Scene T
目を覚ますと、そこは統計的に見て一番見慣れた光景だった。
光差し込む窓一つ無い、真の暗闇に包まれた密室。そこに置かれた一人で使うには広すぎるキングサイズのベッドの上。
部屋の主―レミリア・スカーレットは瞬きを二度、その時間を持って現状の確認に思考が追い付いて、ベッドから上半身を起こす。
統計的。このような言葉を用いたのは、今彼女がここで一人目覚めを迎える回数が日増しに減少してきているからである。
そう…だいたい三分の一、その程度まで。
残りの三分の二の内、一つはこの館より少し離れた場所にある古ぼけた社。その寝室。
もう一つの場所はここ、今彼女が居るベッドの上と同じだが、その人数は二人。自分とすぐ横で柔らかな寝息を立てて眠る女性の姿があるのだ。
レミリアは彼女のことを思いだし、ベッドのシーツを撫でた。相手の残像をこの場に見るように。
「れい…む…」
口に出すだけで胸が締め付けられるその人の名前を、彼女は呟いた。
―博麗霊夢。この幻想郷と人間界を隔てる博麗神社の巫女。
吸血鬼として生きてきた五百有余年。今となって、まさかこれほどまでに自分の心を占める存在に出会うことになるとは想像もしていなかった。
だが息苦しいほどの恋愛感情と同時に、レミリアはどこか冷め切った虚脱感があるのを自覚する。
「今日で一週間、霊夢に会ってないのね」
最後にこのベッドで契りを交わして以来、レミリアは彼女の顔を見ていない。
会いに行こうと思えばいつでも会いに行ける。陽が落ちた宵時にでも…。
しかしレミリアはそうしなかった。向こうで霊夢は多分、いや絶対に心配しているだろう。
「やっぱりあの時、あんな事聴かなければ良かったんだわ…」
ふうとため息を吐き出すと同時、扉がノックされる音が耳に飛び込んだ。
「誰?」
闇を全く不備とすることなく扉に視線を向け、素っ気ない口調で応える。まあこれは聴くまでもなく分かっているのだが。
「咲夜です。おはようございますお嬢様…」
案の定その人物は、この紅魔館でメイド長を務める十六夜咲夜だった。
「おはよう咲夜…。なんの用かしら?」
これまた咲夜が返す言葉を知っての質問…。そしてそれに対する自分の応えも、ここ最近は同じものになるだろう。
「お食事の方…お持ちしました」
咲夜の堅い口調に表れるかすかな諦めの意志。つまり咲夜の方もレミリアがどう答えるか予想できているのだろう。
「食欲が無いの…。今日はいらないわ…」
今日もと言わないところに、レミリアの変な意地がある。
「で、ですがお嬢様…」
咲夜がわずかに声を荒げるのが分かった。言葉の続きを遮るように、レミリアも声を大きくあげる。
「ホントに今は食べたくないの。ゴメンナサイ…咲夜…」
「お嬢…さま…」
咲夜の言葉がそこで途切れると同時に、深いため息の音が聞こえてきた。普通は扉越しに聞こえるものではないのだろうが、そこは人の何倍も身体能力に優れた吸血鬼である。
だがそんなレミリアでも、ドア向こうに立つメイド長の他、もう一人の存在には声を聴くまで気づけなかった。
レミリアと咲夜がそのまま沈黙を保って、五回は深い深呼吸が出来る時間が流れたとき。
「レミィ……入るわよ…」
「っ!」
あまりの衝動にレミリアは強く掌をベッドに打ち付け、扉をこれでもかと言うくらい強く凝視した。
自分をその愛称で呼ぶのはこの世でただ二人。知識と本の番人、レミリアの古き友人であるパチュリー・ノーレッジと。あともう一人…。
この声を……自分が聴き間違うはずはない。
