天球を覆う深い闇が、徐々に淡く染まっていく。東の山間から西の果てへの色彩は、流れるように変化していた。
まだ陽こそ顔を見せてはいないが、今日も幻想郷に朝が来ていた。

その様を永遠亭を巡る回廊から、見上げるようにして見つめる影があった。白無地の小袖を羽織り、長い黒髪をかすかな風に任せて佇む彼女は、名を蓬莱山 輝夜という。この館に住む元月の姫君だ。
竹林に覆われた永遠亭からは東の山々は望めない。しかし上天だけは別だった。
無窮の大空に比べればなんとも狭い、竹林に形取られたいびつな円。しかしそんな限られた中でさえ、躍るように色と彩は移り変わっている。それを輝夜は飽きることなく、かすかに笑んでじっと見ていた。ささやかなその変化を、何よりも貴いものだと考えているかのように、じっと。

時刻はそろそろ寅の三つに差し掛かる。それを示す和時計は、彼女が先ほどまで休んでいた御帳台みちょうだいの脇に置いてあった。コチコチと――ちょうど東から淡風が吹いているからというわけではないだろうが――小さく鳴る音が朝の澄んだ空気を崩すことなく刻んでいる。休みを知らぬかの如く働き続ける針がちょうど三つと重なったとき、廊下の角から新たな人影が現れた。
いや、人影というには頭の上の耳が余計か。そのおよそ人影の主は、漆塗りの箱を抱えた、永遠亭に住む妖怪兎の一羽であった。

輝夜の視線が朝空から兎に移る。兎は兎らしく跳ねるように廊下を歩いて輝夜の前に立った。笑顔で深く一礼する。
応じる輝夜も笑顔で朝の挨拶を返し、次に彼女が持つ箱へと視線を転じた。兎は頷き、箱を開ける。
中には丁寧に畳まれた衣や袴が入っていた。特に一番上に積まれた薄い袿は表は白、裏は濃紅。合わせて白撫子という、夏を表す重色目かさねいろめだ。さすがに夏に襲色目かさねいろめはないらしい。
輝夜は、おそらくは永琳のありきたりな選択に呆れたのか苦笑するが、それでも満足したようだ。頷いて部屋へときびすを返した。着替えるつもりなのだろう。手伝いのため、後ろに従う兎が障子を閉じる。一足す一引く二は零。その場に人影はなくなった。
あとはただ、チチチと響く雀の声と、徐々に昇る太陽が穏やかに日差すばかりであった。








日常に対する蓬莱山 輝夜の見解 〜 Moon in UnspecialDays


それは、眠りだ。
音もなく、時さえもなく、昏々と続く深い眠り。夢幻だけが徘徊する、終わりのない眠り。過去も未来も現在も、全てをその中に包み込んだ、決して何者にも乱されることのない眠り。とすれば、あの時あそこで死んだ彼らは、そんな眠りの国に入ったのか。あの白い霧の渦の中で、限りなく静かに、逃れ得ぬ筈の時の呪縛からも解放され……

香霖堂倉庫にて発見した書物、その一節より。




今日も今日とて、屋敷の長老である因幡 てゐの号令の元に行われる早朝体操を終え、住人達は次なる戦場へと向かって行った。多数の妖怪兎を抱える以上は必然となる闘争、つまり食事の用意である。
幻想郷有数の大屋敷である永遠亭ともなれば、抱える人員の数も相応である。だからとにかく量を用意しなければならない。おかげでくりやは、朝餉だというのに早くも戦場の態を見せていた。

入り混じる声。飛び交う指示。割烹着姿の兎達は作業中の仲間の隙間を縫うようにして跳ね回る。庭蔵から竹篭にて運ばれてきた食材は、広い厨の各地にて即座に調理の洗礼を受けていった。
たたんたたたた――野菜を断つ包丁の音は間断なく波打ちのように響いている。それに和するが如く連なる音は、厨横の庭に並んだ七輪からの団扇の音だ。魚の焼けるよい匂いを微風に乗せて、軽快な速拍子を送り続けている。向こうの竃は竃で、ぱちぱちと弾ける火の勢いを御そうと兎達は薪片手に真剣顔だ。
そんな料理戦争の中心、同じく割烹着と三角巾を身にまとった輝夜は周りに忙しく指示を飛ばしていた。もちろんその間も手は休めない。竃を擁する右翼へ切り終えた茄子を運ぶよう言いつけながら、代わりに来た湯通し済みの油揚げを相手に短冊切りを開始する。彼女の周りの兎達も、器用に包丁を振るって油揚げを細切れに変えていく。どうやら味噌汁の具材が、今の彼女達の相手のようだ。
しかしこの調子ならその攻略も時間の問題と言ったところだろう。それほどまでに輝夜の包丁さばきは素早く、それについていく周りの兎達も熟練している。

