月の光に染まる街 第五幕 中編
〜欠落または思慕〜
わたしの目の前に、一人の人が倒れている。
無理もないことだと思う。ただの人が、あのネロ・カオスと殺し合いをしたのだ。
むしろ生きていることに驚くべきかもしれない。
でも、なんとなくだけどわたしはきっと、彼なら出来るって思っていた。
それは何故だろう。前のわたしならそんな事は微塵も思わなかった。
前とは違うわたし。それに戸惑いを覚えないこともない。でもそれは、何故か心地よかった。
ああ、そんな事より早く手当てしないと。どうしよう、そこら辺の混沌を使うのは志貴が汚されるみたいで嫌。そんな場合じゃないのは知っているけど嫌なものは嫌なのだ。
それなら病院、いや彼の家に運ぶべきか――
「何をしているんですか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
そのとき降ってきた声は、知っているものだった。
立ち上がり、頭上を睨みつける。
「なんであなたがこんなところにいるのかしら」
コイツは嫌な相手だった。教会の特秘“埋葬機関”の一人。それだけで嫌うのには十分すぎる。
音もなく街灯から降り立って、そのままこちらに歩いてくる。
「貴女と同じ理由です。それより遠野君から離れなさい吸血鬼。邪魔です」
「――――!」
頭に来た。あろう事かわたしに志貴から離れろと命令している。
しかも余計に腹が立つのは……わたしを吸血鬼と呼んだこと。
「あなたに命令される謂れはないわ!さっさと死者でも狩っていなさい!」
「遠野君が死にますよ。彼は平気な顔で戦っていましたが、受けた傷は相当なものです」
本当に、頭に来る。そんな事は十分に分かっている。今更言われなくても。
と、のぼせ上がっていた頭が、やっとその事を認識してくれた。
「あなた、志貴を助けるって言うの?」
「何か不満があるんですか?」
志貴のとなりで片膝をつき、その様子を見る。仰向けに転がっている志貴の胸は、不規則に上下していた。
無言で幾つかの薬や札を取り出し、志貴を治療していく。
見ただけで、かなりの効果が在る品物だとわかった。元々は能力増強のためらしいが、その方向性を治療に使えば効果は十分だろう。
だか、だからこそ不可解。
埋葬機関が――しかもこんな極東の無神論者の国の――民間人に、ここまでするなんて。
裏があるとしか思えない。
治療が終わったらしく、立ち上がったのでそのことを聞く。
何事もないかのようにソイツ――シエルは答えた。
「学校の後輩を助けて、何がいけませんか」
「埋葬機関のあなたが言っても真実味なんてないわ」
「でしょうね」
そう言って、薄く笑う。
「そう言えば知っていますか、アルクェイド。わたしも最近知ったばかりですが、今代のロアは遠野君の幼馴染なんですよ。そして遠野君の妹さんの本当のお兄さんです」
表情こそ変えないものの、内心わたしは驚いていた。つまり志貴は最初から関係者だったのだ。
だが数秒後に、わたしはさらに驚く事になる。
「そして状況から察するに、二人は出会えば殺し合うでしょう。遠野君ならロアを殺せるようですし、そこまで行かなくとも多少の傷は与えられるはずです」
相変わらす冷たい笑みのまま、シエルは言った。
「あなたは……!」
思わず腕を振り下ろしかけて、止める。
シエルの左手にある剣が、志貴の首元に当てられていた。
わたしの爪がシエルの首をへし折るのが速いか、シエルの剣が志貴の喉を掻き切るのが速いか――そんなのは火を見るより明らかだ。
「わたしはロアを殺すためなら、どんな事でもするんですよ。それこそ貴女が言ったとおり、埋葬機関なんですから」
