月の光に染まる街 第三幕〜黄昏時あるいは逢魔刻〜
「あれ……遠野、くん?」
今までなんの音も無かった教室に、突然聞いた声が響いた。
「弓塚さん。どうしたの?こんな時間まで」
夕焼けに背を向けながら聞く。
茜色に染まった教室――
その中でも彼女は――
「えっ、えっとねっクラブ見に行ってたんだけど、忘れ物思い出して、それで――」
不意に浮かんだ思考を消し去って、彼女の様子を眺める。
……妙に慌てているようだが、たぶん気のせいだろう。
そういうことにしておいて、時計を見上げる。
四時半――もういい加減、帰るべきか。引き伸ばしても仕方の無いことだ。
ふと、弓塚さんがこっちを見ているのに気がついた。
「弓塚さん、よかったら一緒に帰る?」
「え!?」
「俺、今日から正門の方から帰るんだよ。弓塚さんは今まで朝も夕方も会わないから、正門
のほうなんでしょ?」
遠野の屋敷は有間家と学校を挟んで正反対の位置にある。
そうなると帰るとき、今まで使っていた裏門ではなく正門を使うことになる。
それなら一緒に帰ろうと、そう言っただけなのだが。
俺の言った事に弓塚さんは少しの間反応が無かった。何ていうか、状況とかそんなものがぶ
っとんでいる、そうとしか見えない表情をしていた。
「弓塚……さん?」
流石に呼吸までは止まっていないだろう――たぶん。
ひそかに彼女が倒れた後の行動をシュミレイトしながら、俺はしばらく待った。
数秒――いや数十秒後、彼女は唐突に行動を再開する。
「うん、そうなの!もちろん帰るよ用事なんてないし一緒に!」
ぶんぶんと首を振りながら一気にまくし立てる彼女。どうやら思考がやっと追いついたらし
い。
……思考停止するようなことだったかな。
「志貴君は本当は丘の上のお屋敷の王子様だもんね」
彼女の大げさな言い様を、俺は苦笑交じりに否定する。
「王子ってのは間違いだよ。それに俺の家はあそこじゃないし……」
「え、遠野君って昔はむこうで住んでたんでしょ?」
「いや、そういう意味じゃなくて……なんていうのかな、実感が無いからそう思えないん
だ」
「それはそうだよね……」
弓塚さんの視線を見ないようにして、俺はイスから立ちあがる。
弓塚さんは事情を知っているから、そう思うのは仕方が無いかもしれないけれど――
それでも俺は、そういう目で見られるべき人間ではないから。
「さて、行こうか?それと、忘れ物はいいの?」
心臓が、止まるかと思った。本当は止まっていたかもしれない。それくらいあってもおかし
くないと思う。
だって遠野君が一緒に帰ろうなんて誘ってくれるなんて、思いもしなかったから。
坂道を一緒に歩きながら、あんまり意味の無い話をする。
それだけでも、うれしかった。十分すぎるくらい、幸せだった。
夕焼け色の坂道で、遠野君と二人きり。
夢見るぐらいしかできなかった状況が、いまここでしっかりとあるから。
落ち着こう、落ち着こう。
こんな事はめったに無い。だったら大切にするべきだ。
「あ、あの遠野君!これからもこっちの道を使うんだよね?」
「ああ、そうだね」
これからのことを考えているのか、ぼんやりした雰囲気で遠野君は返事した。
少しだけ、不満。一緒にいるときぐらい、わたしのことを考えてほしい。
どうしよう。遠野君の気を引けるぐらいの話なんて思いつかない。
遠野君の興味がある事は……乾君が遠野君は刃物が好きだとか言ってたけどわたしはナイフ
の種類なんかわからないし。
これ以外は――遠野君との接点なんてない。
……覚えているだろうか。
「ね、遠野君」
「ん?なに、弓塚さん?」
「中学二年生の時の冬休み、わたしを助けてくれたときのこと覚えてる?」
「中学二年?えーと……」
遠野君は困ったように視線を宙に舞わせた。
