月の光に染まる街 第四幕
〜殺害あるいは契約〜
後編
雨の中を歩いていく。
冬へと歩みを進めていく季節の、その雨は冷たかった。
でもその冷たさが、俺にはいい。
こうやってないと理性を保っていられそうにない。
そう、また人を殺してしまうんじゃないだろうか。
さっきみたいに、初めて見かけた人を、相手の家に押し入って、声もあげさせずに、バラバラにして――
「うぐ……」
吐き気がする。自分のやったことなのに。
そのことが酷く無様で。
なんだか笑ってしまいそうだけど、とても笑えなかった。
ざあざあと、雨は降り続く。
そうしてしばらく歩き続けて顔を上げると、そこは公園だった。
もちろん誰もいない。傘をさして通ろうとする人すらいない。
無人の公園は、暗い暗い雲の下、ただうすぼんやりとそこにあった。
「…………」
ベンチに座り込む。
これからどうしようとか、何をすべきかなんて思いつかない。
でもただ謝りたかった。
先生に。
有彦に。
秋葉に。
翡翠に。
琥珀さんに。
アイツに。
俺を好きでいてくれた人に、その気持ちを裏切ってしまったことを、
ただ謝りたかった。
くらり。
久しぶりの眩暈。
倒れこむ感覚。
世界がマワル。
アア、コノママコワレテシマエ。
モウダレモコロサナイヨウニ――
と、誰かが支えてくれたような感触。
それにいつもそうしてくれたヤツのことを思い出す。
「ありひこか……?」
「…………」
だが答えはない。
俺の意識はそのまま堕ちて行く。暗い暗い闇夜に落ちて行く――
ざあざあ――
静かに響く雨の音が俺の目を覚ました。
むくりと起き上がり、あたりを見回す。
薄暗い部屋。窓から見える景色は灰色一色。
いつのまに帰ってきたんだろう。
疑問は残った。それに何より――
「服が新しい……」
こちらの方が、全然深刻だろう。
まさか。昨日と同じで。琥珀さんが――
「…………!」
俺は飛び起きて部屋を出た。
廊下を走り抜けて階段を飛び降りる。
「しっ志貴さんっ!?」
丁度良くそこにいた琥珀さんの手をつかんだ。
「琥珀さん!俺いつ帰ってきたんですか!?そのときの格好は!?血塗れの学生服どうしたんですか!?」
「えっあのそのなんですか一体?」
琥珀さんは混乱したらしくただ驚いているばかり。
「だから俺の学生服です!血塗れのあれは――」
そこまで言って、帰ってきた答えは俺にとって意外すぎるものだった。
「血塗れってなんのことですか?」
「え……な、なに言ってるんですか琥珀さん!俺がいつ帰ってきたのか知りませんけど俺の服は血で目茶目茶に汚れてたでしょう」
「そんな事はなかったと思いますよ。濡れてはいましたけど、血塗れなんて」
その答えはかえって俺を不安にさせた。
まず――アレが夢なはずはない。俺は確実にあの女性を殺した。
だとしたら、俺の服を誰が片付けた?それ以前に――
「琥珀さん、俺どうやって帰ってきたの?」
すると琥珀さんはまたも困惑した風で、
「ええっと……志貴さん、お疲れなんじゃないですか?志貴さんはちゃんとご自分で帰ってこられて、そのまま疲れているからとお部屋に戻られたんですよ?」
俺にそんな記憶はない。俺の記憶が残っているのは公園で――
「あ……」
そうだ、あの時誰かが支えてくれた。あの時はまだ真っ赤な服を着ていたはずだ。
あの人は誰なのか。あの人が服を洗ったというのなら、何故そんな事をしたのか。さらに俺は自分で帰ってきた時のことを覚えていないのか。
「志貴さん、よろしかったらお食事でもどうですか?何も食べられていない様子ですし」
「あ、はい……」
確かに腹は減った。今からの自分の身の割り振りを考えるにしても、とりあえず食事をとって冷静さを取り戻しておきたかった。
これ以上、俺みたいな殺人鬼がここにいるのはおこがましいかもしれないけれど。
秋葉との、まあ押しなべて平和な夕食を終えて部屋に帰ってきた。
今夜ここを出て行こう。
そのためにまとめる荷物は少ない。
監視カメラがあるのは知っている。その目を荷物なしならかわせる事も。
財布と、預金通帳。それに七つ夜とお気に入りのナイフを四本。