剣を離さないまま志貴を挟んで対峙する。
「わたしが投擲を得意としているのは知っているでしょう。追わないで下さいね、わたしも無駄な事はしたくないですから」
追えるはずがない。志貴を人質に取られた以上、従うしかない。
悔しくて唇を噛む。血が滲むぐらい悔しい。
やがてシエルが見えなくなって、わたしはため息をついた。
志貴は知らないはず。彼の幼馴染がロアということを。わたしが本当に殺すべき吸血鬼だということを。
言うべきか、言わざるべきか。答えは出ない。
とりあえずわたしは志貴を家に運ぶことにした。家といっても志貴の家だ。
だって志貴は電話で家に帰るって約束してたから。
風が、出て来た。
びゅうびゅうと窓を揺らすその音に、自分の手を強く握る。
見慣れてしまった私の兄の部屋。
昨日まではこの部屋で兄さんが居てくれた。暖かさがあった。
でも今は――
ゆるゆると首を振る。
兄さんはきっとあの女と居るのだろう。あれが誰なのか、私は知らない。
それはこの八年間の間にできた知り合いかもしれない。でもそれは、一層私を虚しくさせる。
八年間の空白はどうやっても埋められない。私のあの人の八年を知らない、分からない。
大切な宝物を取り上げられてしまったそんな心持ちさえする。
だが、気をつけなければいけない。
アレは人間ではない。感覚――呪わしいこの遠野の血のためか――がそれを告げている。
ゾワリと、背筋に寒気が走る。
許せない。兄さんは渡さない。やっと、やっと戻ってきてくれたのに。
私の、あの八年前の絶望、恐怖、失ったもの。それを知りもしないのに私から兄さんを奪っていくなんて――!
いつの間にか、私は痛い位自分の手を握り締めていた。
気がついて手を緩める。しっかりと赤い痕が残っていた。
ため息をつく。
兄さん、私は貴方が居なければこんなに弱くなってしまいます。
お願いですから傍に居てください。見捨てないで下さい。秋葉を忘れないで下さい。
兄さん……
と、風の音に混じってかすかに音がした。
窓の方――
視線を向けたそこには、アレが兄さんを抱えて立っていた。
とぼけた顔で窓を叩いている。
慌てて窓を開けると待ちかねた様に飛び込んで来て、兄さんをベッドに横たえた。
その後姿に叫ぶ。
「貴方、兄さんに何をしたんです!」
「何もしてないわ。でも志貴が怪我をしたのはわたしの責任ね」
ゆっくりとこちらに向き直りながら言ってくる。だがそれどころじゃない。
「兄さんが怪我をしたというんですか!?」
「あ、ちょっと声下げて。志貴が起きちゃうわ」
確かに、それはそのとおりだ。こんなに安らかに寝ている兄さんを起こす事はしたくない。
「……兄さんが怪我をしたというのはどういう事なんですか」
声を落としてたずねる。彼女(一応こう呼ぶ事にする)は神妙に頷いた。
「簡単に言うとわたしと志貴はさっきまで吸血鬼と戦っていたの。怪我はそのときのよ。治療はしてあるから包帯は外さないでね」
「吸血鬼……」
私の顔から血が引いていくのが自分でもわかる。きっと今私は真っ青な顔をしているだろう。
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
「いいえ、なんでもありません……それよりどうして兄さんがそんな事を……」
もしかして、と思う事が無い訳ではない。でもそれは私にとってもっとも恐ろしい事だった。
彼女の説明は続く。
「わたしが志貴のせいで力の大半をなくしちゃったから。わたし、これでも吸血鬼……なんだ」
ちょっと悲しそうに彼女は言った。人ではないと思っていたが、吸血鬼だったのか。
