月の光に染まる街 第九幕
〜決着または終焉〜





短い会話を終えたわたし達はただ殺し合う。

黒鍵を撃ち出し、わたしは距離を置いた。

接近戦であの“手”を使われたらおそらく避ける事は出来ない。

ならば距離をとって黒鍵を撃ち出すしかない。

「フン」

嘆息の様な声を漏らし、ネロは生み出した獣で黒鍵を防ぐ。

黒鍵はダスダスと獣に突き刺さり、獣を摂理の鍵により塵に帰すが、その影からネロはさらに犬を放った。

それらを撃ち付けながらさらに距離をおく。狙撃によって時間を稼ぎ、アルクェイド達の助力を待つのが最適か。

ふと、横から来る殺気に身を伏せる。

刹那の後わたしの上半身をえぐるように黒い腕が通り過ぎた。

――速い。思った以上に厄介な能力だ。

「どうした埋葬機関、この程度か。やはり七夜には及ばぬのか」

嘲りを含んだ声にわたしは黒鍵を返す。

それをネロはあっさりとかわし、虎を数匹放つ。それらを飛び避け迎撃しようとして、空中に夜色の手が疾る。

避け切れない――!

防御の構えを取り、右手からわき腹を打つそれに耐える。

「かはっ」

予想以上の威力に声がもれる。

肋骨が二本と内臓に少し傷がいったか――問題ない。

その場を素早く飛び退き、迫る獣どもを串刺しにしていく。

だが、明らかに状況はまずい。ネロにはアルクェイドを捕らえるほどの力を持つ結界がある。

あれを使われたらおそらく抵抗できないだろう。

ならば使わせないまで。

さっきの動きから一転、ネロの懐に入り込む。

一瞬躊躇するネロの顔、首、胸に黒鍵を叩き込んだ。

燃え上がる剣によろめくネロ。だがこれだけでは足りない。まだこの化け物は死なない。

背後から迫る獣どもに気を払う必要も余裕も無い。

両腕が食い千切られたがすぐ治る。それなら意味は無い。

ひたすらに黒鍵を投げ続け、貫き続ける。

何本も何本も――

そのネロの口元が。

不気味に、歪んだ。

同時にネロが消えうせる。

――もう、間に合わない。

足元から膨れ上がる混沌に、わたしはもう半身を包まれている。

「姫君にも使った手なのだが中々有効なようだ。

 混沌に呑まれる気分はどうかね?」

向こうの影から姿を現したネロにありったけの黒鍵を投げつける。

虚しく虚空を貫く剣閃。

ネロはそれを目で追う事無くこちらを睨み続け、吐き捨てた。

「やはり詰まらん。この飢えは七夜しか癒せんのか。

 ……それも当然か。私を殺し切ることが出来るのは七夜を置いて他にはあるまい」

本当に詰まらなそうにネロは嘆息する。

わたしはずぶずぶと混沌に沈み続け、もう口元も埋まっていた。

「くっくっ……なんと皮肉な事よ。

 死を乗り越えたが故に、もっとも我が死に近き者を望むとは。

 狂ったとしか思えん」

もはやそれは誰に聞かせているという物でもないのだろう。ただの独白。

混沌に沈むわたしはもうほとんどそれを聞き取れない。

……この混沌ならわたしを殺せるだろう。

少なくともこの意識を咀嚼し、死を与えてくれるだろう。

それならそれで、いいかもしれない。

それはある意味わたしの望んだ物だから――

ああ、もう死んでしまったのか。

目の前にはわたしの目の前で水に消えた後輩の姿。

なにか必死に叫んでいるが、よく聞こえない。

……顔を張られた。

痛い。死んでも痛いという概念はあるのだろうか。

死んでも厳しい世界だ。結局痛みの無い世界など無いということか。

……ちょっとまて。

抱えられたわたしを、貫きそうになったあの黒い触手はあきらかにネロのものだ。

ネロももうこっちに来た?

「先輩ぃ!いい加減に目を覚ましてくださいよぉ!」

耳元で聞こえた声は、確かに聞き覚えのあるもの。

彼女はその脚で夜空を舞い、風を切る。

そこに至ってやっとわたしは自覚した。

なんだ、まだ生きてるじゃないですか。

「あ、やっとお目覚めですか、先輩」

わたしを下ろしながら目の前の死んだはずの彼女が語りかける。

どういうことかは知らないが、とにかく生きていたのだろう。事情を聞くのはあとでいい。それより――

「生きてたんですね。助かりました、弓塚さん」

「どういたしまして」

月を背に、変わらぬ笑みを浮かべる彼女。だがその眼は真紅。燃えるような紅さを、湖面の様な静けさに押し込んだ真紅。

それがゆらりとネロに向けられる。

その対象であるネロ・カオスはしばし呆然とした後、肩を震わせて絶叫した。

「娘っ!貴様、何をした!?

