月の光に染まる街 第五幕 前編
〜混沌または六百六十六〜
明けかけた街を歩いて、俺はアルクェイドのマンションに辿り着いた。
あの時と同じエレベータを使って、鍵のかかっていない、あの時と同じドアを開ける。
前回はアルクェイドを殺すためで、今回はアルクェイドを助けるためだ。
その差に苦く笑いながら見回してみると、その部屋は結構まともだった。新聞なんかもテーブルの上に乗っかってある。
とりあえずベッドの上に寝かせる。アルクェイドは相変わらず深く静かに眠っていた。
息をつく。時計の針は六時前を指している。
「そんなに時間がたってたのか……まあ近くの犬をまくのに時間使ったからな」
一人ごちながら、光を差し始めた窓にカーテンで蓋をしていく。アルクェイドは昼間も出歩いていたけど、吸血鬼だし日光はまずいだろう。
眼は冴えている。あんなバケモノと会った事はないから、いまだに血が落ち着かない。
でも――一応は制御できている。アルクェイドを殺したいとは思っていない。
そう、よく考えてみれば思い至るべきだったのだ。アルクェイドが吸血鬼だと聞いたそのときに。
俺に流れる“血”は魔を狩り、闇を食いつぶす。もはやそれは衝動――湧き起こるどうしようもないもの――のレベルまで来ている。
だが今は大丈夫だ。もう、大丈夫なのだ。
「もう殺したくないからな……」
呟いて救急箱を探す。効くのかどうか分からないが、やらないよりマシだろう。
それに勢いというかなんと言うかでアルクェイドが寝てしまったし。寝ると体の機能が低下するからまずいんだけど。
しばらく部屋を探し回る。しかし結局部屋に救急箱は無く、俺は奇跡的に持っていた財布により包帯、ガーゼそれに消毒薬を買い揃えることが出来た。
戻ってきた部屋で、アルクェイドはまったく同じ格好で安らかに寝ていた。
その服を脱がす。常時なら躊躇するどころかやらないが、こういう場合四の五を言っていられない。
「うわ……」
白い肌に、ぽっかりとゴルフボール大の穴が四つほど開いていた。よくこんな傷で寝られるもんだ。
もしかしたら心配をかけ無いように言わなかったのかもしれないが――それはそれで頭に来る。
とにかく俺は消毒薬である程度ガーゼを湿らせて傷に当て、包帯を巻いていった。怪我の処置には慣れている。
最後に止血するために少し強く包帯を止めた。すこしアルクェイドが顔をしかめたが、それだけだ。
とりあえず出来ることはやったと思う。
息をついて、眠るアルクェイドをみやる。
実に平和そうに寝ている。うらやましくなるほど平和だ。
「…………」
気が抜けた。さっきまでの戦いの熱も一気に冷めて、危機感とか不安とか全部無くなってしまった。
残るのはありえないはずの眠気。
「まあ、しばらくは襲ってこないだろうし、一応寝とくか」
そう言って自己完結しておいて――確かに体力温存という点で必要なことだし――俺も寝ることにした。
向こうにあったソファに寝転がって、真っ白い天井を見つめる。
ああ、つか、れた――
一気に疲れが襲ってきた。
今日――いや昨日はいろいろあった。出会い頭に人を殺したくなり、夜は夜で屋敷を出て行く行かないとドタバタ――
「あ、秋葉達心配してるか……」
起きたら連絡を入れよう。
もうここまで眠くなったら起きるのはむ、り――
…………
……
……
…………
……いま、何時だ……?
眠っていた意識が浮かび上がると同時に浮かんだのはそんな疑問だった。
枕もとにある時計を見ようとして、見当たらない。
寝ぼけた眼でみまわす。あれ、時計がない……それに部屋もずいぶん変わったような――
がばっ!