はぁ……やっぱり覚えてないよね……
ほんの少し落ち込みながら、わたしは先を続ける。
「わたしたちの中学校って二つ体育倉庫があったでしょ。そのうちの一つが小さくて古いヤ
ツだったんだ。しかもすっごくたてつけ悪くて、扉が開かなくなることがよくあったの」
話しながら思い出す。
「古い体育倉庫……ああ、あれか」
遠野君も思い出したらしい。
「そう、バトミントン部の部員が閉じ込められてから使われなくなったあの倉庫。
その部員のなかに、わたしがいたんだ」
あの時は、そう、本当に――
「寒かったし、怖かった。
どれくらいここにいるのかも分からなかった。ただ寒くて怖かった。
そこをとおりがかった遠野君が助けてくれたの」
「そんなにたいした事、してないよ」
苦笑いする遠野君だけど、わたしはそう思わなかった。
「でも本当に辛かったんだから。
遠野君が来るまで、もしかしたら明日までずっと閉じ込められるかもしれないとか思って。
だから、遠野君が助けてくれてうれしかったの。この時からかな、遠野君ならどんなピン
チのときでも助けてくれるなんて思うようになっちゃった」
自分でも、単純だと思う。
それでも、なんでも、あのときの遠野君は。
わたしにとって、王子さま以外のなんでもなかった――
弓塚さんが本当にうれしそうな顔をして言うものだから、ついこう言ってしまった。
「どういたしまして。まあ……困ったことがあったら言ってよ。俺なんかがどうにかできる
とは思えないけど」
すると弓塚さんは、見ているうちにどんどんうれしそうな顔をして、
「うんっ!そうする!約束だよ遠野君、ピンチの時には助けてね!」
軽くかわした約束。
俺は何気なしにかわした約束。
その言葉がどれだけ弓塚にとって大切だったか、どれほどこの後この言葉が影響を与えたか。
このときの俺はまだ知らない。
「あぁーあ、ここまで来ちゃったな……」
少し残念そうに、弓塚さんが呟く。
「わたしここで曲がっちゃうんだ……残念」
本当に心底残念そうに彼女は言って顔をあげる。
「遠野君、今日話せてうれしかったよ。ありがとう」
「お礼をいわれるほどのことでもないよ」
「そんなことないんだけどな。でもいいよ、わたしはこの日を忘れないから。
そうだね、遠野君記念日、なんてどう?」
「記念になるの?」
むぅと弓塚さんはちょっと頬を膨らませる。
「なるの。決めたんだから。
それじゃあばいばい、遠野君」
「ああ、また学校で」
そうして俺は弓塚さんと別れて遠野家のほうに向かった。
近づいてくる、秋葉達との再会を想いながら。
ゆるやかな長い坂。
そこを上りながら思い出す。
まずは秋葉。
この八年間、ロクに連絡もしてやれなかった。本当に、冗談抜きの八年ぶりの再開だ。
……何も言う言葉が思いつかない。
子供のころ、怯えたような眼をしながら、それでも俺の後をついてきていた秋葉。
その長い黒髪と服装のせいでまるで人形みたいだった。
俺がいなくなってから、あの親父にひたすら厳格に育てられただろう秋葉。
きっとそこに小さなころの面影なんて見つけられないだろう。
それもすべては――
……やめろ。やめておけ。
あと思い出すのは、俺と遊んでいた明るい少女と、屋敷の中から俺達を眺めていた少女。
あの二人はどうなっただろう。元気でいてくれるとうれしい。
それとも、もうとっくにあの屋敷を出ているか……
無理もないことだと思う。むしろいたら不思議なくらい。
それも全部――
ああ、やめろやめてくれいいかげんにしろ。
いまさら悔やんで……なんになる?
終わったことにもしなんて記号をつけてなんでも理想化するのなんて、悲しすぎる。
だったら前に進むだけ――
……ふと思う。
俺はアイツの願いを叶えてやれているのだろうか?