「だからと言って私の兄さんをそんな危険な目にあわせたんですか?」
声が震えてしまう。気丈に振舞おうとしても、眠ったままの兄さんを見ると涙が溢れる。
「私の――たった一人の兄さんを、そんな事で……!」
きまりが悪そうに、彼女は目を伏せる。
「うん、分かってる。ごめんなさい……」
目を伏せたまま、彼女は私の隣を駆け抜け、窓から飛び出した。
「待ちなさい!話はまだ終わっていません!」
一番近くの枝に飛び乗り、彼女は言う。
「これ以上は明日説明するわ。明日、志貴が起きてる時に」
そう言い残して、彼女は夜の深い闇に消えた。
いつのまにか、雨が降り出していた。
ポツポツと雨があたる。
あの子にはああ言ってしまったけど、どうしようか。
だって、志貴はなんだかこの事を隠したがっていた。
それならわたしも黙っていよう。あの子にウソを言ってしまった事になるけど、志貴に嫌われるよりはいい。
でも、シエルが言った事が本当ならあの子には話しておかなくてはいけないかもしれない。
わたしは一体どうすればいいんだろう。
わたしにはわからない。だってこんなこと初めてだから。初めてなんだから。
雨は止まない。
――降り出した雨は、段々と強くなって来ている。
先ほど秋葉さまから志貴さまがお帰りになったと聞き、身支度を整える時間ももどかしく志貴さまのお部屋に向かった。
志貴さまは毎朝見ていたのと同じ、静かに眠られていた。
安心した。心のそこから。
それから志貴さまは姉さんの検診を受けたが、一日安静にしていれば大丈夫との事だった。
姉さんは「怪我の具合は酷いけど、回復が普通じゃないぐらい早いので大丈夫」と言っていた。どういう事だか分からないが、結局志貴さまは無事なのだ。それで十分だと思うべきだ。
そのすぐ後、秋葉さまは倒れる様に眠ってしまった。無理も無い。志貴さまがいなくなられてから、ずっと待たれていたのだ。
それから定例の見回りを済ませ、わたしはベッドにいる。姉さんが見回りに行っている。すこし遅いかも知れないが……大丈夫だと思う。
ため息をつく。
このまま、何も無ければいいのに。閉鎖的でもいい。この屋敷だけ、時間に取り残されたようになにも起こらなければいいのに。
暗い闇を見ながら、わたしはそう思わずにいられなかった。
――また、雨が強くなった。
バタバタと、雨音が聞こえる。
いつものように、ゆっくりと俺は目覚めた。
開いた目が捉えたのは見たことのある天井。紛れも無く今の俺の部屋だ。
「運んできてくれたのか……」
どうやらお陰で秋葉との約束は守れたらしい。それに身体の傷も包帯を巻いていてくれてる。
「あとで礼でも言っとくか」
起き上がろうとして、身体が軋んだ。
「っ…………!」
どうやらまだ動くのは無理らしい。そんなに無理をしたつもりは無かったのだが。
ベッドの上で呼吸を落ち着ける。そうこうしている間に向こうから近づいてくる気配が一つ。
コンコン
「あ、どうぞ」
ノックされたので、返事する。
ドアが開いて、そこにはいつもどおりの翡翠が立っていた。
「おはようございます志貴さま――もう起きられてよろしいのですか?」
少し心配そうな表情を見せてくれる翡翠に、俺は微笑みながら答える。
「まだ動くのは無理みたいだ。だから今日はベッドの上でおとなしくしている事にするよ」
「承知いたしました。志貴さま、どうか御自愛を」
静かに、あくまで冷静に翡翠は立ち振る舞っている。昔からは想像も出来ない。
「努力はするよ。ありがとう翡翠」
「はい、では失礼します」
静かに扉が閉まっていく。そして完全に扉が閉まった後――
バタバタバタバタ!