とりあえずはこれだけでいい。残した物に未練は無いとは言い切れないけど、置いていくしかないだろう。
と、視界の端に荷物を詰めていたトランクが入る。そう言えばこのトランクは街を歩いているとき偶然に見かけて、先生の持っていたヤツに似ていたからつい買ってしまったものだ。
いま思えば、なんて幼稚。そんなことでは先生に近づけないのは分かっているのに。
否、先生に近づくこと自体、あの人から遠ざかっているのかもしれない。
……ああ、やめよう。そんな事より。
俺は少ない荷物をできるだけ動きが阻まれないようにまとめる。
何しろ秋葉達に気付かれてはまずい。
時間は深夜がいいだろう。秋葉達には悪いけど、もしかしたら俺はみんなを殺してしまうかもしれない。
眼を閉じた後の暗闇に映るのは、
両腕を切断され、床に倒れた翡翠。
胸を切られ、さらに下半身を解体された琥珀さん。
長い髪を床に広げて、転がっていく秋葉の首。
それはとても――恐ろしく、真実味のある、幻視だった。
そんな事を起こすわけにはいかない。アイツとの約束は破ってしまうけど、殺してしまうよりは断然いい。
だから俺はここから逃げ出す。
情けない話だけど、それしか俺には出来そうに無い――
そう言えば、最後にやることがあった。
トランクの蓋の裏の、白いリボン。
これを返しておかないと。
西館一階の琥珀さんの部屋を訪れた俺は、ゆっくりとドアをノックした。
「はいー」
琥珀さんの明るい声が返事する。
ゆっくりとドアが開いた。
「琥珀さん」
部屋でも割烹着でいた琥珀さんに微笑む。
「なんですか?志貴さん」
短くていい。それでも十分だ。
「八年前、それに八年間、本当にありがとう。それじゃあおやすみ」
「え……」
琥珀さんにリボンを手渡し、俺は扉を閉めようとして、
「覚えていて、くれたんですか?気付いていたんですか?」
「…………」
振り向くつもりなんて無かった。
でもその声は、いつもの琥珀さんとはかけ離れていたから、思わず振り向いてしまっていた。
そこには、何か、欠けてしまった様な、少女が、立っていた。
「覚えてたよ。結構記憶力、いいほうなんだ」
昔はそれを呪ったことさえあるけれど。
「気付いていたってのは、翡翠と入れ替わるみたいになってたこと?」
「はい」
どこか壊れたまま、琥珀さんは返事した。
「昔呼んでいた名前覚えていたから。それに、なんとなく……かな」
「それだけで、わかっちゃったんですか?敵わないなぁ志貴さんには」
そう言って、見かけだけはいつものように琥珀さんは笑った。
……これ以上、彼女を見ていたくない。
「約束、ちゃんと守ったよ。それじゃあね、琥珀さん。おやすみ」
「はい、受け取りました。お休みなさい、志貴さん」
バタンと閉まる扉。
これで俺にすることはなくなったな……
小さくため息をついて、俺は部屋に戻ることにした。
深夜の二時。もうそろそろいい頃だ。
窓を開き、桟に足をかける。
足に力を込め――
「何処へ行くんですか兄さん!」
秋葉の声が唐突にかかった。
気付かれちゃったか……
後ろを振り向くと、今にも泣き出しそうな秋葉。
ああ、どうしろっていうんだ。怒っているのならまだしも、泣いている秋葉を置いていくなんて。
でも――
「すまない秋葉。俺はオマエの近くにいちゃいけない。俺は……オマエを守ってやれない。ダメな兄さんだったな。
じゃあ、な……」
でも、行かなくては。
俺はここにはいられないのだから。
だから――
「いたぁぁぁぁぁぁぁ!!」
突然夜の帳を切り裂いた声に、そちらの方を向いた。
「へ?」
ごぎゃり
そんな音が、聞こえた気がした。
確認の仕様は無い。自分の額に誰かのひざが思い切りめり込んでいるんだから。
誰だこんなバカな真似するなんて――
不条理に意識は落下していく。その中で秋葉の叫びと、どこかで聞いたことがある気がする声が響いていた。
頬を切る夜風が心地よい。
びゃうびゃうと突き抜けていく風音。
速く、高く跳んでいると空と一つになるようで気持ちがいい。
……あれ、俺気絶してなかったっけ?
