月の光に染まる街 第四幕
〜殺害あるいは契約〜
前編
――ああ、なんて夢。
――こんなに悪いのはあの時以来だ。
――俺が弓塚の血を吸うなんて。
…………ユメ?
徐々に意識が浮かびあがる。
ああ、朝か……
自覚しながら、ゆっくりとまぶたを開く。
正直言って、俺は朝が弱かった。こればっかりはどうにかなるものではないので諦めているが。
「おはようございます、志貴さま」
唐突に声が掛かる。
翡翠の声。なんだ、何も変わってないじゃないか。
ああ、本当に昔のまま――
…………
……目が覚めた。
ゆっくりと身体を起こし、眼鏡をつける。
それからベッドから少しはなれたところに直立している翡翠を確認した。
「おはよう、翡翠」
声をかけながら、先に眼鏡をつけた事に安堵した。正直、翡翠の死なんて見たいものではない。
「わざわざ起こしてくれてありがとう」
「勿体無いお言葉です。志貴さまをお起こしするのも私の仕事ですから」
淡々と表情なく翡翠は告げる。
――少し、悲しくなった。
「……仕方ない物かな」
「何か仰られましたか?」
「ああ、いやなんでもない」
慌てて飛び起きて気がついた。
「服……」
たしか昨日は学生服のまま――
――ズキン
「う゛……」
「志貴さま?」
「なんでもない、大丈夫だよ」
ゆるゆると頭を振る。不意に思い出してしまった。昨日のあのバケモノのことを。
だがそれは置いておいて。
「翡翠、俺昨日学生服のまま寝てなかった?」
「はい、見回りに来た姉さんがその様に言っておりました」
イヤな予感がする。
なにかトンデモナイ事をして――いや、されてしまった様な気がする。
引き攣った口元を隠そうともせず、俺は翡翠に聞き重ねた。
「もしかして――琥珀さんが、制服を?」
述語が抜けているが、伝わるとは思う。翡翠は――伝わったらしくしっかりと反応を見せた。
ああもう、これ以上ないってくらいはっきりと頷いてくれた。
「姉さんが、あのままではお体に悪いので、志貴さまを着替えさせたあと、ベッドに寝かし付けたと聞いております」
「……ああ、うんそうだね……琥珀さんにお礼言わなくちゃ」
悪いのは制服で、しかも汗まみれで、よりにもよって倒れこむみたいにベッドに乗っかっていた自分なのであって、琥珀さんは一ミクロンも悪くない。
だが、気まずいってのはどうしようもなかった。
「あっと……でもこれからはそんなことまでしなくていいから。頼り切ってたら駄目になっちゃうしね」
洗濯とか食事の準備とかやってもらっておいてそんな事を言うのもなんだが。
とりあえず納得してくれたらしく翡翠ははい、と小さく頷いて、
「着替えはそちらに用意しております。では失礼します」
そう言ってぱたりとドアを閉めていってしまった。
「はぁ……」
なんというか、また酷く無様な事をしてしまった。
綺麗にアイロンまでかけられた制服を手にとって――
机の上に、ナイフが三本並んでいるのに気がついた。
「…………」
ああ、なんて事。
なんて、無様。
琥珀さんに見られた――
裸なんてどうでもいい。そんなものよりこれを見られたのは決定的にまずいかもしれない。
並んだ三本のナイフ。
どれも見れば分かる、十分に研いであり、錆なんて一つもない。
しかも柄のところは使い込んでいくらか擦り切れたところもある。
――結果、どう見たってこれは使い込んだ、しかもやたら手入れをしてある、まるで普段からナイフを使う刃物好きが持っているナイフにしかみえない。
その結論に、俺は頭を抱えた。
完全に、俺だよ。
あのあと黒い方のトランクを適当に、見つからない場所――部屋の隅の天井裏――に隠してから俺は一階に向かった。
三本ならまだしも、トランク一杯の刃物を見られたんじゃあ流石に社会的な立場とかも危うい。
居間では琥珀さんと秋葉が紅茶を飲みながら話している。