廊下を慌しく駆け出していった。
…………いきなりどうしたんだろうか。
数十秒後、同じ様な音が戻ってきた。
今度は勢いよく開かれる扉。
「兄さん!」
飛び込んできたのは普段からは想像もつかない様子の秋葉。
「よかった、兄さんになにかあったら私は――!」
その勢いのまま俺に走りよって――
「っ――くうっ……あ、あきは……」
「兄さん、兄さん!もう何処にも行かないで下さい!」
秋葉はどうやら俺を嫌っていないのはありがたい。うれしい。だが、だが――
「あきは、たのむ。手……思い切り傷に……」
「あ、御免なさい兄さん!兄さん!?しっかりして兄さん!」
そうして俺は再び眠ることになった。
次に起きた時には、秋葉も落ち着いていた。
これ以上ないってくらい恥ずかしそうにしていたが、暴走はしていなかった。
蚊の鳴くような小さな声で謝りながら、不安そうにこちらを見ていた。何かあったのだろうが、何があったのかさっぱりわからない。
それより大事なのは、訪ねてきた有彦がもたらした情報だ。
部屋に入って翡翠がドアの前からいなくなるなり、有彦
「志貴、最悪だ」
俺の顔を見るなり、有彦はそう言った。
「木曜の夜、街を歩いていたのを最後に弓塚の足取りがさっぱりつかめねぇ」
「そうか……」
言葉が続かない。俺も有彦もわかっている。有彦が最初に言ったように最悪の状態なのだ。
だが俺の最悪と有彦の最悪は段階が違う。
「有彦、弓塚はもう成っているよ、きっと」
「あ?んなバカな。普通吸われてから自我取り戻すのにいくらかかると思ってんだ」
「普通は、だろ」
力なく吐く息に乗せて言葉を押し出す。
「前にさ……弓塚に血が騒いだ事があるんだ。きっと天性の才能なんだろうな。弓塚は――魔に近い。ポテンシャルが違いすぎる」
「まだ三日も経っちゃいないんだぞ。そんなの聞いた事ねぇ」
情報通の有彦が言うのだから確かなんだろう。俺が持っているこちら側の知識はほとんど有彦から来たものだし。
だがそれと同じ位――悲しい事に、俺の血も確かだった。
有彦の引き攣った表情が、徐々に消えていく。それはまさに俺と同じ側のそれだ。
「どうする気だ」
「分からない……」
「オレなら間違いなく狩るって言うんだろうがなぁ……まあいい。今回は裏にまわってやるよ。じゃないとオレがお前に殺られそうだからな」
「人聞きが悪いな」
はっはっと笑って、有彦は部屋を出て行った。翡翠に大声でお構いなくとかなんとか言っているのがここまで聞こえる。
「悪いな、気使わせて」
声が遠のいた後、ポツリと呟く。
雨音はまだ止まない。
日が落ちていく文化の時間が過ぎ、秋葉がまた見舞いに来てくれた。
だが、予想していたとおりただそれだけというわけではないらしい。
「兄さん、昨晩まで何をされていたか説明して頂けますね」
傍目にも努めて冷静を装っているのが分かる。本当は今にも飛び掛りたいくらいなんだろう。
……ああ、心配してくれているのは分かっている。
でもまだ俺の勝手を通させてもらうしかない。
「できない。すまないがこれは無理だ」
「では質問を変えます。あの女――吸血鬼と名乗った彼女との関係をお答え頂きます。彼女が言っていた兄さんが巻き込まれるようになった原因とやらも」
秋葉の言葉を聞いて、密かに小さく舌打ちする。
アルクェイドのやつ、そんな事まで話したのか。
「……アイツの名前はアルクェイド。偶然出会った吸血鬼だよ。ちょっとした事を頼まれて俺がドジったせいで怪我しただけだ」
「吸血鬼と戦うのがちょっとした事なのですか、兄さんにとっては」
……ああもう、なんて無様。
みるみる秋葉の機嫌が悪くなっていくのが分かる。
「それが責任だったからな……悪いがこれ以上は言えない。言えないんだ、これで分かってくれ秋葉」