その願いすらあやふやだけど。一瞬見たアイツの眼から感じただけの曖昧なものだけど。
それでも俺は、これを護るしかなかった。もう戻れない過去に囚われているだけかもしれないけれど、それでも――
いつのまにか、門は目の前にあった。
見る者を威圧するような――もしくはそのための――門。古臭いそのデザインは変わっていない。
そこから広がる本当に広い庭。木々で埋め尽くされた森ともいえるあのころの遊び場。
変わっていないその風景に、少しだけ懐かしさを覚えた。
少しの間、それを眺めてから鍵の掛かっていない門を力任せに開く。
見回しながらのろのろと歩く。
そう、外見だけは何もかも変わっていない。外見だけ、変わらずそのままにある。
舗装された道の上を歩きながらまっすぐに屋敷を目指していく。
たどり着いた玄関もやはり重苦しく、威圧感しか感じない。
その隣にあった不似合いな呼び鈴を押す。
やはり見栄なのだろう、その音は外にはほとんど聞こえない。俺でなければ聞こえなかっただろう。
少しして、あわただしく足音が扉に近づいてくる。
俺は扉の前をどいた。
ほぼ同時に両開きの扉の片方が開かれる。
「お待ちしておりました」
その中から現れたのは――
来ている服装こそ割烹着になっていたが、そのにこやかに微笑む少女。
間違いなく、彼女だった。間違えるはずもない、でも見間違えてしまいそう。
でも――安堵する。
でも彼女は俺のそんな気持ちには気付かずに、言葉を続けた。
「志貴さまですよね?よかった、心配してたんですよ?聞かされていた時間から随分経っているから迷っているんじゃないかって。
でも無事に来られたみたいで安心しました」
「ああ、心配かけたみたいだね。ごめんよ」
軽く手を挙げて、俺は彼女に謝る。
「しきさま……?」
呆然とする彼女。
そう――きっとこういう風な顔をすると思った。
「どうしたの?俺の顔に何かついてる?」
「いえそんな事はないですよ。
少し、考え事しちゃいました。すいません、すぐに秋葉様のところにご案内しますね」
俺を中に導きいれた後、前に立って歩く少女。
見覚えのあるロビーを横切りながら、館の構造をなんとか思い出そうとする。
……ダメだ、ほとんどわからない。
でもこの先は居間だったはずだ。八年前から変わっていなければ。
と、少女が足を止める。
「お帰りなさいませ、志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく」
「どうもありがとうございます。居間はこちらです」
そういって再び歩き出す。
歩きながら考える事なんて、一つしかない。
やっぱり八年間は長かったんだという事。少なくとも表面的にはまるで別人なんだから。
通された居間には二人の少女がいた。
一人はソファの傍に静かに佇むメイド姿の少女。
一人はそのソファに上に優雅に腰掛け、毅然とした様子の長い黒髪の少女。
二人ともに見覚えがあった。
ああ、忘れるはずがない。彼女達を忘れてあの約束が護れるものか。
「琥珀、ご苦労様。下がっていいわ」
「では、失礼します」
ソファに座る少女が優雅な威厳を込めた言葉に、割烹着の少女はその場を辞した。
――ああ、やはりそうだった。
目の前の黒髪の少女が俺に向かい直る。
「お久しぶりですね、兄さん」
――変わったところもあった。でも変わっていない。
俺は立ったまま彼女に応えた。
「久しぶりだね秋葉」
微笑む。
少女は琥珀と同じ様に少し戸惑った表情を見せた。
「どうしたんだ?秋葉」
さっきと同じように言葉をかける。
秋葉はそれが無様だったかというようにキッと顔を引き締めて、
「何でもありません。それより立ったまま話すのはお疲れになるでしょう?」
遠まわしに座れといっているらしい。俺は素直に従う事にした。
腰を下ろして改めて秋葉を見る。
なるほど、外見は昔からは想像もつかないぐらい“良家のお嬢様”と化してしまっている。
でもあくまで外見だけは、だと思う。
「安心したよ、秋葉が昔のままの秋葉でいてくれて」
思わずそうもらしてしまったのだが、秋葉の表情の変化を見るうちに後悔する。
「どういう意味ですか?兄さん」
ともすれば噛み付いてきそうな表情に、多少苦笑いする俺。
「いや、褒めてるんだよ。でも綺麗になった事は確かだな」
「どうもありがとうございます」
目を閉じて、冷静に受け止められた。
やはり嫌われているか。仕方ないとは思ったけど、やっぱり辛いな。
それからいくつかの形式的な話――といってもそれまでここに居候していた連中や使用人を一気に追い出したなんてとんでもない話もあったが――をしてから、秋葉は静かに切り出した。
「それで、兄さんはこの八年間どう過ごされていたんですか?
あ、なんて説明するか考えてなかった。
「あー……まあ普通に過ごしてたよ。一般的な学生が過ごすようなやつだ」
「そうですか。つまり兄さんは有間の家では甘やかされていたというわけですね」
「まあそうなるかな」
確かに、有間の家では甘やかされていただろう。
それに秋葉がそう思うのも仕方ないことだ。
まあ……そっちの方が都合はいいのだが。
だが俺が素直に認めたのが秋葉には気に入らないのか、やはり不機嫌そうだ。
「とにかく!この家に来たからには兄さんもある程度の嗜みという物を守って頂かないと困ります。その点は気にとめておいてください」
「ああ、努力はする」
……だから睨まないでくれ。
「まあそれは今は置いておきましょう」
とても置いているようには見えないが、とにかく彼女は視線をさっきから一言も喋らず、身じろぎ一つせず、無表情に立っていた少女に移した。すぐに彼女は無表情のままお辞儀をした。
……ああ、こんなところにも八年間なんて時間が。
「この子は翡翠といいます。これから兄さん付きの侍女にしますがよろしいですね?」
ああそうか、彼女が今日から俺の侍女に――
……
…………
………………
え?