「二人ともおはよう」
「おはようございます、志貴さん」
明るい笑顔ですぐに答えてくれた琥珀さん。
志貴さんって呼んでくれてるってことは、翡翠ちゃんと昨日のこと伝えてくれたんだ。
対照的に秋葉は俺に冷たい視線を投げかけた。
「ずいぶんお疲れのようですね兄さん。休息がそんなに必要だったのですか?」
「あ、いやそんなわけでも――」
俺が困り顔で否定しようとしたところ、琥珀さんが割って入った。
「そうみたいですよ。志貴さん、昨夜は汗だくでベッドに倒れこんでらしたんです」
「琥珀さんそれは――」
それも否定しようとして、今度は秋葉の大声が俺をさえぎることとなった。
「なんですって!?兄さん、それは本当ですか!」
「ああ、まあちょっと……」
曖昧に言葉を濁す。
当たり前だ。
ちょっと犬の声が煩かったから外に枝を跳んで出てみたら、バケモノがいておかげで気分が悪くなった――
なんて、だれが言える。
「琥珀っ!貴方は何か知っているの!?」
秋葉のその鋭い視線は次に琥珀さんに移った。
「おい、秋葉。琥珀さんは関係ないぞ。とりあえず落ち着け」
「あ――ごめんなさい。つい焦ってしまって……」
と、急にしおらしくなる秋葉。
しかし一瞬後にはもうその表情は元に戻っていた。
「それで兄さん、どういう事ですか」
疑問形だが、字に直したらおそらく疑問符は付いてないと思う。
――拒否不可。
だが俺はあっさりと答えた。
「疲れていたんだ」
「兄さん、そんなウソで」
「疲れていたんだ。俺が言っているんだから間違いない」
言い切って、俺は席を立った。
「時間がちょっとやばくなってきた。朝食をとってくるから、それじゃあな」
半ば呆然としている二人を置いて居間を出た。
それから琥珀さんの用意してくれた朝食を食べ、ロビーに出ると翡翠が鞄を持ってまってくれていた。
「ありがとう。翡翠」
照れくさく思いながら鞄を受け取る。
そのとき、階上から琥珀さんの声が降りかかった。
「志貴さーん!ちょっとまってください!」
ぱたぱたと階段を駆け下りる琥珀さん。
その手には木造の――桐だろう――箱が一つ。
「これが昨日有間の家の方から届けられたんですよ。なんでも志貴さんのお父様の遺品だそうですが」
「親父の――?」
何かの間違いじゃないか、と言いかけてふと思い当たることが一つ。
親父の形見、まさか。
「…………」
俺は無言で琥珀さんからそれを受け取って、蓋を開いた。
そこにあったのは白い布に包まれた、一見鉄の棒にしか見えないもの。
「……ああ」
うめいた。
まさか、なくなっていたと思っていたのに。
こんなところで。
「志貴さま?」
「志貴さん?」
同じタイミングで、同じ声を聞いた。
俺はそれを無視して握り締める。
パチン――
軽い音がして、柄から十センチほどの澄んだ刃が飛び出した。
間違いなかった。
「七つ夜、こんなところに……」
二人がいることも忘れて、俺は深々と嘆息した。
話には聞いていたが、なんて綺麗。
刃文はのたれがかった小乱。蒼く照り返す地鉄。切先は火焔。
並みの刀工ではない。
実際俺はいくつも刀を見てきたけれど、こんな綺麗な刃は初めて。
ああ、本当。なんて――
「志貴さま!」
「あ、ああごめん翡翠。つい見入っちゃって」
「もう、志貴さん学校は大丈夫なんですか?」
「あ!?」
俺は叫んで時計を見て――
「ああああっ!それじゃいってきます!」
あわただしく玄関を飛び出した。
走りながら、おきた時には顔にも出さなかったあの事を、俺は考え出していた。
つまり――弓塚を“殺した”夢。
しかもそのやり方は、吸血。
「はぁ……」
朝っぱらから、嫌な夢だ。
しかも――それが本当にあったかもしれないだけにタチが悪い。
俺に出来るのはそうでない事を願うだけだ。
でも、もしそうだったら――?
