Scene Y
博麗霊夢は一人、痩せた月が照らす夜空を行く。突如狂った…一人の吸血鬼の姿を追って…。
目的は一つ…。彼女の目を覚まし、彼女の居館に連れて帰る為に。
(とは…言ったものの…。どうすればいいのかしら…)
正直…今のレミリア・スカーレットに会って、勝負して勝てる見込みは零に等しい。いや零そのものだと言って良いだろう。
そもそも今回の事は、彼女がレミリアに勝ってどうなると言った類のモノではないのだ。
どうすれば…レミリアを正気に戻せる? どうすれば…狂った彼女の心を救える?
「救う…かぁ…」
霊夢は飛ぶ速度を無意識に緩め、独白した。
フランドールは魔理紗という初めて対等な友人を手に入れることによって、その力から救われた。
「レミィを…救うモノ…。レミィが望んでいること…」
レミリアは別に霊夢の血を吸う為にああなったのでは無い。もちろん…霊夢を吸血鬼にする為でも…。
そう…彼女はただ…。
レミリア・スカーレット。夜を生きる吸血鬼。
彼女と惹かれ合い、彼女の想いを受け入れ、自分の想いを預けたその日。自分は覚悟したはずだ。同姓の、しかも本来払うべき筈の妖怪と生きていくという、博麗の巫女としてはあるまじき背徳行為を背負うことを…。
後悔しないと誓った。その気持ちに嘘はない。
それでも…。
「私はまだ…。彼女と生きていくという意味を…甘く考えていたのかも知れないわね…」
ふとその時。
――ヒュンッ。
鋭い風切り音がした。
「っ!」
光が奔るのが見えた。向かい高速で飛来する、紅い光りが。
急速で身体を旋回させて、その光りを紙一重で回避する。光りが掠って浅く切れた頬に、一滴の血が滴り出る。
「ナイフ…?」
かすかに見えた残光は、鋭利な刃物のような形をしていた。
しかしそれは自分が良く知っているメイド長が持つ、銀の輝きを持つ物質ではない。
魔力で作り出した、擬似的な形を得ただけの弾丸だ。
いつの間にか…、十数歩先にレミリアが同じ高度でゆらゆらと浮いていた。
「レミィ…」
「やっぱり来てくれたのね。霊夢なら…私を追ってきてくれると思ってた…」
レミリアは臍の位置で腕を組んだ姿勢で、霊夢のことを見つめていた。
「自分から誘っておいて…よく言うわよ…」
レミリアが紅魔館から飛び立つ際、霊夢に向けた視線。明らかに彼女に付いてくるように言っていた。
本来今のレミリアが本気で飛べば、体調全快の霊夢でも追い付くことは出来ないだろう。
この紅魔館から少し離れた場所で、レミリアは霊夢を待っていたのだ。
最もあんな風にされなくても、霊夢はやはりレミリアを追ってきただろうが。
「でも来てくれたって事は、私に勝てる算段があるって事かしら。それとも…」
レミリアは残酷に唇を歪ませ、目元で笑いながら言った。
「やっと私のこと、受け入れてくれる気になった?」
霊夢はしばし無言。二人の間を一陣が強く吹き抜け、それをきっかけとするように霊夢が答える。
「私はただ…。今のあなたを放って置けないだけよ…」
「………そう…。でもまあ良いわ。ここならもう誰も邪魔されない。あなたのこと…じっくり愛してあげられる…」
言葉と同時、レミリアは右手を方の高さまで振り上げ、紅き光りを一つ生み出した。先ほど霊夢の頬をかすめた、紅きナイフの光りと同じ物を。
「咲夜のこと見てていつも思うのだけど。ナイフって便利だと思わない。小さいのに…何の力を込めなくても、結構殺傷力あるし。咲夜みたいな人間が使えば、それこそ私たちが使う魔法なんかよりずっと強力な武器になる。私はナイフ、特に銀製ね…に触れるなんてごめんだけど…。こうやって形を擬した魔法弾を作り出すことは容易いわ」
「………」
霊夢の顔がキッと引き締まった。懐から札を出し構える。
「こんな風にね…」