「れ、霊夢…」
向こうから開けられた扉の前に立っていたのは、自信なさげに眉尻を下げた咲夜と、白と赤の二色で織られた衣を纏う巫女の少女だった。
「お久しぶり…レミィ」
そう言って彼女は目を細め、柔らかく微笑んだ。たったそれだけの事で、レミリアの胸の奥はぎゅうぅっとめちゃめちゃに締め付けられる。
ああ自分の身と心は、それほどまでにたった一人の少女の事で一杯に埋め尽くされているのだと改めて実感する。レミリア今すぐにでも飛び起きて、彼女の身体を抱きしめたい想いをぐっと押さえ込んだ。
なるべく平静を装って、
「いらっしゃい霊夢…。そうね一週間ほどあなたの所に行ってなかったものね…」
それが別に何でもない、ごく自然の内から生まれた偶然であったかのように言う。この一週間、自分の心はどこかで霊夢の事を避けていたのは明白なのに。
「…そう…ね…。レミィ…」
わざとらしく言葉を句切った霊夢の肯定は、明らかに皮肉の色が混じっていた。
「ごめんなさい咲夜…。少しの間、レミィと二人きりにしてくれるかしら?」
霊夢は真横に立つ咲夜に顔だけ向き直ると、彼女に退室を促した。
「………ええ…分かったわ。それではお嬢様…私はこれで…」
咲夜は素直に従い一礼した後、扉を閉めて自分の主の寝室を出ていった。
本来はレミリアを客人一人と残して自分は立ち会わないなど、咲夜の許すところではないのだが。その客人が霊夢という、自分の主にとってあらゆる意味で特別な存在であると言うことを咲夜も知っている。そして何より自分の主が霊夢と二人になりたいと望んでいることを、聴かずとも悟ったのである。
扉が閉められた寝室は再び闇一色の密室となった。暗闇を全く苦としないレミリアには霊夢の姿がはっきりと分かるが、夜目の聴かぬ人間にはこちらの姿が全く見えないはずだ。
それでも霊夢は闇に溶け込んだ恋人の姿を、その両の瞳で刺し貫いていた。さも当たり前にと言った風に…。
「咲夜から…事情は聞いたわ…。あなた一週間…食事してないんですって? 血どころか…普通の食べ物も食べてないそうじゃない」
霊夢の普段のほほんとした口調に、わずかに怒気が含まれているのが分かる。本気で心配してくれている証だ。
吸血鬼の主食というのは確かに生き物の(特に人間の)生き血なのだが、普通の穀物とかでも賄っていける。もちろんそれで得られるエネルギーは月とすっぽん。当然血の方が月である。
「最近食欲無いのよ。最近ずっと美味しい血ばかり飲んでたから、私の味覚も肥えてしまったのかしらね」
言ってレミリアは乾いた笑いを続けた。続けてから…本気で心配してくれる霊夢に、こんな皮肉を言うべきじゃなかったって後悔した。
「そう…なら今日は私が、特別に美味しい料理を差し入れに来てあげたわ」
「え?」
「あなたに食べて貰いたくって…」
そうは言う霊夢だが、その場にあるのは彼女の身一つ。料理らしき物は一つもない…。
いやあった…すでに目の前に。レミリアにとって最上級の食材とも言える存在が…。
――するり…。
霊夢は胸元、改造巫女服のリボンを解くと、襟元に両手をかけ左右に開いて肩口をはだけた。肩を外れた衣服はそのまま重力に任せ腕と肩胛骨をすり抜け、腰の辺りで帯に阻まれその落下を止める。
脱いだ巫女装束にも劣らぬ、白くきめ細かい柔肌。霊夢は自分の半裸身を、両手で肩を掴んでクロスさせ胸元を隠すようにしながら、恥ずかしげに視線を下にそらし頬を朱に染めていた。
「レミィ…私の血…飲んでくれる?」