言って目を閉じる。これ以上は聞かないという意思表示のつもりだった。
が、何も起こらない。しばらく経っても変わらない。
「…………」
こっそりと薄目を開けてみる。
「…………」
秋葉が泣いていた。静かにポロポロと涙をこぼして。
「秋葉?」
「……どうして」
半ば呆然としたまま呟く秋葉。
「何故兄さんはいつも私を忘れてしまうの?もう八年待ちました。これ以上待てません……
兄さん、お願いです。私を忘れないでください……」
「忘れていないよ」
秋葉を――というより自分を落ち着けるためにゆっくりと言う。
だが、どちらにしろ効果はまったくなかった。
「いいえ、兄さんは昔から誰も捕まえられなかった。
だから私は不安でした。いつか、兄さんがどこかに行ってしまうのではないかと。
私がなりたかったのは兄さんを繋ぎとめる鎖です。
この八年間、それだけを目指していたのに……まだ足りないのですか?秋葉の何処がいけないのですか?」
「ああ……」
うめく。どうしようもない、自分の馬鹿さ加減に。
結局俺は約束を果たせていなかったと、そういう事なのか。アイツの遺言すら叶えてやれないのか。
だが話すしかないのか。巻き込むしかないのか。それはかえって秋葉のためにならないのではないか。
自問するが一向に答えは出ない。
どうすればいい――
沼に沈み込むような状態に陥りそうになった時、コンコンとノックの音がした。だがこの音はガラスを叩くような音だ。
窓に目をやる。
そこにはどこか覇気のないずぶ濡れのアルクェイドが立っていた。
秋葉が立ち上がり、窓を開ける。
「ありがと。それとこんばんわ」
小さく礼を言ってアルクェイドは部屋に降り立った。
秋葉はその言葉に返事しない。目もこれでもかというほど鋭い。
そんな中、アルクェイドが言葉を紡ぐ。
「こんばんわ志貴。調子はどう?」
「まだ動けないけど気分はいいよ。あの時は助かった。それよりお前、傘も差さずにここまで来たのか」
そう言うと、アルクェイドは少し複雑そうな顔をしたが、頷いた。
「濡れてもわたしは大丈夫だから。それより志貴、言い辛いけど……どうするの?わたしは志貴に従うつもりよ。
でも……話したほうがいいんじゃないかな。この子は大丈夫だと思うから」
「……大丈夫だと思う根拠は」
決めかねているのは事実だが、やはり言えないという気持ちが強かった。
見つめる俺に、アルクェイドは秋葉に目をやる。すぐに視線を逸らしたが――それはなにか迷っているようにも見えた。
「ちょっと、いい?この子と二人で話がしたいの」
「俺は構わないが……」
「私もです。それでは少し外に出ましょう」
思ったより素直に秋葉が立ち上がりドアの外に出た。アルクェイドがその後を追う。
ドアがパタンと閉まる。聞こうと思えば聞けないこともないが、聞くべきではないと思う。
ずいぶん、間があった。
再びドアが開いて戻ってきた時には、二人とも表情は暗かった。特に秋葉は蒼白とも言っていいぐらいに。
思わず声をかける。
「大丈夫なのか、秋葉」
返事は数秒遅れた。
「はい……」
どう見ても大丈夫じゃない。
やはりダメだ。少なくとも今日はやめるべきだ。
俺がそれを言おうとした時、秋葉が顔を上げた。
決意を秘めた、眼。
「兄さん、今まで隠してきました事が……あります……私は……わた、しは……純粋な人ではありません……
今回の事もそういう事なのでしょう?人でなければ……大丈夫ですから……」
「…………」
そういう、事か……
嘆息のように息を吐く。
そして告げる。
「知ってたよ」
「「え……?」」
二人分の声。さっきの話はこれだったのか。
アルクェイドも余計な事をしれくれたものだ。
「知っていたさ。遠野の血の事も聞いていたからね……
確かに異能ならこの状況も理解できるだろう。けど、それでも俺は巻き込みたくなかったよ。