急に意識が冷めてそれを見下ろしていた。
家が、道路がどんどん通り抜けていく。それをまともに俺は見下ろしていた。
「のあああああああっ!?」
「あ、起きた起きた」
と、意識が落ちる前に聞いた声が降ってきた。
……まて、この声。
恐る恐る上を見上げる。
「まったく、痛かったんだからねー」
そう言って俺を見下ろすその女は、間違いなく俺が切り刻んだあの女だった。
「お、お前!?」
「詳しい話は……そうね、そこでいいかな」
と、彼女は俺を抱えたままで屋根の上から飛び降りた。
そこは暗い路地裏。
間違いなく殺されるなぁ、俺。でも仕方ないし……先にやったのは俺だから。
「ここなら静かに話せるわね。それじゃまず聞きたいんだけど……」
女は俺を下ろして、顔を覗き込むようにしてきた。
「なんでわたしを殺したの?」
普通されるだろう質問だ。でも、それはされることは無い。殺された本人からなんて、されるはずが無い。
俺は小さく息を吐いた。
「……わからないんだ。君を見た瞬間――殺したくなった。自分でもわからない。本当にごめん、謝ってすむようなことじゃないと思うけど」
と、いまさらながらに気がついた。
「君……なんで生きてるんだ?」
「わたしが吸血鬼だから」
端的過ぎる答え。でもそれは十分すぎた。
「吸血鬼か……本物と会った事は無かったなぁ……」
それが素直な感慨だ。話ならいろいろ聞いている。
だが、俺の反応は彼女には極めて意外だったらしい。
「驚かないの?」
「まあ、ね」
曖昧に答えておいて、俺はもう一度頭を下げた。
「生き返ったとか、そういう事は問題じゃない。俺は君を殺してしまった。罪は償うよ」
かといって、どうやって償うんだろう。殺した相手が生き返ってるんだもんなぁ。
俺のささやかな疑問の間に、彼女はにっこりと微笑んだ。
「反省してくれてるんだ」
「当たり前だよ……斬られた時の、痛みは知ってる。死にそうな痛みも、覚えてる。
痛さで気が狂いそうなのに、痛さが現実に引き戻す。これをひたすら繰り返されて、自分ってのが磨り減っていく。夢じゃないのかとか、そういう幻想すら許してくれない。
……ああ、本当……ごめんな。あんなに痛い目にあわせちゃって」
俺の様子に、彼女は目を丸くしてこちらを見ている。
「どうかしたか?」
「うん……なんか、すごいなって。わたしが感じたのとほとんど一緒。わたしたち似てるのかな?」
「でも君は殺人狂じゃないだろ?」
自嘲的に言ってため息をつく。
何を言っているんだろう?
だが彼女の反応は、俺の心境とはかけ離れた代物だった。
「貴方、わたし以外誰か殺したことある?」
「ないよ。君が初めてだった。しかも理由もわからない。
本当、俺は殺人鬼だな」
「じゃないわよ。わたしが初めてなんでしょ?じゃあ違うわ、うん」
にこにこと、よく分からないことを彼女は言った。
「なんで断言できるんだ?」
「だって貴方、いい人だもの。吸血鬼に素直に謝れるなんて、きっと世界中探したって貴方しかいないわ。
うん、やっぱり貴方に決めた」
何か……ものすごく不穏なことに巻き込まれた気がする。
俺は恐る恐るたずねた。
「何を……?」
「吸血鬼退治。わたしはそのためにこの街にきたの」
吸血鬼退治。吸血鬼のコイツが?
今街に吸血鬼がいるというのはまあ納得できる。最近の殺人事件――あれはその吸血鬼の仕業だろう。
だがなんでコイツが?