一瞬で眼が覚めた。いつもの寝起きの悪さをぶっとばすぐらいはっきりと。
自分はどこにいる?アルクェイドの部屋のベッドの上。
昨日はどこで寝た?ソファの上で寝たはずだ。
じゃあなんでここにいる?
その回答といってもいいだろう声が、キッチンから響いてきた。
「あ、おはよー志貴」
能天気。瞬間、そんな言葉が浮かぶ。
次に浮上したのは怒り。ほんっとこいつは何を考えてるんだろう。
昨日のあの怪我で動いてるだって!?冗談じゃない!
「アルクェイド、寝てなきゃダメだろうが!」
「えーなんでー?大丈夫だよ?」
「なにが大丈夫だ!いいから寝てろ!少なくとも動くな!」
強引に言葉を押し並べて、ついでに幾分かの腕力もまじえて、俺はアルクェイドをベッドに寝かしつけてた。
ぶーぶー文句をいい続けるアルクェイドをなんとかなだめて、ため息混じりにキッチンに入る。そこにあったのは。
「メシだ……」
食べ物というぎりぎりのところだが、間違いなくそれは食料だ。
「あのバカ……」
助けてもらっておいて、さらに怪我してるのにメシまで作ってもらって。
しかもその相手が自分を殺した相手ときた。
「ほんっとに、バカやろう……」
そんな言葉の反面、俺は笑っていた。
さて……俺はアイツに何を作ってやろうか。
結局その場であるものでチャーハンを作った。
一応言われたとおりにベッドにいたアルクェイドにそれを持っていってやる。
「あ、おいしそう」
言葉どおりおいしそうに食べ出したアルクェイドを見ながら、昨日の出来事を思い出す。
あのホテルでの惨劇。正直悪夢のようだけど、あれは間違いなく現実だ。そういう事が起こりうる事を俺は知ってしまっている。
そのとき、丁度テレビからニュースを読み上げる声が流れていた。
『本日未明、南社木市にあるホテルで大規模な行方不明者が出るという事件が発生しました』
テレビに顔を向ける。アルクェイドは気にした様子も無くただチャーハンを食べている。
ニュースキャスターは無表情のまま、続きを読み上げた。
『ホテルに宿泊していた百三名の姿はいまだ発見されていません。また、ホテル内のいたる所に血痕が見られる事から、警察では何らかの犯罪に巻き込まれたという見解を強めています』
「百三人、か……」
具体的な数字を聞くとどうしようもなく実感させられる。
それだけの人が死んだのだと。何の必要も無く、ただ喰われたのだと。
「…………」
本当に遠い、昔の思い出のせいか、俺は家族皆殺しとか、そういうのに周りが驚くぐらい憎悪を持っていた。
まあ、あのことだけじゃないんだろうけど、それでも許せないことには変わりない。
「志貴?」
「アルクェイド、あのネロとか言うのはどんなヤツなんだ?」
アルクェイドの言葉にそのまま問い返す。
首をかしげながら彼女は答えた。
「わたしも詳しくは知らないわ。
ネロ・カオスっていうその名前もあとで教会がつけた二つ名みたいなものよ。
古参の吸血鬼で死徒二十七祖にも入ってる実力者。でもその割には自分の領地も持たない変わり者。
そして志貴も見たとおり、使い魔を武装にしてるみたいね」
「使い魔の数とか、種類とか分からないか?
まあそう言っても名前を知ってるだけで使い魔の概念とか分かってないんだけどな。でも今回は殺すのに必要かもしれない」
相手の武器が分かっているというのはずいぶん大きい。特に俺みたいなのには。
「種類とかはわからないけど、アイツみたいに長い間生きた吸血鬼って体が破損するとなかなか治らないの。何百年なんて所に来ると人間なんかじゃ命のレベルが足りないくらい。
その補充として生命的により優れたモノを取り込むの。魔獣とか猛獣とかね」
アルクェイドの説明はなんとなくわかる。
要はアイツはたくさんの獣で出来たバケモノなんだろう。
「志貴ってばちゃんと聞いてる?」
「あ、ああ聞いてる」
考え事をしていて、すこし返事が遅れる。
何故かアルクェイドはすこしどころか大いに不満そうだった。
それでも説明は続けてくれるあたり律儀というかなんというか。
「使い魔の数にも限界があって、ネロみたいに特殊なヤツでも――そうね、三十匹ぐらいじゃないかしら?