 何故――何故姫君すら破れぬ我が“創世の土”が破られる!答えろっ!」

その言葉はわたしすら驚かせるのに十分だった。

あの……アルクェイドすら破れなかった結界を、彼女の様な年端もいかない死徒が破るなど常識はずれもいいところだ。

驚愕に包まれた静止の中、彼女は酷薄な笑みを浮かべ、呪いを詠う。

「さあ――?でも、どうでもいい事なんじゃないかな。

 だって今から死ぬのに、後の心配なんていらないでしょ?」

「貴――様ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

ネロは雄叫びと共にその手を伸ばす。曲がりくねりながらもそれは弓塚さんを狙い続ける。

一歩も動かない弓塚さんは、その姿勢のまま右腕を持ち上げた。

肘を折り曲げ、口元を覆うようなその姿勢は振り払う姿勢とも取れる。

ネロのあの手を振り払う力が弓塚さんにあるというのか――?

彼女を黒の腕が貫く瞬間、彼女は一歩右に寄りそれをかわした。

「ぬっ!」

その延びた手が後ろで弧を描き、再び弓塚さんに襲い来る。

その間の、僅かな間。

――わたしは見た。

三日月のように歪む口元。

真紅の眼に燈る烈火の意思。

黒に添えられる白磁の手。

途端――ネロの右手は枯れ落ちた。





「この義手は特別製だ。最近の会心の作と言ってもいいな」

蒼崎さんはわたしに義手を着けてくれるとき、そう言っていた。

「オマエの固有結界、実におもしろい。名を付けるなら“枯渇庭園”と言ったところか。

 弓塚、固有結界が最も力を裂かねばならない部分は何だと思う」

崩れたのは右手の肘辺りまでだったので、蒼崎さんはそこに接続部品を当てながらそう聞いた。

そう言われてもわたしにはさっぱり。固有結界の説明も受けたけど、よく分からなかったのが実際だ。

実践した時のことからなんとなく、自分の心の中を世界に作る力だと思った。蒼崎さんも今はそれでいいと言ってくれたのでまたそのうち詳しく勉強することにしよう。

「一度使ったんだろう?だったらその時何に苦心したかを思い出せばいい」

ふむ、これでは無粋だなと呟いて奥の材料室に歩いていってしまう。

わたしは右腕を台に乗せたまま言われたことを考えていた。

なにしろあの時は必死だったのでよく覚えていない。

それでも考える事はやってみる。なにもしないってのはわたしは嫌だから。

…………

…………

あ、なんとなくだけど、これなのかな?