「吸血鬼のわたしが、なんで吸血鬼を狩るのか不思議って顔ね。
いろいろ事情があるんだけどね、かいつまんで言うとその吸血鬼にわたしの力を奪われちゃったの。それで取り戻そうと追いかけてたんだけど。
この街にいるのは確かなんだけど、見つける前に貴方に完璧に殺されちゃったじゃない。おかげでこっちの方が弱っちゃって……」
その時点で大体わかった。つまり――
「それで俺に手助けして欲しいわけか」
「そうなの。お願いできる?」
冷静に考えたら正直、どうかしている。
訳もなく人を殺したくなって、その相手が吸血鬼で、生き返って俺に吸血鬼退治の手伝いを頼んでいる。
これとおんなじことを体験したやつがいたら会いたいぐらいだ。
普通は断るものだろう。
相手は吸血鬼。人ではとても敵うはずのない相手。
普通なら、退くだろう。
――普通なら。
「OK、手伝おう」
「……ええぇ!?」
なんだよ、人がせっかく手伝うって言ったのに。
「なにか不満があるのか?」
「だってわたし吸血鬼よ?吸血鬼に吸血鬼退治手伝ってって言われて普通手伝う!?」
「普通じゃなきゃ手伝うんだろ?じゃあいいじゃないか」
俺の言葉に納得したのか、彼女はにこっと笑って頷いた。
「そうだね、わたしを殺した責任ちゃんととってもらうからね」
そんな輝くみたいな笑顔で、そういうセリフを言わないで欲しい。
「そう言えば名前聞いてなかったな。俺は遠野志貴。君は?」
「アルクェイド。本当はもっと長いんだけど、それでいいわ。じゃ、よろしくね志貴」
吸血鬼とは思えないほど、明るい笑み。まあ吸血鬼だったら暗いってのは偏見だろうけど。
苦笑いしながら不意に視線を路地裏の入り口に向ける。
なんとなく。なんとなくだったんだが。
そこには黒い犬が二匹いた。
禍々しいほど黒く、獲物を狩るだけのフォルム。
存在するだけで周りを威圧するそれは、低くうなり声を上げながら紅く濁った眼をこちらに向けていた。
ゆっくりとアルクェイドに顔を向ける。
「……アレは?」
「……まずったなぁ。こんなところで見つかるなんて」
と、彼女は鋭い視線を犬に向けた。
明らかに、敵意をもっている。
不意に、犬が身体を屈めた。
直後、跳ぶような速さで駆け出してくる。
俺に一匹、アルクェイドに一匹。
彼女が自分が言うように吸血鬼なら、俺の助力なんて必要ないだろう。
俺は自分のに集中する事にした。
ばちん。七つ夜を握り、だらりと手を横にたらす。
眼鏡を外し、直死する。
ほぼ同時に俺に向かって跳躍した犬。
その速さはまるで稲妻。黒い閃光。
――だが。
視界の端でアルクェイドが犬を切り裂いて、こちらを振り向いたのが見えた。
なんでだろう、すごく優しく笑ってしまった。このまえ殺してしまった相手に。
――遅い。あまりにも緩慢過ぎる。
犬が俺に飛び掛ってきたその瞬間、軸をずらし横から相手の線をなぞった。
びしゃり。
背後で明らかに水音がした。
振り返るとそこに犬の形はなく、何か黒いカタマリがあった。
眼鏡をかけ直して彼女に向き直る。
どうやらどちらにも聞くことと話すことがあるようだ。
どうしようもなく厄介ごとに巻き込まれたということを再認しながら、俺は口を開いた。
「どこか静かに話せるところ無い?」
そうして俺達は今ホテルのとある一室にいる。
自分の名誉のために言っておくと、そういうホテルではなく、れっきとした高級ホテルだ。
……そのホテルの最上階を全部貸切にする意味があるのか知らないが。
「で、俺としてはあの犬がなんなのか知りたいんだけど」
部屋に電気の明かりはない。ただかすかに開かれたカーテンから漏れる月明かりだけ。
ベッドにねっころがって今にも眠ってしまいそうなアルクェイドにあきれながら疑問を投げる。
「あれは使い魔。吸血鬼の手下ね……ちょっとおかしかったけど、大筋間違っていないわ」
「使い魔か?使い魔があんな水みたいになるか?」
「そう、それがおかしいのよね……でも良くわからないのよ。混沌があんなところにあるはずないし……」
