。

 俺はそんなアイツに憧れていたよ。四季は俺の方がすごいなんて言っていたけど、俺にとってはアイツが何より眩しかった」

――昔アイツが遠野家の血のことをいろいろ探っていたのは自分のためなんだと思っていた。

でも四季は自分とは違うところまで調べていたのが気になってそのことを聞いてみたことがある。

四季は何をきいてるんだみたいな顔をしていた。

『オレがいろいろ知ってなきゃ、秋葉に何もできねェだろ?』

そんな答えが返ってきたとき、俺はコイツには勝てないって本当に思った。

誰より秋葉のことを案じていた四季。

何より平和ということを望んでいた四季。

そんな四季だからこそ選んだのだろう。

あの事件を起こした時、いつ堕ちるか分からない自分は秋葉の傍にいるわけには行かない。

だが秋葉の傍にいてやれる人間である俺を、自分で手にかけてしまった。

だから四季は自分の命を俺に差し出して、最後に願いを残した。

――秋葉を頼む――

だから俺は“遠野志貴”を演じようとした。秋葉を守り、アイツがいた場所を残すことだけが、俺に出来る事だったから。

俺が学生服なんてのを好んで着るのも、四季が昔こんな感じの服をいつも着ていたからだろう。

そんな、ある意味酷く滑稽な欺瞞を続けて、俺は少しでも遠野四季がいた事を残そうとしていたんだ――

俺が言い終わっても、シエル先輩は黙ったままだった。

表情は複雑で、なにも読み取れない。

ただポツリと呟いて、

「彼が、まだ彼でいられるといいですね。それならわたしが殺さずに済みますから」

部屋から出て行った。

……もう一度、ゆっくりと寝てしまおう。

大変なことばかりで疲れてしまった。

だからもう、休もう――





暗い夜の中、私はベッドの上で震えていた。

さっき聞いた、兄さんの言葉が頭から離れない。

何度思い返しても、私の記憶と重ならない。

それはとても恐ろしかった。とてもとても怖かった。

だってそうだもの。

私のこの八年間の拠り所は、兄さんとシキだったんだもの。

兄さんのとなりでずっと居られる様になる事。

そして兄さんにも隠していた事。シキを殺して罪を償わせる事。

それだけが、私を支えていたのに。そのためにいくら同意を得ていたとは言え琥珀すら利用したのに。

それが全て無意味だったなんて――私はそんなの認められない。琥珀になんて謝ればいいか、思いつかない。

――――?

それは、一体なんでだろう?

どうしてあんな事を言ったのだろう?

