Scene X
浮遊感の後に待っていたのは、重力に引かれて落ちる感覚だ。そうして博麗霊夢は、背中から地面へと思い切り叩きつけられた。
「んぐぁっ!」
痛みを吐き出すように声が出る。骨が二、三本折れたかも知れない。
だが霊夢にそんな痛みにつき合っている暇など無かった。
霞む視界に見えるのは月だった。紅き狂気の満月に至るまでにはまだほど遠い、三日目の月。
だが…月などではない。紅き狂気は、今まさに自分の目の前にある。
「ふふふ…これでようやく落ち着いて、霊夢と話せるわ…」
近づく足音に痛みを堪えて地を見ると、倒れた自分を見下ろすレミリア・スカーレットの姿があった。
「れ…レミィ…」
館の建物一部を完全破壊したあの衝撃を受けて、レミリアは全くの無傷。
(他のみんなは?)
周りの確認をしたいが身体が上手く動いてくれない。それがとても出来る状況に霊夢は居ない。
「安心して霊夢…。みんな死んでないわ。気を失ってるだけ。一度はこの私が認めた者ばかりですもの…」
「………」
「それに私も、やっぱり霊夢が悲しがることはしたくないものね…」
言外に、霊夢も含め全員の命を握っているのは自分、そう言っている。
圧倒的だ、今のレミリアの能力は。純粋な力と魔力なら、多分ここにいる全員が束になっても叶わない。
「さあ霊夢…。あなたの血を…頂戴…」
言ってレミリアは膝と掌を付き、霊夢に覆い被さった。
「そして…永遠に二人で愛し合いましょう…」
眼前に迫る狂気の瞳。鋭く光る牙。
絶体絶命だ…。事態は誰も望まぬ結末を迎えつつある。レミリア自身でさえも…。
今の霊夢に戦う力はない。符を使う時間無く、使ったところで今のレミリアに通用しないことは明白だ。
(だから…これは今私が出来る、たった一つの抵抗…)
魔理紗が言っていた、自分にしかレミリアを救うことは出来ないと言う、最大限の攻撃。
レミリアの牙が首元に迫る瞬前、霊夢は全身の痛みを無視する様に、腕をレミリアの首に回し、自分から顔を近づけ唇を奪った。
「なっ! んんっ…」
レミリアの瞳が驚きで大きく見開かれる。
(レミィお願いだから…。いつものあなたに、私が好きなあなたに戻って…)
ありったけの想いを、唇同士を通じてレミリアに送り込む。
硬直していた時間は、多分一秒にも満たない刹那の時間。レミリアの瞳が一瞬ぶれ…。
彼女は両手で霊夢のことを突き放し、翼を使って一歩後ろに後退した。
「………」
レミリアの口は開いたまま戦慄く。
「お願い…レミィ…。正気に戻って…」
霊夢はゆっくりと身体を起こすと、膝立ちの姿勢になりレミリアを見つめた。
レミリアは今平静を取り戻すと、キッと霊夢を睨み付ける。
「霊夢…。キスなんて嬉しいことをしてくれるのは良いけれど…、出来れば食事の邪魔でない時にやってくれない?」
言う彼女の言葉に、先ほどの余裕はそれほど感じられなかった。
ふと…その声が聞こえたのはそんな時。
「ちょ…これは…一体…」
見るとそこにいたのは、空を舞いこの惨状にあっけにとられる一人の少女。
「美鈴…」
突然聞こえた破壊音に、表門の方から急ぎこちらに駆けつけた紅美鈴だった。
美鈴はレミリアと霊夢の姿を見つけると、霊夢から見てレミリアの調度三歩ほど後ろに降り立った。
「お嬢様…これは…一体…」
「だめっ。美鈴っ、逃げて!」
霊夢は息が詰まる肺から、なんとか大声を絞り出す。美鈴が弾かれたように顔を向け、
「え、霊夢…何を?」
訳が分からないと言った風に、霊夢とレミリアの顔を交互に見つめ返す。
「また…邪魔が増えたわね…」
レミリアがぼそりと呟いた。
「お、お嬢様?」
「早く逃げて美鈴っ!」
だが突然訳も分からずやってきたその門番は、霊夢が想像した末路を辿らなかった。
「美鈴…。私の周りで寝てる、みんなの介抱をしてあげて…」
「「えっ?」」
意外を現す一言を呟いたのは、霊夢も同じだった。
「早くしなさいっ!」
「は、はいっ!」
「私は…少し出かけてくるわ…。それまでにここの後かたづけもお願い…」
「………」
呆然とする美鈴を横に、レミリアは振り向きその背を霊夢に向けた。
そして…顔だけ振り返り、一瞬だけ霊夢に冷たい視線を送ると、翼に力を込めそのまま宵闇の空へと飛び立っていった。
「ちょ…ちょっと霊夢…。一体何があったの。それに今のお嬢様は…」
駆け寄ってきた美鈴は、早口で霊夢に問いを浴びせる。
だが霊夢は、そんな彼女の言葉など耳に入っていないかのように、今レミリアが飛び立った空を見つめている。
「美鈴…。レミリアじゃ無いけど、みんなのことお願い…」
「は…霊夢?」
「レミィの事は、私が何とかする…」
「ちょっ、まさか霊夢、お嬢様の後を追う気。だめよあなただって、ひどい怪我してるじゃないっ!」
「それでもっ!」
美鈴の激を、霊夢はそれより強い言葉で遮った。
「彼女を救えるのは、今しかないの。そしてそれが出来るのは私だけ…」
霊夢の口づけは、今のレミリアの何かを確実に変えた。
霊夢の言葉に込めた思いの強さが美鈴には分かったのか。美鈴はもう何も言わずにため息一つ、霊夢の身体に自分の掌を当てた。
「んん…」
途端、心地の良い「気」の流れが霊夢の全身に流れ込んで来る。
「身体の治癒力を活性化させる気を送り込んだわ。気休めだけど、無いよりましでしょう」
「ありがとう…美鈴…」
「それじゃあ…。お嬢様のこと…よろしくお願いね…」
「………」
霊夢は無言で頷くと、自らの身体を宙に浮かせ、レミリアが消えてその方向へと飛び立った。