艶の混じった霊夢の声。そうして彼女はレミリアの方へ一歩、二歩、踏みだし近づいてくる。
「霊夢…」
息を飲み込みながら彼女の名を呟く。
霊夢の血はもうすでに何度飲んだか分からないほどだ。でもそれは今まで、レミリアが飲ませて欲しいとお願いするのが全てで、そしてそれを霊夢が拒んだこともない。
こうやって霊夢の方から、飲んで欲しいと言って来てくれるのは初めてのことだった。
霊夢は今自分に出来る精一杯の事で、レミリアの事を元気づけようとしている。
(あなたのせいじゃない。単なる私の自業自得なのに…
あの日、あの晩。むちゃを言ってあなたを困らせて…自己嫌悪に陥って…。でも多分…今の霊夢だって…きっと私には…………と思ってて…。)
どこか混濁する思考の中、レミリアは考えるのを止めた。
どちらにしても今分かった事が一つだけある。それは…。
(あなたが私のことを…信頼してくれてるって事…)
霊夢はすでにレミリアの眼前にまで来ていた。
「レミィ…」
切なく愛称を呼び、レミリアの方に倒れ込むように首に両腕を回してくる。
彼女の鼓動が、自分の鼓動に直結する。
レミリアは自分で意識する範囲外で、すでに霊夢の背中まで抱きしめ返していた。
「霊夢…ありがとう…」
「レミィ…んんっ」
唇を唇で塞いでやった。そのままどちらからとも無く、入り込んでる舌の感触。混ざり合った唾液の味。
数回舌を絡ませ合うだけの短いキスを終えると、二人は顔を離し視線を交差させた。霊夢の潤んだ瞳の中に、恍惚とした自分の表情がぼやけて映っている。
そして霊夢は顔を横に背け、首筋をレミリアの方へと差し出した。
「ありがとう…霊夢…」
耳元で囁くように先ほどと同じ言葉を伝えてあげる。静かに瞼を伏せ、牙が食い込む痛みに耐える為、わずかに身体を強ばられる霊夢の仕草がこの上なく可愛いと思えた。
(でも…)
心の中で否定の言葉を紡ぎ、レミリアは霊夢の肩を掴んだ。そしてゆっくりと、でも力強く彼女の身体を引き離す。
「れ、レミィ?」
小さく叫ぶ霊夢に、レミリアは首を横に振った。
「ごめんなさい霊夢…。でも今はホントに食欲がないの…。誰の血も飲みたくない気分なのよ」
「でもあなた、そんなんじゃ身体が…」
「身体のことは大丈夫よ…。吸血鬼なんて人間はもとい、他の妖怪なんかと比べても全然タフなんだから…」
「全然理由になってないわよ」
「でもホントに大丈夫だから…。今はただ気分的な問題。もう少し経ったら、私の方からあなたに会いに行くから…」
そう言ってレミリアは、彼女にしては珍しく素直な笑顔で霊夢に微笑みかけた。だがそれは、これで話しは終わりだと霊夢に告げる、絶対的な意思表示を含んでいた。
「レミィ…私は…」
「また少し眠るわ…。せっかく来てくれたのにごめんなさい」
結局…霊夢は、目の前の恋人にそれ以上掛ける言葉が見つからず、衣服を着直し部屋を出た。
再び部屋を満たす静寂と闇。
その内扉の外から、静寂を通り抜けて霊夢のかすかな呟きが聞こえてきた。
『ふう…これは重傷だわ…』
「………」
ホント重傷だと思う。恋心と言う奴は、産み親に何の断りもなしに相手から愛情という栄養源を貰って成長し、いつのまにか親離れして言うことを聞かなくなる。
もっともっと…際限なく相手の全てを求めて止まない…。
「いっそ…本当に人間として霊夢に出会えれば、良かったのかしら…」
自らに呟いた言葉に「バカらしい」と侮蔑の言葉を投げかけ、レミリアは霊夢にそう言ったよう、再び眠りに堕ちた。