丁度よく蒼崎さんが部屋から戻ってきた。手にはアヤシイ箱を幾つも抱えている。

「ん。で、答えは出たか?」

箱を隣に積み上げ、煙草の灰を落としながら、作業を再開し始める。

「はい。えーと……あの結界をずっとそのままでいさせるのが一番疲れたかな……と思います」

「ほう……」

短く息を吐いて、わたしの顔をまじまじとみる。

……恥ずかしい。

だがそんなわたしの気持ちはお構い無しに蒼崎さんは続けた。あの、眼が怪しいです。

「そんな感覚の様な物まで鋭敏化しているのか。まったくあきれた能力だ。

 そのとおりだよ、弓塚。固有結界は常に世界の修正に晒される為、維持にもっとも力を使う。並みのヤツなら数分ともたんだろう。

 ならばその修正を受けないようにすればどうか。それならその分を別に回せるのではないか」

どんどんヒートアップしてくる蒼崎さん。ただしそれは言葉と眼だけ。あとは全然冷静なまま。

かえってこっちの方が怖い。

「それを成したのがこれだ」

目線でそれを示す。わたしの右腕につけられた義手。

テキパキと作業をこなしながら、なおも蒼崎さんは説明を続けた。

「これはミスリルという特殊金属で出来ていてな。その中でも魔術などの効果増幅のための改良版だ。

 この内部に固有結界を展開し、その触手を外に伸ばすことでかなり修正による弱体化を防げるしミスリル自体の力で威力も上げれるだろう。

 ただし、接触しないことには何も出来ない」

こんなものでいいか、と接合部分の表面を綺麗にコーティングしながら蒼崎さんは手を離した。

すごい、本当にわたしの手みたい。一体感って言うか、違和感がまったくない。

「持ち上げてみろ。指は全て動くか?」

その言葉に従って、腕を持ち上げ指を一本ずつ親指から曲げていく。

本当にすごい。義手とは思えないくらい自然に動くし、なにより感触がある。

「よしよし。余計な効果をつけたから感覚の代わりになる魔術回路が通じるか心配だったが、問題ないようだな。

 まあオマエの身体が敏感すぎるのもあるんだろうし、そこはいいか。

 ああ……身体の調子はどうだ?吸血衝動は上手く押さえられているようだが」

「はい、最後にもらった血が本当に――おいしかったですから」

おいしいという言葉をだすのにまだ躊躇がある。いずれ慣れようとは思うんだけど、今はまだ……

そんなわたしに蒼崎さんは満足そうに頷くと道具を片付けて立ち上がった。

「さて試運転だ。そうだな……この林檎でいいか。やってみたまえ」

そう言って渡してもらった林檎を右手で受取る。

あの時と同じ様にわたしの世界を解き――

「そうじゃない。その右腕の中に解き放つイメージでいけ。そうじゃないとここに具現化する。この使い分けは覚えておくといい」

その忠告を聞いて、静かに右手にイメージする。

閉じた眼の裏で、右腕に世界が広がり、青々とした緑と橙色の土が舞う――

右腕に力が集まり、わたしの心どおりの世界を形作る。

……全然辛くない。

「どうだ?」

「はい、全然大丈夫です」

「それなら早速使ってみろ」

わたしは林檎を睨んで、ただ念じる。

枯れてしまえ――

途端に林檎は黄土色になり、さらさらと崩れた。あとには砂がわたしの手の上に乗っている。

頷きながら適当な空き袋を渡してくれながら、蒼崎さんはさらにご機嫌そうに笑う。

「うむ、予想以上の出力だな。一瞬で枯渇から崩壊まで持っていくか。

 軽くなんだろう?いまのは」

「そうです。けどなんだか怖いなぁ……」

わたしの手に触れただけで枯れ落ちるなんて、なんだかすごく不気味。

まあ、わたし自身吸血鬼なんていう不気味な物なんだけど。

そんなわたしの心配を蒼崎さんはあっさりと切り捨てた。

「制御できる力は恐怖ではない。制御を失う事こそ恐れるべきだ。

 オマエがきちんとそれを扱えるなら問題は無い。

 吸血鬼であると言う事もまた然りだ」

私も魔術師だしな、と付け加えて煙草を灰皿に押し付ける。

何気ない仕草だけど、その言葉は、とてもうれしかった。

「さて、もういいだろう。ここの場所は分かるか?」

「はい。それは分かりますけど……」

なにがもういいのか分からないけれど、一応質問に答える。

「ならもう行くことだ。どうやらやる事があるんだろう。さっさと片付けて来い」

立ち上がって、ドアに歩いていく。

白いドアの鉄の感触。右手でそれを感じるのはなんだか懐かしい。

「本当にお世話になりました。また来ますね」

「いいだろう。私もオマエが気に入った。今度は一食ぐらいはおごってやろう」

これは私としてはかなり奮発しているんだぞ?と蒼崎さんは付け加えた。

わたしも笑い返して、そのときはお願いしますと告げてその場を去った。





砂となった黒い腕だった物が空を舞う。侵食は止まらないがネロは右腕を切り落すことでそれを止めた。