でも――そこまで言うなら、仕方ないのかもな」
「それでは――」
身を乗り出した秋葉を、手で制する。
「明日にしよう……今日は疲れたよ。いろいろ考えることがあって……
アルクェイド、すまないけど明日また来てくれるか?時間はいつがいいか、秋葉」
「明日も学校は休みますので、午後二時ごろがよろしいかと」
秋葉の答えを受けて、アルクェイドが続く。
「いいよ。もともとわたしのせいだもん」
二つ返事で頷くアルクェイド。だがその顔にもどこか陰がみえる。
「秋葉もそれでいいか?」
「……教えて頂けるのでしたら」
「約束するよ……もうここまで来ちゃったんだし」
それは本心だった。なにより秋葉は自分の最も恐れる部分を俺の前に出したのだ。それで応えない訳には行かない。
あとは……アルクェイドに聞きたいことがあった。
「秋葉、少し部屋を出ていてくれ。アルクェイドに聞きたいことがある」
「……はい」
素直に従う秋葉。再び、ドアが閉じられる。
その音で俺はアルクェイドに向き直った。
「どうして秋葉をけしかけたんだ。秋葉は言わなくてもよかった。知らなくてもよかった」
「ごめんなさい……」
詰問口調の俺に、アルクェイドはうなだれる。
「だって、あの子寂しそうだったもの」
何かを言いかけて――言葉を止める。アルクェイドの言葉は続いていた。
「わたしね、志貴に殺されるまで感情なんかなかった。死徒や堕ちた真祖を狩るのに感情なんていらなかったから、なかったの。
でも志貴に殺されて、壊れて。少しずつだけど分かってきた」
アルクェイドの言葉は、なおも続いていく。
俺がさしはさむ言葉は、ない。
「最初は貴方が憎かった。狂いそうなほどの痛みを与えた貴方が。
でもいつのまにか貴方が気になって仕方がなかった。必死で調べたわ、死徒を探すのも忘れて。
そうして貴方を捕まえて……最初はわたしと同じ様に殺してやろうって思ってたのに結局そんな事、あのときには思いつきもしなかった。
それから貴方と話して、一緒に戦って――そして貴方をここに届けて、独り部屋に帰って。
わたし独りで、ほかに誰もいないんだって思ったら、急に寂しくなった。最初はそれが“寂しい”っていうのも分からなかったけど……」
だからね、と顔を上げた彼女ははっきりと言った。
「あの子があんな顔してるの、なんだか見てられなくて。志貴があの子を大切にしてるのは分かるよ。でも……寂しいって本当に辛いんだ。
気がついたら話していたわ。おかしいね、最初志貴に大切にされているのがとても嫌だったのに」
やっぱり壊れてるね、とまるで他人事のように――
そう笑う彼女は、とても悲しかった。
そんな彼女は見ていられなくて。
「もういい……すまなかった。お前が正しいよ」
「わからないよ、そんな事。わからない事なんだから……
それじゃあね、志貴。おやすみなさい」
「おやすみ」
短い挨拶を交わして、アルクェイドは来た時と同じ様に窓から飛び出して行った。
そこで思い出した。
「アルクェイド、傘っ――行っちまったか……」
濡れても平気、とは言っていたが冷たい事には変わりないだろう。
はぁ……
重いため息をつく。
と、控えめに扉が開き、秋葉が入ってきた。
「あの……あの方は……?」
「アルクェイドなら帰ったよ。来た時みたいに傘も差さずに……秋葉、窓閉めてくれるか」
「あ、はい」
キィと窓が閉まる。それでも止まない雨音。
秋葉は窓を閉めた後もしばらく窓の外を眺めていた。
その瞳は、どこか心配そうな色を帯びているようにも見えた。
やがてゆるゆると首を振りながら窓を離れる。
「……それでは失礼します。おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、秋葉」
もう何度目かの扉が閉まる音。