レミリアが右手を払うと同時、紅いナイフが飛来した。さっきのより数段早く。
「はっ!」
霊夢は札に念を込め、その身に結界を纏う。
結界に、ナイフが衝突した。
一瞬ガラスを引っ掻いた様な嫌な音が耳をつんざく。だが音が一瞬だったのは、結界とナイフの攻防も一瞬だったからだ。
ナイフはいとも簡単に結界を突き破り、また霊夢頬にひと筋の血を垂らさせると、彼女の背後へと高速でかき消えた。
「なっ…」
霊夢は絶句する。
「そんな薄い結界じゃ、私のナイフは防げないわよ。結界の魔力を掌とか一点集中させれば、もしかしたら防げるかも知れないけど…」
レミリアの言うとおり。彼女のナイフにはその小ささからは考えられないくらいの、魔力が凝縮され注ぎ込まれている。それで結界の一点を突破してくるのだ。
「まあでも、次はそんなことをしても、無駄なんだけど…」
言って、レミリアが生み出したのはまたもやナイフだった。だが生まれた場所は彼女の右手ではない。
彼女の周り、まるで発狂した光の妖精が付き従うように、紅いナイフが浮いていた。まるで咲夜が操る『奥義・殺人ドール』の様に。
従うナイフの数は数十、いや数百本…。
「また霊夢にキスされるのも悪くないけど。やっぱり食事の邪魔をされるのは嫌だから、少しだけおとなしくなって貰うわね…」
「………」
「血刀・レッドシューズっ!」
無慈悲なレミリアのスペルが紡がれ、ナイフが一斉に飛来した。
「く、くぁ、きゃ…」
霊夢も結界を張り巡らせ防御するが、ほとんど役には立っていない。
ナイフは舞うように霊夢を包み込み、傷痕を幾度に渡って刻み込む。
赤い靴にある伝説通り、それは対象者の全身を赤く染め上げるまで終わらない。
「あ、あぐっ…。ひぁっ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
一分の後、ナイフ去った後そこに現れたのは、紅白の衣装ではなく、ぼろぼろに裂かれた朱一色の衣を纏った霊夢の姿だった。
「うう…うっ…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…」
身体はぼろぼろになりながらも、霊夢の瞳は強い意志を持ってレミリアを睨み付ける。
どこにそんな精神力があるのか。
そんな霊夢を見て、レミリアは感嘆の息を一つもらした。
「凄いわ…、これだけやれば気くらい失うと思ったけど…。さすがに霊夢だわ…」
「………」
「まあ良いわ。どうやらそうやって飛んでいるのが精一杯と言った感じだし。どうせなら血を吸われる時の霊夢の表情も見たいし…。今度こそ…あなたの血を吸い尽くしてあげる」
「れ…レミィ…」
弱々しい霊夢の声。本当に今彼女に出来るのはそれだけだった。
符を張っても無駄。かといってレミリアを倒せるだけの力は無い。自分に出来るのは愛しい人の名を呼ぶことだけ。
だけど霊夢は、それでも、いやそれだからこそ諦めない。
―かのじょを すくうことを…。
ゆったりとした速度でレミリアが近づいてくる。余裕を浮かべた嬉しさに満ちた表情で。
(嬉しい…本当に?)
違う。今の彼女は忘れているだけで。本当に自分が望んでいたものを…。
「それじゃあ…霊夢。いただきます…」
霊夢はレミリアに強く肩を掴まれ、レミリアの牙が彼女の首元に突き立てられる。
そしてその瞬間、
(レミィ…)
霊夢はレミリアの瞳を見つめ、静かに目を閉じた。
――ブシャッ
乱暴に付き込んだ牙が、霊夢の太い血管を傷つけた。
止めどなくあふれ出る、少女の血。その血を口に含み、喉を鳴らし、レミリアは思う。
これで…全てが手に入る。自分が望んだものが…。永遠に…。
一番好きな人の、血と身体と………。
………身体……と?
(………あ…れ…?)
何かが違う気がする。自分が欲していたのは霊夢の血と身体………だけだったか?