野生の獣ばかりっていうのが効率的じゃないと思うんだけど……まあそれはいいかな」
最後のは良く分からないが、つまりネロとかいう吸血鬼の武器は三十匹ぐらいの獣だということらしい。
それにどうやって対抗するかだが、犬達と殺しあっていても仕方が無い。
「志貴、わたしがネロをひきつけるから不意打ちお願いね」
もぐもぐと口を動かしながら、アルクェイドはいきなりそう言った。
「……怪我の具合を分かっていってるのか、お前は」
それが一番ネロに隙を作れる手段と言うのは分かる。だがアルクェイドの怪我はもしもの時に耐えられるようには見えない。
だが、彼女ははっきりと言った。それは少なくとも悲壮でも無謀でもなかった。
「志貴がちゃんとやってくれるって信じてるもの。わたしを殺せるぐらいなんだから」
「……はぁ……」
ため息をつく。そんな笑顔で言われたら、俺はどうしようもないじゃないか。
「まったく……お前はムチャばかりだな」
「そう?一番安全な方法だと思うけど」
もぐもぐと口と手を動かし続けて、さらに言葉を続ける。
「そう言えば志貴って訓練か何か受けてるのよね。あの動き、そうじゃないと考えられないもの」
それはいつか聞かれるだろうと思っていた質問だった。
たしかに普通ならあの黒犬にすら抵抗出来ないだろう。一瞬で人を十七個に解体することも出来ない。
だからこそアルクェイドも最初は思ったわけだ。俺が殺人鬼なのだと。
……まあ、実際そうは変わらないかもしれないけれど。
「話すと長くなるんだけど、俺の実家の本業は退魔なんだよ。だから子供の頃はその訓練を受けてたんだ」
「退魔かぁ……確かに日本はそういう組織があるって聞いてたけど、志貴がそうだなんてね。でも納得はできるわ。
やっぱり頼りになりそうね、志貴」
うんうん、と頷くアルクェイド。
それで話はだいたい終わった。だがネロと殺り合う前にやる事があった。どうにも頭の痛いことだけど。
かけた電話から、懐かしい声がした。
なつかしい、という感慨はちょっと大げさだと思うけど。
「はい、遠野でございます」
「もしもし、琥珀さん?」
一瞬、間が開いて息を呑むような音がした。
「しきさん……!?志貴さんですか!?今どちらですか!秋葉様も翡翠ちゃんも心配してるんですよ!」
琥珀さんが珍しく大声を上げている。それは最後に見た琥珀さんよりずっと人間らしくて、なんだかうれしかった。
「ああ、ごめんよ……ちょっと事情があってさ。そうだね……明日には帰るよ」
「――琥珀!兄さんからの電話ですって!?」
電話の奥から、秋葉の鋭い声がした。
「あ、秋葉様が来られましたので代わります。秋葉様は本当に心配してらしたんですよ」
「わかってる。心配かけてごめんね」
言い終えると同じくらいで、秋葉の声が俺の両耳を通過した。
「何処にいるんですか兄さん!大丈夫なんですか!?兄さんをさらったあの女はなんですか!?」
「ああ秋葉……そんな大声を出さないでも聞こえるよ。
順番に言うと一番目はいえない。二番目はイエス。三番目は……これはなんていうかな、運が悪かった結果というか自業自得というか」
自分としてはかなり真面目に答えたつもりだった。二番目はまだしも、居場所を言うと秋葉を巻き込むことになる。三番目については信じてもらえるかどうかすら怪しい。