輝夜がこうして厨房に立っていることを気にしている兎はここにはいない。彼女達のほとんどは料理の質が向上したことを喜んでいるようで、素直に輝夜の指示に従っている。未だに苦い顔をしているのは従者筆頭の永琳くらいであり、師の顔色と状況に挟まれて困惑気味なのは鈴仙だけであった。

それからしばらく続いた喧騒を断ち切るように、焼き魚を担当していた兎達が一際大きな声を上げる。その原因である七輪に乗せられた魚らは見事な色に焼きあがっていた。
場に緊張が走った。
焼き魚に過剰な火は禁物だが、熱を与えないではいずれ冷める。ほかの作業が追いついていなければ、味の下落は間違いなしだ。それはとても看過できるものではない。
輝夜がすばやく目を走らせた。視線の先を皆が追う。ご飯、既に炊き上がっている。夏野菜の盛り合わせ、できている。梅干にやるべき処理はない。後残るは味噌汁のみだ。
すべての視線が集中する中、担当の兎が振り返る。てゐだ。持った味見皿を唇にあてがい傾ける。誰かがごくりと喉を鳴らした。
味を見るため、祈るように閉じられたてゐの赤目が開かれた。振り上げられた腕とお玉。次いで上がる鬨の声。
兎達は食事の完成に歓声を上げる。無理もない、毎日やっているとはいえ大作業には違いないし、これだけの熱意を込めて行なう作業だ。勝ち鬨の一つもあげたくなるだろう。
だが、そんな熱狂沸き立つ場に永琳の声が突き刺さった。熱を抑える怜悧をもって、彼女は皿の手配を命じる。その態度はまだ終わっていないと言わんばかりだ。
事実その通り、まだ終わってはいない。食事を口にし終えるその時まで、料理の味を保たなければならないのだ。そうでなければ糧になったもの達になんと詫びればいいか分からない。瞬時にそれを理解した兎達は己の不明を恥じた。詫びる声はない。声を出す間も惜しんで、急ぎ皿の用意に取り掛かった。
その列にひそかに混ざろうとした輝夜だが、抜け目ない永琳を出し抜くことはできなかった。しっかり捕まって供の兎数匹の手により強制退場執行である。皿の用意までさせるのは永琳の従者としての矜持が許さないらしかった。
捕まった輝夜は不満、もしくは名残惜しそうな表情を浮かべている。事実かなり嫌らしく、じたばたと抵抗していた。名残惜しそうと言えるほどしおらしい顔のまま暴れるのは姫能力の片鱗だろうと推測できる。
と、振り上げたお玉が右腕を押さえている兎に当たった。何か能力でも付加していたのか、お玉のわりにえらく鈍い音が鳴る。音だけ聞けばとんでもなく痛そうだった。殴られた兎は涙目だ。もちろん、その兎は鈴仙である。役所とか涙目とか、色々なものが似合っていた。
殴られても手を緩めない彼女達の尽力により、輝夜の姿は広間の方へと消える。だが、消えてなお騒乱は厨房にまで届いていた。中でも一層大きくとどろいたのは鈴仙のくぐもった悲鳴だ。鶏の首を絞めたような悲鳴だった。長く尾を引く声につまった辛苦と悲痛は、永遠亭中に響き渡り幾十羽もの兎を戦慄させたほどだった。残りのイナバはいつものことと耳をふさいでやり過ごした。
永琳が吐いたため息が、声量は小さいはずなのに随分明瞭にあたりに響いた。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