……とにかくシキだ。シキに会って話を聞かなくては。

それで全部解決する。もしシキが私の記憶のとおりなら、その時に八年間の決着を着ければいい。

だから早くシキを見つけないと――

コンコン

突然、小さくノックが響いた。

誰だろう。

私は胸に手を当てながら――だって動悸が治まらないんだもの――声を返した。





カツカツと、静かな廊下に私の足音だけが響いている。

月明かりだけが照らす廊下は幾つもの影を作り、その数だけ私を不安にさせていた。

それでも私は進まなければならない。

ここの何処かにシキがいるから。

誰にも悟られないように家を出た私は、そのままこの兄さんが通う学校に来ていた。

開いていた昇降口の扉を抜け、もうすぐ一階を調べ終わるところだ。

いくつもの場所を見てきたけれど、何処にもシキの姿は無い。

この階にはいないのだろうか。そう思いながら、地図で見た一階最後の角を曲る。

そこに、居た。

蒼い着流しを着た彼は、窓際に立ってただ静かに月を見上げている。

その姿は、あの事件の前と何も変わらない。

いつも月を見上げて兄さんと語り合っていたあの時と。

八年前の、優しかったお兄様のままだった。

それだけで、私は今までの記憶がガラガラと崩れていったのが分かった。

今なら兄さんの言うとおり、目を瞑れば確かに昔のままのお兄様が浮かぶ。悪夢の様なシキなんてどこにもいない。

お兄様は立ち尽くす私にゆっくりと向き直りながら、よく透る静かな声で呟いた。

「秋葉か。久しぶりだな」

ああ、八年間もの空白を、この人はなんて簡単にしてしまうのだろう。

その事を恨みがましく思いながら、それでもこの再会を心の底から喜んでいる私が居た。

だって、仕方ないじゃない。お兄様は兄さんと同じ位、遠野秋葉を大切にしてくれたのだから――

それなのに、お兄様はほんの少しの会話も許してくれなかった。

突然顔を片手で覆い、苦しそうに身体を折るお兄様がうめくように私に叫ぶ。

「すぐ逃げろ……マズイ事になった……があぁ!」

「お兄様っ!」

駆け寄ろうとする私は、あと少しのところで透ける紅い壁に遮られる。

その間にもお兄様の声は一層苦しみを増していた。

「ク……その呼び方は、八年前でオシマイだろ?

 オマエに、兄と呼ばれる資格があるのは、アイツだけさ……」

ついにその片膝が廊下についた。ぜぇぜぇという荒い呼吸が壁を通して聞こえてくる。

壁を叩く。でもそれは薄いのに硬くて、私の力では全然破れそうに無い。

だから私は力を使おうとして――お兄様の絶叫に止められた。

「秋葉ぁ!今だけオレの言う事を聞けっ!

 一刻も早くここから離れろ!アイツはオマエに何をするかわからねェ!

 だから――!」

叫びは途中で途切れて、お兄様の震えも止まった。

そして再び私を見上げた顔は――お兄様じゃなかった。

お兄様はあんな顔をしない。

私をモノでも見るような眼で見ない。

私を嘲笑うかのような口元も、狂気に満ちた雰囲気も、お兄様のはずが無い――!

それはあの時のシキだった。いや――アルクェイドさんが言っていたロアだ。

お兄様の姿をしたそれは、とてつもなく嫌だ。お兄様が汚されたようで、その存在すら我慢できない。

私が飛びのいた瞬間、紅い壁がびしゃりと廊下に落ちた。

ソイツは嫌な笑みを崩さないまま、私に近づいてくる。

「くっくっ……宿主殿が必死に守ろうとしていたのがこんな少女とは……

 なるほど、しっかりと異能の血を受け継いでいるようだ。オマエを支配すれば私はさらに永遠に近づけるだろうな」

「――――!」

その言葉は私の理性を灼き切っていく。

私はもう、コレが一秒でもお兄様の姿で居る事が許せない。

でも、この身体はお兄様なのだ。コレを殺すという事はお兄様も殺してしまう。

それに気付いた時、私は震えて動けなくなった。

その隙に決定的な罠に捕らえられてしまう。

闇に浮かぶ紅い眼。それが私を縛り付けていた。

「厄介な能力を持っているな。普段は魔眼も効きはしまいが、そう動揺していては意味が無いぞ?

 まあ私にはとっては幸運だかね。さて――血を吸わせてもらうぞ」

近寄ってくるその姿に、私は何も出来ない。必死に暗示を解こうとしても、一度かかってしまってはそれも難しい。

このまま――死ぬの?

そんなの嫌!助けて兄さん――!

声にならない私の叫びは、誰にも届かない――はずだった。

「が……!?」

私まであと数歩というところでロアが頭を抱えてうずくまった。

呪うように言葉を吐く。

「貴様まだこんな力が――!

 ――秋葉逃げろ!」

その後半は、お兄様の声だった。おんなじ声なのに、全然違う。

同時に私を縛っていた呪縛が霧散する。

また駆け寄ろうとしたところを、お兄様の声が止めてしまう。

「なにしてる、さっさと行け!もうもたねェんだ!」

「でも――」

「早く行けぇぇ!」

その叫びに押されるように私は駆け出した。

背中にお兄様の苦痛の叫びがぶつかってくる。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――!」

ただ謝り続けながら暗い廊下を駆け抜ける。

屋敷に帰ろう。そして兄さんやアルクェイドさんを呼んで来るんだ。

きっとお兄様を助けてくれる。

きっと――!