そう、これが精一杯の答えだ。
だが秋葉には納得いかなかったらしい。返って来たのは最初以上の声量だった。
「ふざけないで下さい!今すぐ迎えに行きますから、何処なんです!?」
「秋葉」
努めて冷静に、俺は言葉を選ぶ。
「落ち着け。俺は大丈夫だ。琥珀さんにも言ったけど明日には戻る。迎えはいらない。それと今夜は絶対に外に出るな。
――やらなくちゃいけない事があるんだ、俺自身の責任でね。それを果たすまでは帰れないよ」
秋葉は黙って聞いている。もしかしたら何も言えないのかもしれない。俺はただ言葉を続ける。
「でもちゃんと帰るから。俺は約束は守る方なんだよ。昔からそうだっただろ?」
「兄さん、まさか昔って――」
秋葉が何か言いかけたのを遮る。
「それじゃあ、また明日にな。翡翠にも心配ないって言っておいてくれ。それとお前こそ体壊すんじゃないぞ」
言って電話を切る。終わり際に何か秋葉が言いかけたが、これ以上は実際に会って話そうと思う。
だがおかげで、アルクェイドが不満そうな顔でこちらを見ていた事には気がつかなかった。
とにかくこれで、あとは戦うだけだ。
深夜に少し届かない頃、アルクェイドはマンションを出た。
俺は少しの間だけ部屋で待機する。
これでネロの使い魔の鴉はアルクェイドについていったはずだ。腰を上げて部屋を出る。
アルクェイドは見えないが、予定では公園で戦うことになっている。俺はアルクェイドが通るのと違う道を駆けた。
数分もかからず俺は公園の入り口に辿り着いた。が、すぐに身を隠す。
そこにはヤツがいた。偶然か作為か分からないが、とにかくそこにいる。
黒いコートで身体を覆い、公園の中心でただ立ち尽くしている。目を閉じ、瞑想しているかのようにも見えるその姿は、苦悩する哲学者のようでもあった。
気付かれてはいない。俺は気配を消したまま、慎重に隠れる。アルクェイドに知らせる必要は無い。
近くの茂みに隠れて待ち続ける。やがてアルクェイドが公園の入り口に姿を現した。
すこし、驚いたような顔。
「待たせた見たいね、ネロ・カオス。それともフォアブロ・ロワインと呼んだほうがいいかしら」
「ほう……懐かしい名だ。だがその名はとうに死した。此処に在るはただの混沌。
それより姫よ。今代の蛇とは既に見えたか」
肌寒いような夜風に乗って、二人の声ははっきりと流れてきた。
「いいえ。その様子だと貴方は会ったみたいね。どうだったかしら、わたしが殺すまで生きていてもらわないと困るのよ。ここまで来た意味がないもの」
アルクェイドの殺気が膨れ上がる。その眼が凶っていく。
ガタガタと手が震えた。歯が鳴りそうなのを食いしばって耐える。
血が騒ぐ。目の前のバケモノドモを殺せと叫ぶ。今すぐ駆け寄って切り刻めと命令する。
右手をつかみ、落ち着くように静かに深呼吸する。
話はまだ続いていた。
「くっくっ……私は何故貴様が蛇に固執するか聞かされていない。が、随分執拗な事だ。
処刑人、真祖の姫も堕ちたものよ」
「どうとでも言いなさい。所詮貴方は外野に過ぎない。ロアとの決着はわたしがつけるの。そして貴方はここで終わりよ」
ますます殺気をたぎらせながら、アルクェイドは言葉を繋げる。
だがそれはまずい兆候のように見えた。ネロよりむしろアルクェイドの方がひきつけられている。
これでは役割逆転だ。
逆転――?