それより、とアルクェイドは俺に指を突きつけた。
「貴方の眼、一体なんなの?さっき見てたけど、ナイフには概念武装なんて感じなかった。
でも貴方はあっさりあれを解体していたわ。肉も骨もまったく抵抗なくね。
――眼鏡を外した貴方の眼、蒼い綺麗な色をしてた。それが原因じゃない?」
あっさり見破られていたようだ。流石は吸血鬼というべきか。
「ああ、そのとおり。俺の眼はいかれているのさ。
――見たいか?」
「見たい」
しっかりとしたその返事に、俺は決心した。
眼鏡に手をやり、外す。
途端、視界を黒い線とあのときの点が支配した。俺の頭痛をあざ笑うみたいに、その手を伸ばし、あたりに穴を穿つ。
と、
「お前、なんで――?」
近寄ってくるアルクェイド。その身体にはほんの少ししか線がない。今までにこんなの、見た事なかった。
慌てる俺をアルクェイドは両手で抑えた。
「動かないで」
彼女の冷たい手が、俺の頬にかかる。しっかりと固定され、アルクェイドを正面から見つめる事になる。
その、あまりの美しさに、
ゾクリときた。
月明かりが彼女の横顔を照らす。玲瓏とした美貌。ありえないほどの美しさ。
絶対の存在として、それは俺を見つめていた。
「……志貴、貴方これ」
アルクェイドの静かに、けれども叫ぶような声に、俺は答える。
「ああ、直死の魔眼なんて呼ばれてる。欲しくもなかった、いかれた眼だよ」
「それで、か……これなら確かにわたしも殺せる。それどころか、在るのならなんでも殺せる。
本当に在ったのね、こんな桁外れの能力」
「そうらしいな。今は線だけじゃなくて点まで見えるよ」
「死にやすい所にその死か……本当に大変な眼を持ったものね」
どうしても話だけどんどん進めてしまう。
……だって、仕方ないじゃないか。こんな近くにこんな美人の顔があるんだから、照れたって仕方ない。。
「直死の魔眼って結局どういう原理なんだ?」
「貴方はモノの終わりを見ているの。
線としてモノの壊れやすいところを。点としてモノの死を。
普通ならモノを斬る事でそれを殺すでしょう?貴方はそれを逆転できる。貴方は直接死を引き出して、ついでに相手を斬る事が出来る。
どんな物理防御も貴方には効かない。貴方はどんなモノでもその眼で殺せるのよ」
淡々と、アルクェイドは語る。
先生にある程度は聞いていた。自分で調べてみたりもした。
だがそれ以上の事を、その核心をアルクェイドは教えてくれた。
――俺の眼は死神の様な眼なのだと言う事を。
「綺麗だね、志貴の眼。わたし、この眼に殺されたのに、ぜんぜん怖くない」
と、さっきとはまったくうって変わって、どこかうっとりとしたように彼女は言う。
「……俺がお前を殺したのに?」
つまらない事を俺は言っている。
「そうだね、今もまた殺されるかもしれないのに」
それなのに、彼女は心底楽しそうに笑っている。
ああ、まずい。頭痛が酷くなってきた。
「すまんアルクェイド、眼鏡かけるぞ」
「えー、もっとみたい」
「悪いけどすごく頭痛くなるんだよ、この線見てると」
「そうなんだ……本来見えないはずのモノを見ているから、眼に負担がかかるのかな。
うん、もういいよ。ありがと」
ようやくアルクェイドの手が俺から離れた。
眼鏡をかけて、息をつく。
まだ心臓がバクバクいってる。それを無くそうと、俺は話の続きをする事にした。
「で……使い魔ってことは相手には」
「気付かれたわ。でもここまではちゃんと振り切っておいたから大丈夫だと思うけど――」
「油断は出来ないって訳か……」
ため息が出そうな状況だ。
……そういえば。
「お前、なんでそんなに――線が少ないんだ?」
さっき見た彼女の線と点。あれはほとんどなかった。
少なくともそれは十本もない。
「ああこれ?今が夜だからなの。本当はまったく見えないんだろうけどねー」
ああ、だからそういう眼を向けないでくれ俺が悪かったから。
眼がコワイので、話をさっさと変えることにする。