落ちた右腕を信じられないような眼で見つめ、狂ったようにわめき続ける。

「枯れるだと……!?そうか、その力か!それで私の“創世の土”を――!」

混沌に戻らずただ空に消える砂を見上げ、わたしもその理由をようやく理解した。

枯渇からの崩壊。それこそ自然に行き着く最後――死そのものだ。

ネロ・カオスは確かに身を混沌となし、自身の中に世界をつくり、混沌の輪を作り上げた。

だがそれでも世界の影響を受けないわけではない。枯渇と言う“自然死”を逃れられるわけではない。

まさにそれは尽きた時のなせる業。自然の法則を相手に叩き込む摂理の鍵に他ならない。

世界が定めた時の終着――それがたった今、ネロ・カオスを侵していた。

「形勢逆転ですね……ネロ・カオス」

傷はもう塞がった。わたしは立ち上がりながら黒鍵を構える。

決定的にネロにはもう後が無い。あの腕すら一瞬で枯れさせる彼女の能力があればネロの獣全て殺しきれるだろう。

だがネロは退かない。彼にはプライドがあった。

あの殺人鬼と殺し合う望みがあった。

右腕を再生し、獣のように吼え猛る。

「まだだ!まだ終わらぬ!私は死すら超越した!このようなもので私を止められると思うな――!」





ネロと呼ばれた吸血鬼。

わたしは彼が圧倒的なモノに変わっていくのをその眼で見ていた。

彼を作るものが集まって、一つのケモノを形作る。まるでそんな感じ。

わたしの横からシエル先輩がそれに剣を投げたが、すでに変わり終えたネロはあっさりそれを叩き落とした。

夜の闇に紅い眼を輝かせ、わたしを目指して駆け抜ける。

それは速くて、単純で。

獲物を狩り続けるケモノの動きに他ならなかった。

振りかぶられた腕。間違いなく今のわたしでも殺されるほどの力をもつ腕。

きっとベンガルタイガーが他の動物を狩る時もこんな感じなのだろう、とぼんやりと考える。

先輩が何か叫んだがわたしは気にせず一歩踏み込んだ。

振り下ろされる腕。大気すら切り裂くその一撃。

でもそれは――わたしには届かない。

空を刈る一撃に、目を細める。

殺意も、力も、速さも。なにもかもわたしを殺すのには十分。

それでもわたしは殺せない。

「だって――あの人に会わなきゃ」

小さく呟いて流砂に囚われたケモノを見下ろす。

今のわたしならシエル先輩を下ろした時に地面を一部砂に変えておくことも出来る。それで作った流砂の檻。

思い付きだったのだけど、最後の最後で役に立ったようだ。

あとはあっけないくらい簡単。一言呟けばすむ。

「枯れてしまえ――」

わたしの世界が広がって、現れた木々がケモノに動けないケモノに襲い掛かる。

流砂に脚をとられ、木々に水を奪われ、緑に姿を覆われ、死に至るケモノ。

その中で、彼は静かな声でわたしに問うた。

「まさか、七夜以外に私を殺せるものがいるとは……世界は広いものだ。

 娘――貴様は生きて何を望む」

わらわらと群がる木々の向こうから声だけが響く。

止めを刺そうとする先輩を止めて、わたしは答えた。

「人に戻ること。ただそれだけ」

「それほどの力を失ってもか。永遠とも言える命を無くしてもか」

声は止まらない。

彼の言う事はもっともだろう。人はずっとそれを求めてきたのだから。

でも成って分かった。

こんなも、いらないんだ。もっともっと大切なものを引き換えにして手に入れるほどのものじゃないんだ。

思いついた答えの言葉にわたしは小さく笑っていた。

「わたしは夜が怖いから、吸血鬼なんて出来ないもの。光の中でいたいっていう吸血鬼なんて居ないでしょ?」

しばらくの沈黙。群がる緑は動きを止めない。

やがて――本当に小さく声があたりに沈んだ。

「ク……クックッ……

 なんとも矛盾した者に殺されたものよ。良かろう娘、その道僅かながら手助けしてやろう。

 トラフィム・オーテンロッゼという死徒がいる。ヤツならそれを知っているかもしれんが、聞き出すのは容易ではないぞ」

「どうして……わたしにそんなことを」

今度はわたしが聞き返す番。

彼は低く、低く、笑って答えた。

「気紛れよ。貴様の様な矛盾した者こそ真理に至るやも知れぬからな。

 クク、ククククク――」

暗い夜に響く笑い声を残して、彼は砂となって空を舞った。

残った木々を世界ごと消し去る。

もうどこにも彼は見えない――





ぬらりとした感触に、顔をしかめる。

私から兄さんを奪う吸血鬼は私に胸を貫かれていた。

これで兄さんは私だけのもの。誰にも邪魔されない。

そう思うと安心できる。

でも――これは何か、見た事が――

――みー――


頭が痛い。

ぬらりと滑る手。

赤く染まった手。

胸を貫かれ、息絶えた彼女。

みーん――みー――


頭痛は止まない。

耳鳴りがする。

これは――蝉の声?