続きは考えないことにした。
いつもどおりギリギリで教室に駆け込む。
あたりを見回したが、いつも見るあの姿がない。
――まさか。
丁度よく近くにいた有彦を捕まえる。
「有彦!」
「なんだ遠野?そんな慌てた――」
「弓塚さんは来てないのか?」
有彦の言葉を半ばでとどめて、俺は先を聞いた。
「ああ、なんか休みみたいだな。いつもならもう来てるからな。
それよりどうした遠野。いきなり弓塚の事を聞くとは……」
くだらない冗談を言おうとしたのだろうが、俺がその先を許さなかった。
「……なんかあったのか」
途端に剣先のような声になる。コイツの特徴はこの切り替えと判断の早さだな。
俺はその声に首を横に振った。
「いや、確かなことじゃないからな。まだいい」
「分かった。なんかあったら言え。情報ぐらいは集めといてやる」
「……すまん」
「気にするな。クラスメイトの事だからな」
そう言って有彦は軽く手を上げていってしまった。
よく見ればガラガラと扉を開けて一限目の先生が来ていた。
抜け出すタイミングを外してしまった。
それならそれで、よく考えてみよう。あちこち動き回っても効率的じゃないし、それに――
――もし彼女がなっているのなら、隠れている場所も大体見当がつくだろう――
五限目の古典の時間。
そろそろ抜け出す頃合だ。
というわけでいつもどおりの貧血の演技を。
「せんせー、遠野保健室連れてってきますー。でもたぶんこれは早退させた方がいいんじゃないすか?」
有彦もそろそろだと読んでいたらしく、倒れる――というフリをしている――俺の背中を支えてくれた。
「ん、乾がそういうならそうなんだろ。遠野、大丈夫か?」
「えっとまあ……たぶん」
曖昧に言葉を濁しておく。そうして俺は学校を出ることに成功した。
「有彦、助かった」
「かまわねーよ。それより頼むぞ」
「わかった」
短く言葉を交わして、俺は街に向かった。まだ、日は高い。
街のあちこちを歩き回る。重点的に探すのは薄暗い場所。
本当なら昨日夢に見た路地裏の近くを探すのだが、その路地裏がどこなのか分からないので結局歩き回る羽目になった。
一時間ほど歩き回っただろうか、そろそろ一休みしようと俺は近くのガードレールに腰掛けた。
近くの自動販売機で買ったコーヒーを喉の流し込む。
とりあえず彼女を見つけることは出来なかった。それがいいのか悪いのか分からないけれど。
大通りをぼんやりと眺める。
歩くことしか知らないように、人々が流れていく。
それぞれは違うのに、向かう方向は一緒。
それはまるで、人は根っこで繋がっているという、どこかの精神学者の言葉のようだ。
個性という表面と、行動という根底と。
表面を取り去ればみんな一緒になってしまう。
「さて、バカなこと考えてないでもう一度行くか」
いい加減休むのも終わりだ。そう思って俺は腰を上げて、再び街に向かおうとした。
――その女を見るまでは。
ドクン――
言葉がない。
視界の隅に映っただけなのに、そこから眼を離せない。
ドクン、ドクン――
金色の流れる髪。
深い深い真紅の瞳。
白すぎる白。穢れなき穢れ。魔性の白。
純白は影となり、彼女を映し出す。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――
凍りつく脳髄。
蠢き出す身体。
思考がまとまらない。
身体が制御できない。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――
指先から身体の奥底まで全てが俺の意思を離れて暴れ出す。
神経は破裂しそれでも情報を送ろうと貪欲に根を張り直す。
血液は痛いぐらいの速さで駆け巡り身体をナニカに変えていく。
凍っているはずの脳髄が這いずり神経を取り込み逆に熱をもって全身に命令する。
ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク――
この醜い人混みの中で、
それでも美しすぎるあの女を、
ド、クン――
「う――あ」
うめき声がもれる。
加速度がつきすぎて思考はもう止まらない。
ひゅぅ、ひゅぅ、ひゅぅ……
不自然な音。よく聞けば自分の呼吸音。
ああ、いつも呼吸はどうしていたのか。どうしてこんなに苦しいんだ。