「あきは、オマエ、いま、なんていった?」
慌てる俺に、秋葉は不審そうな目を向ける。
「この翡翠を兄さん付きの侍女――言い換えれば召使ですわね――にするといったのですが」
「あのな……俺がそんなに――」
反論しようとしたところを、秋葉の視線と言葉にピシャリと押さえつけられる。
「食事の支度、着物の洗濯、その他幾つかの雑務――兄さんはできるのですか?」
「むぅ……」
一応できることはできるが――サバイバル戦の様相になりかねない。
少なくとも秋葉が考えるだろう文化的ともいえるような生活には程遠い。
「わかった……言うとおりにしよう」
あっさりと折れる。抵抗しても意味はなさそうだからだ。
「ご理解して頂いてどうもありがとうございます。
では翡翠、兄さんをお部屋に案内して差し上げて」
「畏まりました、お嬢様」
スッと音もなく翡翠がこちらに歩み寄る。
「それでは、お部屋にお連れ致します」
「ありがとう。じゃ、秋葉また後で」
「はい、兄さん」
ロビーに歩いていった翡翠の後を追い、立ち上がる。
階段を上がり二階へ。ぼんやりとした明かりの中を翡翠に先導され歩き続ける。
「翡翠」
ぴたり、と翡翠が足をとめて振り返った。
「なんでしょう、志貴さま」
「……変わったね」
小さく、本当に小さく呟く。ため息とともに。
「何か仰いましたか?」
「いや、なんでもない。それで俺の荷物は届いてるかな?」
「はい、すでにお部屋に運ばせて頂いております」
「そうか……ありがと」
「お気になさらないでください。当然のことですので」
翡翠はそう言い切って、それではと一礼し、くるりと前を向き再び歩き始める。
やがて翡翠は一枚の扉の前で止まった。
がちゃりと扉を開け、俺に道を開ける。
その部屋の中は高校生には豪華すぎる代物だった。
「……これはまた立派な部屋だね」
「志貴さまは遠野家のご長男なのですから、これくらいは当然かと存じます」
冷静に、翡翠はそういった。
「そうか……まあいいか。ところで俺は昔この部屋を使っていたんだっけ?」
俺の質問に、翡翠はすこし戸惑った後答えた。
「そのように秋葉様に聞いておりますが……」
「いや、いいんだ」
運び込まれていた荷物――トランク二つ――を確認して、翡翠に向き直る。
「ありがとう。もういいよ」
さて、中身も確認しとくか。
と――
「どうしたの?」
立っていた翡翠に声をかける。
翡翠はおずおずと――初めて感情を出したような気がする――質問する。
「あの……差し出がましいようですが、お荷物は足りているでしょうか?少なすぎるようだったので……」
「ああ、その事か。もともと荷物はあまりないんだ。大丈夫だよ」
それで納得がいったのか、翡翠はそれ以上は聞こうとはしなかった。
「それでは、失礼致します志貴さま。なにか御用があればお申し付けください」
静かに扉が閉められた。
翡翠が立ち去った後、トランクの黒い方を開ける。
中に並んだ俺唯一の趣味の品は、一本も欠けていなかった。
「こっちはどうかなーっと……」
もう一つのこげ茶のトランクを開ける。取り合えずは全部そろっている。
確認が終わると、その中身を一つずつ片付ける。
服も俺にはロクにない。黒のトランクはそのままでいいか。
あとは――
トランクの蓋の裏、そこに大事にしまっておいた白いリボン。
あの時――あの少女に貰った思い出の品。
思えばこんな状況でも俺が俺でいられたのはこの眼鏡の他にこのリボンのおかげかもしれない。
あのときの約束、果たさないとな……
でもなんというかタイミングがつかめない。
八年間の空白が、ここに来て一番重くのしかかってきたような気がする。
「まあ、なんとかなるか」
とりあえず楽天することにして、俺は自分の物とはとても思えない部屋を出た。
それから食事を終えて、部屋で俺は先ほどの事を思い出していた。
まず胃の痛くなるような食事風景。
なんとなくとか言う感覚になってしまっていたテーブルマナーの残片を俺が披露するたび、秋葉から剣呑な殺気が膨れ上がる。
とても健康にはよくない食事だった。いや、料理はおいしかったのだけれど。
次に俺は今度は秋葉と紅茶を飲んでいた。いわゆる食後のお茶、というやつだ。
「そりゃあ……大変だったな。よく続けられたもんだ」
「褒めていただいてどうもありがとうございます。
兄さんがもっと早くに帰ってきてくれれば私はこうはならなかったのですけど」
「ああ……まあこの八年間ほったらかしにしてたのはすまない。ごめんよ秋葉」
「……そう言ってくれても許しません」
そうそっぽをむいた秋葉の顔は、すこしだけ赤く染まっていた。
「ところで兄さん……目を悪くされたのですか?」
眼鏡に視線を向けながら秋葉。
聞かれても、これに関してはホントのことを話すわけにはいかないからなあ……
「これは……ちょっとした後遺症ってやつだよ。気にしなくていいから」
「そうですか……」
すこし、話が途切れた。
いくつか頭に浮かんだ話題から一つを取り上げて場を戻す。
「ああ、それと琥珀さんと翡翠についてだけど」
「あの二人がどうかしましたか?」