何故そんなものが。

みーんみーんみーん


重なる音。私の頭を侵していく。

赤い赤い腕


それは何かを思い出させる。

なにか。

あの夏の


なにか。

暑い日


ナニカ。

響く蝉の声


…………やめて。

煩いぐらいに耳に残る


……やめて。

赤い


嫌。

紅い


もう嫌。

血で染まった腕


やめて。嫌。見たくない。

兄さんを貫く


ああ……

お兄様の


ああああああ……

赤い紅い腕
































今の私と何処が違う?



「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」





涙が溢れる。

私が殺した。殺してしまった。

私に力なく倒れ掛かるこの人を。

あんなに好きだったのに。

一緒にいたいと思っていたのに。

秋葉は人だよと言ってくれたこの人を。

私が、殺した――!

裏切ってしまった――

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ぅう……ううう……!」

今夜は私、謝ってばかり。

そのどれもが取り返しのつかない事ばかり。

お兄様も、

アルクェイドさんも、

私のせいで――

泣き続ける私の頭を、誰かが優しくなでてくれた。

「あきは……もう、だいじょうぶ……?」

その声を、私はもう聞けないと思っていた。

儚く笑いかけてくれるその笑顔を、私はもう見れないと思っていた。

「アルクェイドさん……!」

「あはは……痛いよ……」

その言葉を聞いても、腕の力を緩められない。

だって――どこかに行ってしまいそうだから。

そんな私を安心させてくれるように、彼女はまた頭をなでてくれる。

「大丈夫……今夜は月が出てるから……そのうちに治るよ」

「アルクェイドさぁん……!」

「そんなに泣かないでいいのに……もったいないよ」

「そんな事ありません……!そんな悲しい事言わないでください」

抱きつく身体が冷たい。冷え冷えとした空気の中、赤い血だけが暖かさを残していた。

「秋葉さんっ!アルクェイド!」

その時になって遠くから駆けて来る足音に振り返る。

シエル先輩と、死んだはずの弓塚とかいう吸血鬼が走ってきていた。

「大丈夫ですか!?」

「だいじょうぶよ。でもわたしはもう少しここで休んでるわ。先に行ってて」

「分かりました。秋葉さんは――」

「ここに残ります」

彼女が言う前に言い切る。

先輩は頷いて駆け出した。

そのあとを弓塚さんが追う。

兄さんは無事だろうか。お兄様は大丈夫だろうか。

気になる事はあったけれど、今だけは、ただこうしてこの人と二人で居たかった。

「行かなくて……いいの?」

「貴方の看病はどうするんですか。置いてなんて行けません」

「そっか……秋葉は優しいね」

髪を梳く様に透るこの人の指が嬉しい。

その手を捕まえて、私は呟く。

「大丈夫ですよね……」

「当たり前よ。貴方のお兄さんを信じてあげなさい」

その言葉を噛み締めながら、私は空を見上げる。

アルクェイドさんを癒す月の光はさんさんと降り注いでいた。





暗い部屋は、今私の目の前にいる人を象徴しているみたいに何もかもを飲み込んでしまっている。

そんな中にぼんやりと、姉さんは立っていた。

「何故……そんな事を」

自分でも驚くほどわたしは冷静だ。

それこそ何故だろう。

目の前のわたしの姉さんは、いつものように笑いながらわたしの近しい人を殺すと言っているのに。

「復讐――と言えば十分に分かるよね、翡翠ちゃん」

わたしは言葉を失う。

だってそれは、わたしのために姉さんが受けた仕打ちに対する復讐なのだから。

ようやく震えてきた膝を隠しながら、声を絞り出す。

「槙久様はもう亡くなりました。四季さまと秋葉さまにはなんの罪も無いはずです」

「そうね。でもわたしの復讐は遠野家への復讐なの」

光の無い笑み。

それは何よりも暗くて、本当にこの部屋のよう。

――一見華やかなのに、何の明かりも差さない牢獄の様なこの部屋に。

「翡翠ちゃんは覚えてない?お母さんが死んだのは、遠野家のせいなのよ」

もちろん、覚えている。

その事は一生忘れず、ずっとそれを呪っていこうと決めていた。

でもその相手は死んでしまったのだ。

