そらへの前奏曲 前編
桜の花が散っていた。
花の出番は過ぎ去り、若葉がしなやかに、涼やかに揺れている。
春の暖かさとも夏の強さとも違う日差し。
アスファルトとタイルと石畳に固められた地面に健やかな影を浮かび上がらせる。
梅雨という煩わしい季節がない、この土地ならではの心地よさだった。
故にこのように公園でうつらうつらする者たちも少なくない。
木陰のベンチに穏やかな空気が流れ、頭上でかさかさと若葉が揺れる。
ふと目に留めた通行人が思わず笑みをこぼしてしまうような微笑ましい光景がそこにあった。
どこにでもありそうで、どこへ言っても見られない何気ない静止画。
だが、ベンチに横になっていた影がむっくりと起き、静止画は動画に転じた。
「うー……」
と、背中をそらせ、両腕を頭上の樹に触れんばかりに伸ばす影。眠り足りない、ということではなく、固いベンチで寝ていたためであろう。
ささやかな風がおはようと彼にささやく。だが、彼はわずらわしそうに頭を振る。
と、彼の視界に見慣れないものが飛び込んできた。
「……猫又……?」
確か寝る前には周囲には誰もいなかったはずだ。だがそれの奇妙な物体はさっきまで彼の頭が置かれていたところのすぐ隣りに鎮座ましていた。
猫又、と評したのは、人間なら頭の位置に、猫の耳のような突起が出ていたためである。
つまりその「猫又」は彼の寝ている間に枕元に出現したことになる。
「……」
不機嫌そうな表情にはそのモノが何か、というより、寝顔を見られたことが気にくわないようであった。
「すー……」
よく聞くと、春風に混ざって規則正しい音が響く。
「……こいつか……?」
よく見ると、結構規則正しく船を漕いでいる。
どうやら、春の陽気に誘われたのは彼一人ではないらしい。
そばにあった水飲み場で、軽く顔を洗うと、彼はついさっきまで自分が寝ていた所に今度は腰をかけてみた。
うつらうつらする顔の前で、手をひらひらさせてみる――反応なし。本格的に寝ている。
その事を確認すると、彼はそっ、とその手を小さい顔の前に持っていき握りしめた。
……一秒……二秒……三秒……
「……うーん……」
規則正しい呼吸音が止まって約五秒、代わりにうなり声が漏れ始め、やがて、
「ぷはぁっ!」
と爆発した。巻き込まれるすんでのところで、彼は手を離している。
「うぐう……ひどいよ、祐一君……」
猫又は思った以上に幼い声で抗議の声をあげる。大きめのオーバーオールがその性別と年齢を隠しているように見えた。
「……だれだそれは……?」
突然知らない男の名で呼ばれた青年はあまり大きくはない目を見開き、驚きの表情を隠せないでいる。
「……あれ? 祐一君じゃないの……?」
「違うぞ」
猫又いや、少年のような少女の問いに青年はそっけなく否定する。
「うぐう……祐一君ぐらい意地悪なお兄さんだよ……」
「俺はその祐一とかいうヤツとは違って意地悪なんかじゃないぞ。こんなところでのんきによだれ垂らして寝ているやつが悪い」
青年の言葉に少女がはっ、と口に手をやる。その顔は唐辛子を丸ごと食したように赤い。
「冗談だ。よだれはついてない」
少女のあまりの素直な反応に青年は先程の発言を撤回した。
「やっぱりいじわる……」
「俺が拭いておいたからな」
「えっ!? ホント? うわぁ……恥ずかしい……」
無論これも青年がからかっているのだが、少女はその真意に気がつかずに両手で口を拭う。
外見を裏切らず、ガキのように素直なヤツだと青年は思った。
「……そうか……ガキか……だったら……」
突如として青年はうつむきつぶやくと、枕にしていた鞄から、一体の人形を取り出した。
薄汚れ、ほつれも目立つ、どこにでもありそうな人形だった。
「うわぁ……可愛い人形……」
少女はそれこそ子供のように目を輝かせていた。
(なんだこいつは……?)