そのとき俺は視界の端で闇の中に何かが蠢くのを捉えた。
そして思い出す。ここにはヤツの方が先にいた事を。罠を張るのには十分すぎるぐらい時間があったことを。
反射的に立ち上がり叫ぶ。
「逃げろアルクェイド!」
アルクェイドははっと足元を見た。
その足に何かが絡みつく。もがくが離れない。その間もそのナニカは石畳から這い出してアルクェイドを覆っていく。
俺はそのまま走り寄る。
「本来の貴様であるならば、人目でこの様な欺瞞は見抜けようものを。
一つ教授してやろう、姫よ。貴様は私が使い魔等を身に纏っていると思っていたようだがそれは甚だしい誤りだ。
私にあるのは動物という因子ただそれだけ。原初の海にも等しき混沌のみよ」
「そんなっ……魂のない存在概念を内包するなんて――!」
ネロの声に呼応するように一斉に黒いナニカが数を増す。
その間も黒いコートの男は高らかに謳い上げている。
「左様。すでにフォアブロ・ロワインなど消え去った。
言ったであろう、此処にあるのはただの混沌のみ、と」
ぞふぞふと、アルクェイドが黒いソレに飲み込まれていく。
最後に、アルクェイドの眼が俺を見た。
だが言葉は紡がれることなく、その形がなくなっていく。黒いナニカに覆われていく。
――俺はこれと同じものを見たことがある。
あの夏の、あの暑い日。
唐突に訪れた破局。
その中で見た最後のアイツ。
言葉はない。動くことのない口元。
だがその眼は俺にしっかりと注がれていた。
妹を頼む、その眼がそう言っていた。
だから――
「ああああああああああああああああああああああ!!」
頭が割れるほど絶叫する。眼鏡はもうない。いつ外したか覚えていない。
佇み、こちらに顔を向けることもない黒い影に駆け寄り、ナイフを振り下ろす。
その背中が膨れ上がった。ホテルの時と同じ様にナニカが飛び出してくる。
――だが、二度も通じない。
俺はそのまま出てきたものを“殺した”。
今頃男がこちらを振り向いた。
もう遅い――
ナイフを振りぬく。
完全に男を切り裂くはずのナイフは、男の有り得ない動きに空を切った。かすかにコートが切り裂かれ、男は数メートル離れて立っている。
「ほう……たかが人間にしては中々の動きだ。成る程、姫が貴様を手元に置いたのはそのためか」
男が何か言っている。だがどうせくだらない事だ。
油断なくナイフを構え、睨みつける。
「だが貴様には何も出来ん。喰われてしまえ」
男がまた何か言い、コートの裾を開いた。犬が駆け出してくる。三匹。
一匹目が飛び掛ってきた。その脇をしっかり二匹が固めている。
軽く跳んで真ん中の頭上を抜ける。その間にもちろん点を突いておいた。
続いてすぐに戻って来た二体だが、一匹目を首で刈り取り、二匹目も眉間の点にナイフを突き立てて“殺した”。
「…………甘かったか。思ったよりはやるようだ」
「甘かった?ああ甘かったとも。こんな犬どもで俺を殺そうとするなんて。
オマエ、何も分かっちゃいないんだな。やってはいけない事を二つもやっちまってるのに、まだ分かっちゃいない。
殺してやるよ、ネロ・カオス」
笑いをこらえる。
頭が熱い。体中が熱い。でもツメタイ。
訳の分からないこの感触は血に飲まれた時に似ている。だが今ははっきりと理性で動いている。
ただそう――理性から外れたところがあるとしたら――
このバケモノが今も在る事を許している俺の忍耐力だろう。
「……消え去れ。そのような傲慢、今すぐに喰い潰してくれる!」
ネロの怒りを含んだ声とともに、コートが大きく開かれる。中から出てきたのはトラぐらいの大きな獣。
それが四肢をうならせてこちらに走ってきている。
声が漏れる。
「くく……はは……ははははは」
分かっていない。やはりコイツは何も分かっていない。
消える?喰われる?こんな獣に?