なのに足はいつもよりしっかりと地面を踏んで俺の身体を支えている。
「おわ、ないと」
頭の奥から次々に命令が下される。
考える暇もなく神経は圧倒的なスピードで身体中にそれを伝え身体は応えて動き出す。
静かにただ静かに俺はその女を追っていく。
(音を立ててはいけない)
だから俺はいつもより慎重に音を消して歩いた。
(警戒されてはいけない)
追いついて話をしよう。警戒されないよう話題を選んで――話?そんなもの必要ない。気づかれなければ警戒されない。
(誰かに見られてはいけない)
そうか、だからここでできないのか。それならどこがいいだろう。
(素早く動かなくてはいけない)
それなら大丈夫。今なら何より速く動ける。それこそバケモノより。
「あはぁ……ああははは……」
イカレタ笑い声が喉の奥からかすかに漏れる。
分かっているとも。俺はこれから――
ポケットにはいつものようにナイフがある。道具ならいつでも持っている。
これで――
「……?」
いつもよりざらついた感触。
引き抜いてみると今朝手に入れたばかりの素晴らしい、刃。
「クク、ククク……」
ああスバラシイ。さっそくこれを使えるなんてスバラシイ幸運。
十分に距離をとって
気付かれないように
不審がられないように
自然に周りに溶け込んで
女はマンションに入っていった。
すぐに追う愚は冒さずに俺は外でそれを眺める。
エレベータのランプは六階を指していた。
それから中に入って六階のポストを調べていく。
五つのポストを順に触っていき三つ目に触れてゾクリときた。
ここだ、間違いない。この俺があんなものを間違えるはずがない。
エレベータのスイッチを押す。
この微かな間ですら鬱陶しい。
指先でナイフの刃をなぞる。
この刃でもうすぐあの女を――
間抜けた音を立ててエレベータの扉が開く。
六階にはお誂え向きにも誰もいない。アア本当なんて幸運。
音を立てずに三号室まで歩いていく。
その呼び鈴を押そうとして――
眼鏡が邪魔だな。
俺は眼鏡を外した――
何故か、とても良くない事をしたような気がした。
どうやら眼までイカレタらしく今まで見えた黒い線に加えて奈落の底にでも繋がっているような黒い黒い穴まで見えた。
あちこちを走るひび割れとその間の黒い穴。
それはとてもキモチガワルイ。
それにせかされるように呼び鈴を押した。
パタパタと音が近づいて、
「はい――」
ドアが開く。
その僅かな隙間に身体を滑り込ませた。
「え――」
女の小さな声が漏れた。
でも、それで終わり。
そのときには俺は女の身体に走る線にナイフを走らせ
首と後頭部を切り落し
右目から唇まで縦に裂き
右腕を上腕部と下腕部で切り分け
ついでのように小指を飛ばし
左腕を肘関節で割り親指と中指を手から刎ね
肋骨部分から心臓まで左乳房を通って横に薙ぎ
胴体をもう一度胃から腹まで完全に切り通し
左足を股と腿と脛と指に割った。
これ以上ないってぐらいに、完全に殺し尽くした。
一秒もかけていない。ただそれだけの間に彼女の身体は十七個に解体された。
「……え?」
自分の声が、すごく間抜けに聞こえた。
周りを見回す。
赤い赤い血が、べっとりとフローリングを汚している。
ポタポタと、玄関に流れ落ちる血の音が、やけに大きく聞こえる。
「な……」
むせ返るような血の匂い。
線を切っただけあって、その面はとても綺麗。
周りには目立つ物なんかなく、ただ二つだけ――俺とバラバラの死体が場違いに存在していた。
「俺は――」
右手に握られたナイフ。
真っ赤に染まった七つ夜。
転がっている切り裂かれた死体。
真っ赤に染まった彼女の死体。
「なんで……こんな……俺は」
でもこれは事実。
なんでとか、どうしてとか、そういう問題じゃない。
必要なのはたった一つ。
遠野志貴は人殺しだという、その事実――
「あああああああああ……」
あえぐ。
どうしようもなく悲しかった。
幼い頃の先生との約束を破ってしまったこと。
この人の人生とか、なにもかもぶり壊してしまったこと。
そして最後に、もうアイツに会う資格を無くしてしまったこと。
「俺は人殺しだ……」
その場を立ち去りながら、うめいていた。
さめざめと降る雨が、とても冷たかった。
Back
Next