残ったのは何も知らない、何の罪も無い二人の友達だけ。

それなのに。

「遠野家さえ最初から無かったら、きっとわたし達はお母さんと幸せに暮らせてはず。

 その幸せを奪った遠野家に復讐する。何もおかしいことなんて無いじゃない?」

何て事でもないように、姉さんは語り続ける。

だが、それは違う。

わたしは知ってしまっている。

姉さんはそんな事では動かない。

復讐はあくまで二次的な理由だ。

もっと根底にあるのは――目的のための目的。

「違うわ、姉さん。

 姉さんはそんな理由では何もしない。

 姉さんがそんな事をする理由はただ一つ」

わたしが言わない限り、わからないというのなら。

それしかないのなら。

「姉さんはなにか目的が無いといけないから。

 本当は槙久様にも遠野家にも恨みなんて無いはず。

 だって姉さんは――」

「人形だから?」

静かに、その口から滑り出た言葉はついにわたしからは紡げなかった一言だった。

「そう、人形だった姉さんは目的がないと人形と言う事自体成立しない。

 仕事の無い人形はネジを巻かれない。ネジを巻かれない人形は――止まるしかないもの」

わたしの答えに、姉さんはにっこりと笑う。

光の無いその表情を――笑みと言って言いのなら。

「そこまで分かっていたの。

 だったらいいじゃない。わたしはそれしか出来なかったの」

「人形を……やめればよかったじゃない!」

耐え切れずに叫ぶ。

だけど姉さんのそれは崩れない。

「そんな事出来ないわ。

 人形じゃない琥珀はもう何処にも居ないのに、どうやってやめればいいの?」

「それは違うわ……姉さん」

泣くことも、眼を逸らすことも出来ず、わたしはただ姉さんを見すえる。

「だって姉さんは人形のフリをしているだけだから。

 人形だと思い込んで、痛くないと思い込んでるだけだから。

 本当は痛いのに、どうして……!」

途中で続けられなくなって、わたしはその部屋から逃げ出した。

暗い部屋は、最後までわたしを拒絶したまま閉じられた。





ついたため息は、今までの人生の中でも一番重かっただろう。

双子である翡翠ちゃんを騙すことが、なにより難しい事だった。

だがそれも終わった。

盗聴機は壊れてしまい、何も分からないけれど反転から逃れられるはずも無い。

計画は最後まで、なにもかも成功した。

ベッドに腰を下ろし、独り呟く。

それはここには居ない、もうすぐ死んでしまうあの人に向けての言葉。

「四季さま……これでいいんですよね。

 貴方達を殺めるんですもの、わたしは誰からも嫌われてなくてはいけませんよね」

そう、誰からも嫌われなくてはいけない。

わたしにも優しくしてくれたあの四季さまを殺めておきながら、安穏とした人生なんて送れない。

だから翡翠ちゃんにも嫌われ、後には志貴さんにも憎まれて、誰一人居ない葬列を迎えるのがわたしの罰。

ただ――このときになって思い出すのは、暖かいあの人の身体と言葉だった。

「貴方はわたしがもう一度人形になった後も、琥珀は人間だと言い続けてくださいました」

呟く。暗闇に向かって。

「ただ、またすこし忘れてしまっただけだから、同じ様にいつか思い出せる日が来ると仰い続けてくれました」

闇は濃い。夜は深い。

「あの庭の日向で本当に笑える日が来ると、何度も何度も約束してくださいました」

それは思い出を映す鏡には、十分すぎるくらいで、

「四季さま、言った事はありませんでしたが、わたしが貴方に何度再び人間にされそうになった事か。

 そのことを、わたしに日向の夢を思い出させた事を、どれほどお怨みした事か」

何もかもが鮮明に浮かんで、わたしの眼に幻影を残していった。

「そのことを――どれほどうれしく思ったことか……」

駆け抜けるそれは本当に楽しいことばかりで、

おもわず泣いてしまいそう。

頬を流れる温かなそれのことを知りながら、わたしはそれを認められない。

だってまだ、終わっていない。

「それでもあなたを殺すしか、わたしに出来る事なんてなかったのです」

それは復讐したいから、ではない。

それは人形だから、ではない。

ただ――翡翠ちゃんを守りたかったから。

お母さんの最期の願いを、せめてそれだけでも叶えてあげたかったから。

そのためには人形になるしかなかった。

好きな人を手にかけるには、人形になるしかなかった――