かこん、と添水そうずの音が鳴る。

騒がしすぎる食事の時間は怒涛のように過ぎ去って、今や時刻は昼前の前と言ったところである。住人は各自、好きなことをして過ごしたり、隣の農場の手入れをしたり、首を絞められたことで休養している意中の相手をいじったりと気ままに時間を費やしていた。永遠とて夢ではないほど、長いというより長すぎる彼女達の時間は少々の浪費では無駄にしたことにはならないのだろう。むしろ浪費を楽しめるようになって初めて一人前と言えるのではないだろうか。
そんな永遠を生きる者の筆頭と言える二人は、永遠亭の縁側に当たる回廊で兎一羽――朝、輝夜に衣を届けた兎である――を交えて向かい合っていた。兎から見て右に輝夜、そして左に藤原 妹紅という両名である。

輝夜の敵役である妹紅の来訪も、明らかに昼食を狙った時間に来ることも含めてお馴染みになっているようだった。昔は所構わず被害を撒き散らしていた決闘も、永琳と上白沢 慧音の言力・腕力・弾幕力など各方面からの尽力により強固な結界の内でと決められていたし、最近は単純な勝負は飽きたのか、拳より遊戯で競うのが今の彼女達の流行なのだそうだ。優雅なやり方の方がいいだろう、と本人達は言っていたらしいが真相のほどは知れたものではない。とにかく、それにより屋敷や兎達への被害は皆無となったのである。
ならば永遠亭の住人達に妹紅を排斥する理由は一つ残らずなくなる。むしろ住人の間には、退屈しのぎに騒ぎを起こす姫君のいい気晴らしになるとして歓迎する向きすらあった。そちらの筆頭はもちろんいじられ役を一手に引き受ける鈴仙だ。ただし彼女はその時、輝夜が構わなくなってもてゐや永琳にいじられることに気づかなかったようである。結果として彼女の日常だけは変わらなかったが、他は押し並べて平和になった。その様は、いつの世も平和は犠牲を必要とするという真理を見ているだけで理解できる好例だった。
まあそういうわけで、今日も弾幕の炸裂もない穏やかな景観の中、輝夜と妹紅は遊戯盤を前にしているのである。

伸ばした背筋も美しく、正座のまましばし沈思していた輝夜の右手がついと伸びた。しなやかな白い指が、イナバの前に据えられた盤上の駒を取る。音もなく一つ前へと進んだ駒に、妹紅がうなり、悩ましげに腕を組んだ。粗野な仕草だが、彼女がするとどうにも似合うし、仕草の割には不思議な品があった。元貴族令嬢は伊達ではない、と言ったところか。
妹紅が深く悩むほど、盤面は佳境に差し掛かっていた。駒もそれなりに減っている。お互い、勝つためにはここからの誤手は絶対に許されない環境だ。