話題を探そうとして、窓の外に何気なく目をやって――
「アルクェイド」
「……どうしたの志貴?」
「逃げるぞ」
言うなり俺はドアまで走ってノブをつかんだ。
アルクェイドは――凶った瞳で窓を睨んでいる。身動きもせずに、その向こうにいる蒼い鴉を睨んでいる。
俺は逃げるのが無駄なのだと悟った。
「随分早かったわね。ちゃんと振り切ったと思ったけど」
冷たく、鋭い声でアルクェイドは言葉を投げかけた。
「我ガ眼ガ一ツトハ限ルマイ。今征クゾ、真祖ノ姫ヨ」
ばさり
飛び去った鴉に忌々しげな視線を送ってから、アルクェイドは俺に向き直った。
「ごめんなさい志貴」
「謝らないでいい。それより下の人達は――」
大丈夫なのか、という言葉は口から出ることはなかった。
ごん、なんて音がして、馬鹿らしい位あっさり部屋が激しくゆれた。
……おそらくホテル全体が揺らされたんだろう。吸血鬼が何をやったかは知らないけれど。
「アルクェイド。下に行って来る」
「危険すぎるわ」
アルクェイドは悔しそうに首を横に振った。
よく見ればその口の端から赤い筋が一つ。音もなく白い肌を流れていく。
「だが、放っては置けないな」
俺は返事を聞かずにドアから廊下に出た。
外でもあれからなんの音も聞こえない。
死んだような静寂。
そう表現すべきそれを、俺は知っていた。
静かにもなる。動く物がまったくないのだから。
「この短時間でこれだけか。どれだけ人がいたか知らないが――黙ってこのまま帰れると思うなよ」
人を殺すのには覚悟が必要だ。
その人には家族がいるし、その血に連なる何人もの人がいる。
それ全てを殺すだけの覚悟。これがない限り人を殺すな。
俺はそう聞かされてきた。そしてそれを当然だと思ってきた。
だがこれはなんだ?
何十人もの人が、吸血鬼一人のせいで、数分もしない内に殺された。
許せない。何十人もの人を、覚悟もなしに殺せるその存在が。
「…………」
眼鏡に行きかけた手を止める。
これを使える時間は少ない。頭痛は集中の妨げになる。
俺は静かにそのままエレベータに向けて歩く。
長い廊下だ。幅は三メートルほど。闘うのには少々狭い場所だ。
もっと広い場所を探さないと。ロビーあたりがいいんだが。
ふと視界にチカチカ光るものが映った。
エレベータの階数表示。それがだんだんとあがってくる。
そして十階――この階で止まった。
――死臭が、した。
エレベータの扉が開く。
同時にゴロリと何かが転がりだした。
それはころころと転がって、壁にぶつかり動きを止めた。
こちらに向けた虚ろな瞳が、ガラスの様だった。
恐怖に歪んだ顔が、血で染まっていた。
抉り取られた傷跡から、白く細いナニカと赤黒いナニカがはみ出していた。
乱れた髪が、顔に張り付いていた。
その死体は、何より人形のようで現実感がなかった。
それが転がってきた方に視線を向ける。
鉄に囲まれた箱の中、赤い肉が弾けた石榴の様に散らかっている。
いくつも重なった人の死骸。それに群がっている黒い犬。
そこにあったのは、獣に荒らされた家族の残骸。
何事もなく、これからも平和に続くはずだった家族の末路。
それが一瞬で壊された。なんの前触れも、責任も、必要もないのにそれは壊された。
おそらく、彼らと同じ最期に至った人達が何人もいただろう。何十人もいただろう。
生き残った人も、報せを聞いた人も、どうしようもなく悲しむだろう。
それなのにこいつらは、何も知らずに、何も考えずにその人達を貪っている。
一階から九階まで、この巨大な匣の中のいたる所で同じような食事が行われている。
許せなかった。
許せるわけがなかった。
ばちん
ナイフを抜く。犬がこちらに気付いた。口から赤い肉が零れる。
すぐさまこちらに駆け出してくる。
だが、眼鏡を外す事とあれだけの距離を走る事。どちらが早いかなんて明白。
――アルクェイドはこの点を死そのものと言った。
俺の眼を死神だと教えた。
それなら死神として、こいつらに死を教えてやる……!