もう一度ため息をつく。

そのときには決心がついていた。

「……わたし、いままでずっと人形でいられましたか?一度も泣かなかったんですよ、四季さま――?」

だから翡翠ちゃんだけは幸せにしてあげてください――

その言葉を言えないままに、

わたしは手の中の小ビンの中身を飲み干した。





苦しむ四季に俺は駆け寄る。

俺の中の衝動は、ずっとコイツを殺したがっている。

月夜に満ちたこの殺気に、歓喜に震え上がっている。

だが俺はコイツを殺したくない。失いたくない。

そんな俺に、四季は手を伸ばした。

苦痛にうめきながら、その声は澄んだまま、俺の耳に響き渡る。

「志貴……それ以上近付くなら覚悟して来い」

言われた言葉の意味が分からない。

分からないまま、俺は足をとめていた。

四季のあまりに真剣な眼に。

俺が止まったことに四季は満足そうに頷いた。

呼吸は荒く、苦しげな音が屋上に走る。

「そっから一歩踏み出すんだったら、オレを殺す気で来い。

 正直……もう限界なんだ。いつオマエや秋葉に襲い掛かるともわからねェ」

「だからって――!」

叫びながらも、俺はその一歩を踏み出せない。

なにも思いつかない。

ただうろたえて……叫ぶだけ。

なんて……無様。

そんな俺にも、四季は変わりない口調で続ける。

「それが一番いいカタチなんだよ……全部を願うのは欲張りすぎだろ?イケニエがいねェと、カミサマはシアワセなんて、くれねェんだよ」

秋葉を守るためなんだから、結構いい役だぜ?と付け加えた笑顔が、俺には何より悲しい。

「秋葉を頼んだぜ、親友」

流れるよな四季の言葉。それは俺の頭にしみこんでくる。

一つ一つ確実に頭に叩き込む。

忘れてやるものか。

こんな時のこいつの言葉を、一生忘れてやるものか。

大きく息をついて。

四季は笑って語り終えた。

「それと……八年遅かったが、“ごめんなさい”

 これを伝えるために生きてきたんだ、もう悔いはねェよ」

その声を聞いたとき、頭の中でナニカが閃いた。


「君――の眼は、――れる瞬間――つまり“死”を視て――のよ」


今までのの何もかもがフラッシュバックして、頭が悲鳴を上げる。


「――はモノの終わ――見てい――」


だがそれでも俺は何かを掴み取ろうともがいて――


「貴方はどんなモノでもその眼で殺せるのよ」


――手に入れた。

ああ、こんなに簡単な答えがあったじゃないか。

気付いた時には思考は実にクリアだった。

視界も、思考も、神経も。

何もかもが澄み切って、邪魔なものなんて何一つ無い。

やれるとも。いまなら確実に。

コイツの願いを叶えてやれる。

躊躇は無い。

左手で眼鏡を外し、右手で七つ夜を抜く。

途端、床に、壁に、四季の身体に。

淡い淡い月の光に照らされて。

闇より昏い“死”がその手を伸ばす。

夜より深い“死”がその身を現す。

暗く深い黄泉路の世界と、白く輝く月の世界が重なり合う。

はっきりと映る黒い死は、俺が振り下ろす刃を待っている。

――確かにこの眼はそこに世界があることを俺に教えてくれた。

だが同時にこの世界はあまりにも脆いことを俺に囁いた。

地面は今にも崩れそう。空は今にも落ちて来そう。世界は今にも死に絶えそう――

そんな眼を呪ったことはあったけど。

今ほどそれを祝福したことはない。

この眼だけが、四季を助けてやれるのだから――

立ち上がり、手を広げて俺の刃を待つ四季に駆け寄って、望みどおりに振り下ろす。

シャン――

空を裂く音は鮮やかに響いて。

四季の身体に穿たれた点を寸分の狂いも無く貫いた。

倒れ行く四季。

その耳元に、その意識がなくなる前に囁いた。

「気にするな、親友。また後で利子つけて返してもらうからな」

返事はないが分かっている。

大きく息をついて傾きながら空を見上げた。

からんと乾いた音を立てて七つ夜が手から落ちる。

頭痛が酷い。

今まで以上に酷い頭痛。本当に、頭が割れてしまいそう。

でもそんなもの、全然大した事は無い。

仰向けに倒れて見上げた空。

冷たく澄んだ、黒い空。

その上天に、独りぼっちの白い月。

ああ――ほんとう――

今夜は――こんなにも――

月が綺麗だ――

薄れていく意識と、暗くなっていく視界の中、なおそれは白く輝いていた。





Back    Next