血ならこんなことしなくても霊夢は、いつも微笑んで首筋を噛ませてくれた。身体なんて何度重ね合ったか分からないほどだ…。
『チガウ チガウ。ソノ血ト 身体ヲ 永遠ニ 自分ノモノニスルタメ』
そう…そうだった。でも…。
(私が永遠を望んだのは…もっと別の何か…だったはず)
そう…自分はそれを忘れたんじゃない…。ついさっき失ってしまったのだ…。
『私は…レミィのことを信じてるもの』
いや…まだ。まだ失ってはいない…間一髪気付くのが間に合った。
(ああ私は…。もう少しで…一番好きな人の、心を失う所だったんだ…)
もう遅いかも知れない。助かっても霊夢は、二度と私の事を信用してくれないかも知れない。
でも…本当の彼女を失ってしまうよりは、ましだ。
「っ!!」
目を覚ますと、レミリアの口の中に霊夢の血の味が滲んでいた。彼女の首と、自分の顎から滴る紅い液体。
彼女の命が…。
レミリアは急いで牙を抜き、霊夢から離れ、
「ダメっ!」
離れようとした瞬間。彼女の何処にそんな力が残っていたのか、レミリアは霊夢の両掌に頭を押さえつけられた。
「れ、霊夢っ!」
「だめよレミィ…。勿体ないじゃない、こんなに零して…。私の人間としての、最後の血なんだから…。大切に飲んで…くれなきゃ…。今のアナタなら飲めるでしょう?」
「ちょっと霊夢…」
「良かった…正気に…戻ったのね?」
レミリアは眼前、虚ろな霊夢の瞳を覗き込みながら、力強く首を縦に振る。
「どう…して…」
問うたレミリアに、霊夢はひどく力弱く笑った。
「だって…あんたみたいな。いつ暴走するか分からない危険人物…。この私が野放しに出来る訳ないじゃない…」
「………」
「この先ずっと、付いててあげるわよ。永遠に私が…側に居てあげなきゃ…ね」
「そ…ん…な…」
ふとレミリアは自分の視界がぼやけたのに気付いた。唇の端をなめると、血以外の塩辛い液体の味がした。
霊夢はレミリアの頭から両腕を、彼女の腰に回して抱きしめる。
「ねえレミィ、正直に言うわね。私…本当は吸血鬼になるのが怖かった。自分が自分でなくなってしまう怖さもあったけど…。それよりも永遠を生きること…。それ自体が怖かった。だって、吸血鬼になって身体は永遠の寿命を手に入れても、心はそうじゃないもの」
「こ、こころ?」
「私はレミィの事が好き…。そしてレミィも私のこと好きなんでしょう」
「ええ…」
当然だと、レミィは間髪入れずに頷いた。
「そう…今はそれで良い。でも十年後…百年後も…、はたしてそうだと言える? ずっとずっと相手のことを思い続けている自分を信じられる?」
「………」
「私はダメ…。ダメだった。何かのきっかけで、もしレミィの気持ちが私から離れて言った時。後に来る永遠の時を、あなた無しで過ごすなんて。そんなこと絶対耐えられない」
「霊夢…」
レミリアには掛ける言葉が見つからなくて、ただ彼女の名前だけを紡ぐ。気付くと泣いているのは、自分だけでは無くなっていた。
「酷いよね私。ずっと自分の事しか考えてなかった。レミィがどれほどの覚悟で私に告白してくれたかなんて、考えたこともなかった」
霊夢の首筋から止め止め無くあふれ出る血。霊夢は片腕をレミリアの腰から外すと、その腕を自分の首筋にあてがい、レミリアの口元へと運んでくれた。
「私が居なくなった時。ずっとその苦しみに耐えなきゃいけないのは…レミィ。あなたの方なのにね…」
「霊夢…もういい。もう分かったから…。だから…」
これ以上…私の心を、涙で締め付けないで…。
「なら…吸って、レミィ。私をずっと…あなたの側に居させて。ねえ?」
「ええ…分かったわ…」
レミリアは再び霊夢の首に牙を突き立てた。
今度は血と身体ではない。霊夢の…永遠の信頼を手に入れる為。
そうして数分後…。霊夢の足が、腕が、肩が、そして頭が…。力無くだらりと重力に従い………垂れた。