かこん、と再び響く添水の音。

間に座った審判役の兎が時計に目を落とす。チキチキ動く精密な時計だ。記録用の手帳によると、妹紅の持ち時間はあと二十五分。
盤上を睨みながら、妹紅は傍らに置いた湯飲みに手を伸ばした。
呷る。
意を決したようにまなじりを上げ、妹紅は一手を輝夜のそれに対比するように音高く繰り出した。パチン。カチン。兎が妹紅の時計を止めて、輝夜の針を代わりに動かす。手帳への記録も忘れない。慣れた仕草で戦争経過をつけていく。
示された一手に、輝夜は先ほど妹紅に渡した沈黙の重りをすべて突き返されることとなった。表情こそ変わらない。しかし、対局が始まって以来初めて口元に当てられた指先が、彼女に投げられた難題が如何ほどのものかを明白に表していた。
しばらくの間、進む時計のチキチキ音が彼女達の周囲における音の支配者として君臨した。一分。二分。輝夜はもちろん、妹紅も無言で次の一手を読もうと無言で思案している。今や傍らの茶は、存在を忘れられたかのようにそちらに手が伸びることはない。そんな状況、音が立つはずもない。世界は針音に切り刻まれ、添え水の竹音に打ち伏されるままだ。
だが、二台巨頭の圧政は唐突に破られた。
兆しとなった革命家は砂利の立てるそれだった。自らの上を踏み拉き、加重を掛ける者へと向けた抗議と怨嗟の声だ。
怨霊になるには不十分、だが音量としては十分だった。二人と一羽は速度の差こそあれ、一斉にそちらを向いた。
三つの線が一つの点で交差する。平面におけるその点に立つ人影を、視線の主達はよく知っていた。三対の目にさらされた彼女――上白沢 慧音は気楽に片手を上げて挨拶とした。上げた拍子に右手に携えた袋が揺れる。
彼女が歩み寄る間に、さらに二言三言が交わされた。話題はもちろんと言うべきか、今日の昼餉のことだった。ならば彼女が持った袋から覗く夏野菜はその材料か。手ぶらで来る妹紅とはえらく違う。主の待遇が比例するとは限らないが。
と、歩み寄る慧音と話していた輝夜が、唐突に何か思いついたように首をかしげた。ありがちな料理にどんな手を加えるかという話題を捨て、輝夜の視線は慧音の頭上の虚空――夜が夜なら角がそびえたつだろうそこ――を経て、下降し盤上を確かめる。つられて対面の妹紅も、間の兎もそちらを向いた。慧音も状況は分からずとも興味をそそられたらしく、足が速めて縁側に上がりこむ。
輝夜の視線の先にあるのは妹紅の陣営の最も堅牢な部分であった。というより、輝夜の攻めに備えて堅牢に固めた部分というべきか。いわば妹紅の生命線である。
そこを見たまま、輝夜は自らの持ち駒を確かめ――微笑した。
駒がすべて裏返しという盤面の異様さに眉根を寄せる慧音とは裏腹に、瞬時に己の失策を理解した妹紅が思わず天を仰ぐ。頷いて輝夜は、陣営奥深くに隠しておいた虎の子のミサイルを目標へと牙のように突き立てた。どかーんという音は鳴らない。だが効果は抜群だった。一斉に駒四つが、審判兎の手により盤上から駆逐される。
そうなっては仕方ないとばかりに妹紅は手を挙げ白旗を振る。受けて兎はするりと記録帳に筆を走らせた。

某月某日。種目、軍人将棋。勝者、蓬莱山 輝夜。
それが今日の勝負の結果であった。

結果を見届けた兎が記録を付けている間に、別の兎がやってきた。その手には、鈴仙かてゐに命ぜられたのだろう、湯飲みと新しい茶を入れた急須が乗ったお盆が握られていた。縁側に腰を落ち着けた慧音は、礼を言って茶を入れた湯飲みを受け取る。一礼して兎その二は場から立ち去った。今日の輝夜付きの兎は彼女ではなかったからである。
三人と一匹分揃ったお茶。意図したわけでもないのに全員同じ所作で湯飲みを傾け、その味に深く嘆息した。
それで文字通り一息ついたようで、妹紅と輝夜は盤上に駒を並べ始めた。二回戦ではない。何らかの事情でもない限り、彼女達は一日一勝負と決めているようなのだ。
それを裏付けるように、彼女達は棋譜を見ながら順に動かしつつ、ああだこうだと言葉を重ねていた。
二人がしているのは感想戦であった。軍人将棋という勝負自体、思い付きでやり始めたにも関わらずやり始めたら徹底するのが自分達だと言わんばかりに序盤も序盤、最初の配置から色々議論を交わしている。
慧音はそんな二人を穏やかな瞳で見つめている。かつては夢想だにし得なかった光景は、彼女の口元に柔らかな微笑を抱かせるのに十分なものなのだろう。
二人なのに喧々諤々。時間は少々騒がしいながらも穏やかに過ぎて行く。
その合間、不意に慧音からとある疑問が提示された。
なぜ自分を見てミサイルを思い出したのか、という疑問なのだが、音の羅列が言葉として意味を成した途端に皆一斉に慧音から目をそらした。さっきは三つの視線がポイント慧音で交差したのに、今度はまったく交わらない。前方に延長するごとにその間は開くばかりである。場の沈黙も時間比例で重くなる。
数分後、輝夜は慧音の帽子を指し示しながら、引きつった口元より搾り出すようにして答えた。そのとんがりっぷりで思い出したのだ、と。憮然としつつも納得する慧音だが、答えてなお二人と一羽は目をそらしているのに気がつかなかったし、あの時の輝夜の視線は帽子よりもう少し上に行っていたことにも気を向けなかった。人がいい、というのは彼女のことを言うのだろう。
真実はこのようにして、明らかにされぬ方が人を幸せにすることもあるらしかった。実例で見る真理その二、である。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