迷わず俺は飛び掛ってきた犬の点を突いた。間髪入れずに飛び掛ってきた二匹目も同じ。
どさりと落ちる黒犬。
死体に用はない。これの元凶を“停めて”やる。
と、再びエレベータが動き出した。と言ってももう一つの方だ。
ぞわりと寒気が極大化されて背中に入り込む。
キンコーンと、場に合わない音でエレベータは停止した。
その扉の奥から現れたのは、遠野の屋敷の外で見た、あの男だった。
黒いコートの筋肉質の男。
間違いなかった。あの時あった男。そしておそらく、吸血鬼。
頭の理性的なところでは、何があっても退けと言っている。でも俺は、退かない。
あの時殺しておけばよかった。それならこの事件は起きなかった。
寒気は止まない。だが身体は熱い。血液が沸騰しているようにぎゃんぎゃんと身体を駆ける。
悔やんでも仕方がない。俺に出来るのはこの男を殺すことぐらいだ。
男は無感動に周囲を見やった。
冷たい言葉が、男の口から滑り出した。
「屑が。与えられた肉すら噛み砕けぬとは」
その言葉が、俺の脳髄に突き刺さった。
人道とか、そういうものをいまさら語るつもりはない。
ただ俺が許せないのは、やっぱりコイツはコレを殺人だと認識していないと言う事。
対等の立場で殺しあうのではなく、ただ一方的に何もかも奪い去る。
その行為は、俺にとって禁忌そのものだ。
「お前――!」
血が常軌を逸した速度まで駆け上る。
迂闊には飛び込めない。こいつは確実に殺すんだ。こっちが死んでしまったんじゃ話にならない。
距離をとってナイフを構える。
だが相手は俺を見もしない。その視線は奥に固定されている。
「ずいぶん派手に暴れてくれたじゃない……ネロ・カオス。
“混沌”ともあろうあなたがこんなくだらない事に参加するなんて。オーテンロッゼに弱みでも握られたの?そうじゃなきゃ夢だと思いたいわ」
あの凶った瞳でアルクェイドは男を睨む。
だが男はそれを悠然と受け止めていた。
「その様な事は無いが、この無謀な祭りの執行者に仕立て上げられたのは事実。
しかし解せぬ。その傷、如何様にしてつけられた……だが、私にとってはまたとない好機。
その首、確かに貰い受けるぞ、真祖の姫君よ」
ぼそりと呟いて、男は踵を返した。そのままエレベータに乗り込もうとする。
ああ言っておいてなんで退くのか分からない。分からないけど。
「…………」
無言のまま、俺はその背を追った。
ヤツの点は、おかしいぐらいたくさんあった。
それがなぜか分からない。だがそれならそれ全て突けばいい。
ヤツは俺を敵と見ていない。暗殺者にとってこれほど最上の場はない。
ここで殺してやる。死ぬ痛みを教えてやる。
音を立てないまま、滑る様にように走り込む。
アイツの背中はもう少し。あと少しで殺せる。
「志貴っ!」
アルクェイドの叫びが聞こえて、後ろの床に放り投げられた。
「なっ……!?」
文句を言おうとして目に入ったのは、コートの背中から突き出たワニに腹を喰らい付かれたアルクェイド――
彼女は完全に喰い付かれる前に下がった。
白いセーターから、紅色が染み出す。
俺は慌ててアルクェイドに駆け寄った。
「姫君よ、何故人間等を庇う?貴様には必要無き事であろう」
「こっちにも事情があるのよ」
苦しそうな声で、はっきりとアルクェイドは言った。
男は既にエレベータに乗り込んでいる。
「不理解だ。だが貴様が弱るのは僥倖」
待て、なんて言えない。アルクェイドが怪我をしたのは俺の責任だ。
ぷしゅ、と閉まる扉。俺はそれを歯を食いしばって睨んだ。
「アルクェイド、どうして」
にこりと、力ない笑みを浮かべて彼女。
「どうしてかな?自分でもよく分からないよ。でも志貴が怪我しなくてよかった」
その笑みは無邪気すぎて、俺には苦しかった。
だって、俺が護るはずなのに逆に護られて怪我までさせてしまった。
「部屋まで送ってくれる?ちょっと力使いすぎちゃったから眠くて……」
「おやすい御用だ」
彼女を背負い、ホテルを出る。
ホテル内は荒らされてこそいたけど死体とかはまったくなかった。
ホテルを出ると、かすかに白み始めた空。
だから、あの男は退いたのか。
早朝ということもあって、街にはだれもいない。
誰もいない、反転したような街をアルクェイドを背負って進み続ける。
「志貴」
唐突に、アルクェイドの声がした。
「どうした?まだ寝てなかったのか?」
「うん、お礼が言いたくて」
「言うのは俺の方だ。謝るのも、礼を言うのも俺の方だよ」
「それでも――ありがとう」
ことりと、アルクェイドの頭が背中にあたる感触。どうやら本当に寝てしまったらしい。
夜はまだ明けたばかりで、朝日は細く、白く輝いていた。
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