俺はゆっくりと眼を閉じた。電気は消してある。この暗い闇の中で考えることは多すぎる。
そして溜まった疲労の波に俺はいつしか眠りについていた。
ふと眠りから覚めた。
なにか胸騒ぎがする。ああいう家系だけあって直感は信じるべきものだと知っていた。
身体を動かしてみる。右腕はまだ痛みが走るが、ほかは動かせないこともない。
七つ夜はテーブルの上に無造作に置かれてあった。それを取り、ベッドに腰掛けて待つ。
数分の、間。
カタカタと窓が揺れ始める。殺気はないが、間違いなく魔の気配だ。
しばらくして、ガタリと窓が開く。吹き込む風と雨。揺れるカーテンの間に立っていたのは見慣れた学生服だった。
「弓塚……」
「こんばんわ、遠野君。ごめんねこんな遅くに」
「いや、いいさ」
張り詰めていた息を吐く。
それは弓塚がまだ自分を制御していられるようだからだ。
本当、どういう精神力なんだろう。吸血衝動は痛みと変わらないほどのものだと聞いていたのに。
もしかしたらこの精神力も弓塚が記録的な時間で死徒に成った事を助けているのかもしれない。
「あ……怪我してるの?大丈夫?」
弓塚の心配そうな声に思考を中断する。包帯をしているのに気がついたのだろう。
「右腕はまだ動かせないけどほかは大した事はないよ。むしろ弓塚の方が心配だ」
俺の言葉に、弓塚は小さく息を呑んだ。そしてそれを吐き出すように、ゆっくりとため息をつく。
「分かってたんだ……わたしが人じゃなくなっちゃったって事」
「…………」
「でも遠野君なら知ってるかなって、なんとなくだけど思ってた」
悲しく笑う弓塚。彼女はゆっくりとこちらに近づく。
本当は少しは警戒すべきだったんだろうけど、そのときの俺はそんな事これっぽっちも思い浮かばなかった。
――弓塚と眼が合う。
その紅い瞳は闇の中でなお鮮やかに――
意識が、遠のく。
回らない舌を必死で動かして問う。
「ゆみづか……なんで魔眼なんか」
「ごめんなさい、遠野君……でも私の最期のワガママ、付き合ってくれるとうれしいな」
「最後って――」
どういう事だ、という言葉は続かない。強烈な眠気が俺を貪る。
まさか暗示まで使いこなすなんて……やってられないなぁ……
そんなくだらない思考を最後に、俺の意識はもう何度目かの闇を迎える。
昼間以上によく見える闇の中。
遠野君がベッドで眠っている。
そうするようにした本人が言うのもなんだけど、それは本当に静かな眠りだ。
「ごめんね……」
もう一度呟く。
遠野君はこんな事になる必要はない。
ただ――今までの自分は勇気が、今の自分には時間がなかっただけ。
こうでもしないと、踏み外してしまいそうだから。せめて最期は好きな人といたかったから。
そう、本当にわたしのワガママ。
…………
外の雨はまだまだ止まない。
嵐の山荘って言うのもロマンチックだよね。
さて、と呟いて遠野くんを毛布で包んで抱える。ほんとは逆がよかったけど、もう無理なんだろうなぁ。
それからわたしは窓から外に飛び出した。窓は申し訳程度に閉めちゃったから、また開いてしまうだろう。
あんまり吹き込まないといいんだけどな。
ぼんやりとそんなことを考えながら木の枝を飛び移っていく。
雨がバチバチとわたしに当たる。
こんな身体でも雨は冷たかった。
ちょっとだけ、うれしかった。
屋敷の塀を飛び越えていく少女。
その姿、行動は一部始終無機質な眼に捉えられていた。
彼女はそのことを知らない。
ただ冷たい雨に、胸に抱く少年が濡れないかだけを気にして跳んで行く。
夜はそのうちだんだんと明けていく。雨はいつまでも降り止まない。
舞台だけがただある一つの方向へと、整っていくばかりだった。
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