「あははははははははははははは!」
狂ったように笑い声を上げながら、走ってきたソレの前脚を切り落として胸の点を突いた。
狂わないとやっていけない。
激しい頭痛と、激しい吐き気と、堪え切れない笑気と、死と。
今ソレだけが俺にある。
狂わないと、やっていけるはずもない。
そのあと出てきたライオンやら象やら熊やら、みんなブチ殺してやった。
それでも、まだ足りない。だってアイツを殺していない。
「貴様――!」
瞬時に駆け寄る俺に、慌てたようにネロがその場を飛びのいた。
シャン――
また外した。
「貴様――!何をした!?姫君でさえ滅ぼせぬ私達が消えている。何をした人間!?」
「煩い」
本当にコイツは煩い。頭に響く。
だから、黙らせる。
「よかろう、貴様を我が障害と見なす!」
ネロが叫び、コートを大きくはだける。その中の黒い闇から、いくつものバケモノが這い出してくる。
それは子供の頃見た御伽噺のバケモノドモ。一角の馬や、翼の生えたトカゲたち。
ソレは確かに強いのだろう。だって“死に易い場所”がとても少ない。
頭痛が強くなってくる。血がさらに速度を上げる。ぎゅんぎゅんと駆け巡るソレは俺を別の何かに変えていくよう。だが俺は俺。
「ああ、やっとだ」
感嘆するようにうめいて、そいつらを刻んでいく。
ザクザクとその肌にナイフをつきたて、滑らせ、切り裂き、切り取り、殺していく。
すぐにそいつらも姿を消した。
「馬鹿な。有り得ん」
呆然とうめいている。そんな暇があるのか。
「まさか、まさかこの私が人間如きに渾身でかからねばならんのか――!」
びゅるんと音がして、ネロのコートに黒い何かが吸い込まれていく。
どうやらアルクェイドを捕まえていた力を戻したらしい。
ああ、やっとマトモな殺し合いだ。
ネロは胸を大きくかきむしり、そこに黒い穴が開く。
そこからいびつな、よくわからないバケモノドモが溢れてきた。
身体が熱い。さっきより熱い。そしてツメタイ。
頭の奥からアイツを殺せとパルスがうちっぱなしだ。ずっとずっと痛い位にそれは俺の全身に打ち込まれてくる。
ああ、イタイ。
とてもイタイ。
イタイから、さっさと殺そう。
一刻も早く殺してやろう。
それにはコイツラ、ジャマだ。
出てきたやつらをことごとく殺していく。十を超えたあたりで数えるのはやめた。
「馬鹿な。何故だ」
ふらりと、ネロはたたらを踏む。
「何故私が在る限り混沌となり再生するケモノどもが、貴様には殺されてしまうのだ――!
こんな戯けた事があるか!」
「目の前の事実を認めずにわめくのはみっともないわよ、ネロ・カオス」
絶叫を撒き散らすネロの声に、冷たい声が混じった。
そちらを横目で見る。何事もなかったかのようにアルクェイドが腕を組んで立っていた。
「アルクェイド・ブリュンスタッド――!」
「無事だったか」
俺とヤツの声はほぼ同時だった。アルクェイドは油断なくネロに眼を向けたまま答える。
「ええ、おかげでなんとかね。手伝うわ、志貴」
カツカツと、アルクェイドが近づいてくる。だがあと数歩のところで俺は手を伸ばして彼女を止めた。
「いらない。これはもう、俺とアイツの殺し合いだ」
「……そう、無理しないでね」
アルクェイドはそう言って離れた。理解してくれたらしい、今の俺は――血を全開にしている俺は――アルクェイドすら殺しかねないことを。
ネロはその場を動こうともせず、腕を震わせている。
「無様。なんという無様。この私がたかが人間にここまで――!」
怒りにふるえ、冷静さを欠いたまま、ネロは自らをケモノと化し俺を殺しに駆け抜ける。
俺の首なんか叩き割るぐらいのヤツの腕が、正確に俺を殺しに来る。
だがその動きはケモノすぎて単調だ。予測できる動きは、意味のないものだ。