暗い昏い部屋の中。

イヤフォンから聞こえてくる叫びにわたしはふぅと嘆息した。

まさか四季さまがここまでお強い方とは思わなかった。

四季さまへの共感能力を断ち、ロアとかいう方に回したのにそれでもまだ表層に出てこられるとは。

これでは計画に多少の変更を加えるしかない。

本当は、ここで秋葉さまを殺した自責の念で四季さまに自殺していただくつもりだったのに。

保険として秋葉さまにも血を飲ませておいてよかった。もともとアレは暗示を効き易くするためだったのだけど、思わぬ伏兵になってくれそうだ。

さてどうしよう――

これでは志貴さんやアルクェイドさま、シエルさままで向かわれるだろう。それではいくらロアが強くても無理だろう。もちろん秋葉さまが生き残る確率も高い。

それでは――秋葉さまも敵に変えてしまえばどうだろう?

これはいい考えだ。反転した秋葉さまは志貴さんかアルクェイドさまに襲い掛かるだろう。どちらにしてももう片方が黙っていない。

あとはタイミングだ。それさえ間違えなければ上手くいく。

……震える手を握り締める。

わたしにも優しかった四季さま。槙久様からわたしを庇ってくれた秋葉さま。その方々をわたしは誰にも気付かれず手にかけようとしている。

いくら後悔しても足りないくらい、わたしはこの後ずっと悔やむだろう。

でも、それしかない。

だってここは、遠野家なのだから。





「――さま!しきさまっ!」

耳元で鳴る翡翠の声に、俺は薄く目を開けた。

ぼんやりと、眼が像を結ぶ。翡翠が涙目で俺を見ていた。

「――――ッ!」

慌てて眼鏡をかけて起き上がる。翡翠は明らかにパニックを起こしていた。

「翡翠、どうしたんだ?落ち着いて、ゆっくり」

「志貴さま、秋葉さまがお部屋に居られません!屋敷の何処にも!」

必死で訴えかけながら、翡翠は俺に顔をうずめた。

あの翡翠がこんなに取り乱すなんて。四季が生きていたことが相当ショックだったのか。

だがそれより今は秋葉が――

「秋葉さまはきっと四季様の所に行かれたんです。そうに違いありません。

 志貴さま、お願いです秋葉さまを――」

頷きながら枕もとの七つ夜をとる。

「秋葉の事は任せて。翡翠は安心していいから」

「はい……」

翡翠を正面から見て。一度頷いてから俺は手を離した。

「じゃあ行ってくる」

「お気をつけて――行ってらっしゃいませ。必ず無事にお戻りください」

「もちろんだよ」

深々と礼をする翡翠に笑いかけて廊下を駆ける。

玄関を抜けて門へ向かう途中、向こうから来る人影を見つけた。それは間違いなく秋葉だった。

「秋葉!」

叫びながら飛び出す。

秋葉は泣きながらこちらに走ってきた。

抱きついてきた秋葉をしっかりと受け止める。

「兄さん、兄さん……!」

「秋葉、なんて危険なことを――!」

叱ろうと思った声は秋葉の口からでた言葉に消えうせる。

「お兄様を助けてください!」

秋葉がお兄様を呼ぶ人間は一人しかいない。これまでも、きっとこの先も。

俺は秋葉の腕をつかんでその顔を覗き込んだ。

「四季に会ったのか!?どうだったんだ!?」

「お兄様は兄さんの言ったとおりでした。昔のままで、とても苦しそうで、私のために……

 だからお願いです、お兄様を――!」

後は抱きついて泣き続ける秋葉をなだめながら、俺はアルクェイドとシエル先輩に電話をかけに電話に走った。

今夜、すべてが決着する。

その事をどうしようもなく自覚しながら。





第八幕への前奏曲



夜に沈む学校。その影に現れる黒い混沌。

「待ちわびたぞ、人間。さあ今こそ雌雄を決する!」

切れる糸に繋がる意図。舞台裏の彼女のイトは確実に人形を動かしていく。

「秋葉っ!落ち着いて、血に飲まれないでっ!」

追い詰められる弓。迫る混沌に彼女は嗤う。

「これならわたしも死ねるかもしれませんね」

八年ぶりの再会。入れ替わった二人。

静かに始まるそれは、唐突な絶叫に幕を閉じる。

「志貴っ!オマエに最期の頼みだっ……!」

舞台裏の彼女は歪に嗤う。人形になりきれない苦しみを仮面で覆う。

「仕方ないんです。どうやったって、無理なんです」

最後の幕間を経て、夜は終わりを迎える――





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