「たいしたことじゃない。二人とも――」
随分変わったなと言いかけて、俺は言葉を止めた。
「兄さん?」
「いや、二人とも双子?随分似てるけど」
「はい。琥珀が姉で翡翠が妹です。兄さん、二人とも双子というのは日本語としておかしいですわ。本当はなんと――」
「なんでもない。ちょっと間違っただけだ。深い意味はないよ」
「……分かりました。
それで八年ぶりの実家はどうですか?」
諦めてくれたらしく、他の話題になった。
「さあ……なんせ八年だ。長いからね……」
「その長い間私はお父様にずっと目をつけられていたというわけですね」
「ほんとにすまなかったって……」
そんな会話を繰り返して、適当なところで俺から部屋に戻った。
ベッドに寝転がって天井を見る。
そして今日の一日と、これからとを思いながら、
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
俺は眠りに落ちて、
――不愉快な鳴き声。頭に響く。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
落ちて……
――染み渡る。響き渡る。いい加減にしろ。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
…………いかなかった。
――鳴き止まない。煩い。響く。頭に。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
…………
「だぁっ、くそうるさいなー!」
文句をいいながら身体を起こす。
これではとても眠れない。
「まったくこんな夜中に迷惑な」
時計を見ると十一時になったばかりだった。
その遠吠えは、屋敷の塀の近くから聞こえているようだ。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
「うるさい……」
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
「うるさいって……くそ……」
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
「行くか……」
ゆらりと立ち上がる。もう決めた。
うるさい。やめろって言っているのにうるさい。
なら……止めてやるだけだ。
――このとき俺はすでにもう“こちら側”の現象である事を理解していたのだろう。
そうでもなければ、誰が犬を相手にするのにナイフを三本も持っていく?
制服に着替えた俺はその刃物の冷たさとやたら響く犬の鳴き声に中てられた様に窓に自然に手をかけた。
蒼い鴉がいた。でもあれよりもっと――
俺がそっちをみると鴉はそのまま飛び去った。もともと気にかけるつもりも無かったし、どうでもいい。
開く。飛び降りるのは駄目だ、あちこちにカメラがある。
木だ、枝に移れ。
枝の跳んでいく。空に浮かぶ月に影を落としながら跳んでいく。
指先に触れる刃物の感覚が心地いい。
ツメタイ、アア、ナンテツメタイ。
まともに身体を使うのは久しぶりだった。普段の生活でここまでの身体能力を発揮する必要はない。
それに――久しぶりの開放に――身体が歓喜しているのか、やたらと軽い。
すぐに聞こえていたあたりの近くに来て、塀を越えて道路側に飛び降りる。着地に音を出すなんて無様はしない。
地面に降り立って、ゆっくりとそちらを向く。
そこには、
一つの、
影が、
あった。
どくん
心臓がはねる。
喉が渇く。
背筋が寒い。
頭が痛い。
身体がおかしい。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
狗の声が聞こえる。男から。男のなかから聞こえる。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
寒気がする。歯の根があわない。背骨ガイッテシマッテイル。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
アレはオカシイ。全然、何もかもオカシイ。オカシクなってしまうくらいオカシイ。
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
オォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
ダッテアレハバケモノダカラ――
「此処は違ったか……まあいい。いずれ……」
アレがポツリと呟いた。同時に遠吠えが――反響する音が――消える。
さっきの蒼鴉が降りてきてアレの肩に止まり、そのまま沈み込んでいく。
音も無く、その男はそのまま俺とは逆の方向に歩いて行って闇に見えなくなった。
それなのに。
アレはいなくなったのに。
もうなにもないはずなのに。
俺は冷たい汗をぬぐう事すらできずに立ち尽くしていた。
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