「……いいから見てろ」
手の中の人形に対してあまり聞かない評価に青年はとまどいを隠せない様子だったが、どうにか制して、ベンチの上――青年と少女の間にちょこん、と座らせる。
「おすわり?」
心底不思議そうな少女の声を無視して、青年は“力”を集中させる。
時間にしてほんの一秒に満たないだけのタイムラグ。
その直後に人形が「立った」。
「え?」
驚きのあまり、その大きな目を限界近くまで見開く少女。
人形はそれからテコテコと「歩き」、少女の前で「止まり」、「手を振った」。
そのどれもがよどみなく、下手な赤ん坊よりも上手に動くため、少女の視線はその人形に釘付けになった。
「……すごい……すごいすごい!」
笑顔と共に少女の笑顔が咲いた。
「すごいか」
自慢でも、傲慢でもなく、淡々と青年は言った。
「えー、どうやってるの〜? 糸? 違うよね〜?」
青年のつぶやきなどまったく意に介さず、少女は幼女のように人形を手に取り、こねくり回す。
「……聞けよ……」
と青年は聞こえないようにつぶやくと、再び人形に“力”を込める。
少女の手から躍り出た人形は器用にベンチに降り立ち、青年の手元まで自力で戻り、再びただの人形に戻った。
「ほんとすごいね、そのお人形!」
顔どころか、体全体を使って喜びを表現する少女。
その小振りな鼻の先にずい、と差し出されたものがある――青年の右手が手の平を上にして突き出されているのだ。
少女は一瞬何が起こったのかわからないような顔をして、己の右手を青年のそれの上にぽん、と置いた。
「……お前……猫かと思ったら犬だったのか」
「うぐぅ、違うよ〜! 人間だよぅ〜」
「見ればわかる」
己が、つい先程まで猫又と見間違えたことを棚に上げ、青年は感慨なさそうに言った。
「じゃあ、どうすればいいの?」
右手を乗せたまま少女が尋ねる。街角に流れる、微笑ましくもシュールな光景だった。
他に乗せるものがあるだろう、と青年が目で語っている。
「……もしかして……怒ってる……?」
青年の鋭い眼差しは確かにそう見えるかもしれない。だが怒気をはらんでいない事はすぐに少女にもわかった。
「……?」
少女は形のいい眉をへの字に曲げてどうにか青年の真意をくみ取ろうと努力する。
「うぐぅ……どうしていいかわからないよぅ〜」
今度は青年が眉宇を寄せる番だった。ここまで鈍いのも彼の旅の生活の中でもそうそういなかったためだ。
「……見物料だ」
「え? ボクにくれるの?」
「違う! 明らかに間違ってる! 今までの状況をどういう風に考えたらそんな結論が出てくるんだ!?」
青年はこの日初めての――実は数日ぶりの――大声で少女の推論を否定した。
「そ……そんなに大声を出さなくても……」
否定された方は思わず帽子ごと頭を抱えている。
「……要するにだ、さっき人形を動いているのを見ただろ?」
「うん」
「…………面白かったか?」
「うん!」
「………………だったらそれに見合った代償を請求するのは、資本主義な現代としてはしごく当然なことだと思うのだが、どうか?」
「……うん。なんとなくわかったよ……でも……」
ここで、ふと少女は青年を見た。
当初はベンチに座っていたはずの青年が、話すたびにずり落ち、今や完全に地面に這い蹲っているからだ。
「……………………でも何だ?」
寝ているというより放置されている、という趣が佇みはじめた青年は、声まで小さくなってきている。
「ボク……あんまりお金ないよ……」
「…………………………」
少女の非情な一言の前に、とうとう青年の瞳から輝きが消えた。
「…………死ぬ……かも…………」
「え? お兄さん死んじゃうの? もう春なのに『ゆき倒れ』?」
少女の顔に不安が浮かぶ――セリフはさておき。
「……このままなら少なからずそうなるな……なにせここ二日ほど何も食べてないからな……」
「だめだよ! 死んじゃなんにもならないよ!」
そう言うと、少女が青年を強引に起きあがらせようとするが、上半身を起こすのがやっとだ。
「だったら、少しでもいいから見物料を……」
この期に及んでもまだ見物料をせびろうとする青年の顔は幽鬼のように青白い。
「おなかすいてるんだよね? じゃあ、ボクが食べ物買ってきてあげるよ!」
と、だけ言い残すと、少女は脱兎のごとく、公園から消え去った。
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