激しい音を伴って下ろされる腕をくぐり、その延ばした腕の線を断つ。
もう一撃加えようとしたが、それは流石に阻まれた。
そしてネロは狂ったように叫び続ける。
「何故だ!?何故ただの刃で、ただの人間に、切られただけで再生も出来ない!?何故滅ぶ!?」
と、ヤツの顔が一層こわばった。その視線は俺の顔に――いや、俺の眼に注がれている。
「その眼――まさか、だがそれなら全て理解できる。貴様は直死の魔眼を持っていたのか!」
どうやらやっと分かったらしい。
俺は冷酷に言い捨てる。
「そのとおり。やっと理解したか。どうやら道化を演じたか?ネロ・カオス」
挑発のつもりで言った言葉だったか、ネロはそれを存外冷静に受け止めていた。
「その様だ。くくく……予想だにしなかった、直死の魔眼とは……成る程、それならケモノたちも殺せよう。しかし三百匹とはやってくれたものだ……
人間、貴様を我が障害と改めて認識する。さればこそ、この場は退かせてもらうぞ――」
その言葉を言い終えないうちに、ヤツの身体がバラバラになりコウモリの大群となっていく。
「させるかっ!」
俺もアルクェイドも咄嗟に走りこんだがその大半はもう闇高く舞い上がっている。
そしてそれは、黒い闇にまぎれて消えた。
逃げられた。
逃げられた。
初めての経験だった、獲物に逃げられたのは。
なんて、無様。
「志貴、今はこれで十分よ。アイツも随分弱ったみたいね」
と、アルクェイドの声がかかった。
とにかく今夜の戦いは終わったのだ。
そう考えると急速に血が冷めていく。駆け巡っていた速度を落として、ゆっくりと廻り出す。
「ああ……」
うめくように返事して、俺はその場に倒れこんだ。
「志貴っ!?ちょっとどうしたのよ!」
アルクェイドの声が遠く聞こえる。
血を多く使った反作用。それにケモノたちから受けた傷。さらに最後のネロの渾身の一撃はかわしても衝撃でかなりやられていた。
一気に疲労が身体にのしかかる。もう立てそうにない。
「アルクェイド……あと、頼む……」
「ちょっと、しっかりしてよ!しーきー!」
アルクェイドの叫びを聞きながら、俺はゆっくりとまぶたを閉じた。
みーんみーんみーんみーん
煩いぐらいに響く蝉の声。
それに追い立てられるように、僕らはその夏を楽しんでいた。
毎年来る夏。それでももう来ない夏。
その事を小さいながら僕もアイツもわかっていたから、一日一日を精一杯楽しんでいた。
みーんみーんみーんみーんみーんみーん
煩いぐらいの蝉の声。
暑い夏。毎年同じ、暑い夏。
いつもと同じ様に過ぎていくと思っていた年、夏、月、日。
それは何が原因だったんだろう。
アイツがただで血に飲まれるなんてことはない。自分の事、家の事についてアイツはその家の誰より深く理解していた。
だったら何故、ああなったんだろう。
みーんみーんみーんみーんみーんみーんみーんみーん
続く続く蝉の声。いつの間にか耳に染み付いて、鳴いているのかいないのか分からなくなってしまった蝉の声。
突き立てられた腕は、狂いそうなほど痛くて。
正面から見たアイツの顔は、信じられないくらい恐ろしくて。
秋葉の叫びが、やけに遠くて。
その声に元に戻ったアイツの顔は、泣きたくなる位悲しそうで。
最後に見たアイツの瞳は、精一杯の願いで溢れていた。
みーんみーんみーんみーんみーんみーんみーんみーんみーんみーん
あの暑い夏の日の事。
僕が最後にアイツを見た日の事。
“七夜志貴”から“遠野志貴”になろうと決めた日の事。
秋葉を護る事を、固く誓った日の事。
それは遠くて近い、幼い日の幻視――
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