あれから朝以上に騒がしい食事時を二度越えて、時刻は宵を過ぎ夜へと入っていた。
先ほどまでの夕餉の片づけをしていた輝夜は、自室へ向かって長い廊下を歩いていた。永琳に見つかってしまい、追い出されたのだ。おかげでつい先ほどまで、厨はそれなり以上に騒がしかった。
立ち止まった輝夜はついさっき出てきた厨の方を振り返り、名残惜しそうにため息一つこぼして再び歩き出した。
途中の廊下には、外の闇に抗するように所々に火が灯された大殿油おおとなぶらが並んでいる。赤く揺れる灯し火が、輝夜の白い肌を闇へと浮かび上がらせていた。
彼女が廊下を歩く間にも、あちこちの部屋から兎達の声が届いていた。彼女達は今しかない今宵を精一杯楽しんでいるのだろう。中には早くも精一杯愉しんでいる声も聞こえたが、それらに対しては輝夜は口元にかすかに浮かべた苦笑だけでやり過ごしていた。
だが鈴仙の裏返った怒声と騒乱の音が遠雷のように響く段に至っては、こらえ切れなくなったのか笑いに大きく肩を震わせる。彼女にとって、これは予想済みの展開らしかった。この後さらに何組か摘発されるだろうことも、この程度で懲りるような連中ではないということも、その範囲に含まれているようである。
おそらくこの騒動は、てゐによる就寝令が発令されるまで続くのだろう。早寝早起きを推奨どころか命令する彼女のことだ、時間的にそう遠いことではないと思われる。まあ裏を返せば、それまで鈴仙の孤軍奮闘は続くということだが。

ひとしきりその喧騒を楽しんでから輝夜は再び歩き出す。かすかな軋みを伴い進むと、もう目的の部屋はすぐそこだった。
壁代かべしろをくぐって中に入る。そこで輝夜は立ち止まった。
部屋の中には誰もいない。誰もいなかったのだ。それが輝夜にとっては不可解らしく、戸口で首をかしげている。
ふと、そんな輝夜の目の前を右から左へ何かが通り抜けた。大きな瞳が影を追う。
その果て、見上げた梁近く。暗がりを照らすように大鳥が一羽、羽ばたいていた。と言っても、ただの鳥ではない。炎で形作られた紅蓮鳥である。羽根の変わりに火の粉を夜闇に振りまきながら、高度を下げて一旋した後、部屋の奥へと飛んでゆく。
一声かければいいだけのところに繰り出された派手な演出に、輝夜は肩をすくめつつも笑う。それは彼女が、趣向を凝らすのを好んでいるからだろう。今しかない一時を一層楽しむための工夫だからだろう。
輝夜は鳥の道行に従って奥に進む。
終点は部屋の向こう側の回廊だ。池を臨める辺りである。廊下に連なる柱の一つにもたれかかるようにして、探し人は数羽の火の鳥を侍らせながら杯を傾けていた。

眼がその景色を捉えた瞬間、輝夜は足を止めていた。幾羽もの火炎鳥に囲まれ、降り注ぐ淡い月光に包まれた艶やかな後ろ姿。それを瞬きすら忘れたように見入っていた。魅入っていたのかもしれない。完全な静止をもって彼女は妹紅を見つめている。心音さえこの世界を壊してしまうと思う余り、命そのものから停止させているのではないかというほど、静かに。

妹紅が振り返った。止まったままの輝夜に疑問の目を向けている。同時に舞う火鳥も闇に溶け消えた。完璧な幽玄は崩れ、おかげで炎と月の魔法はひとまず解けた。怪訝そうに見やる彼女に多少ぎこちない微笑みを投げかけて輝夜は固まっていた歩を進め、隣に腰を下ろした。
無言で突き出された酒瓶に、用意しておいた杯で返す。とくとくと月光と炎に照らされて煌く酒が流れ出した。黒漆の杯はすぐに埋まる。
酒が満ちることで、杯の底の塗り絵の月とは別に酒面さかもに虚の月が浮かんだ。それを見た輝夜は、ゆらゆらと杯を揺り動かす。二つの月を重ねるようとしているようだった。
歳に似合わない輝夜の子供じみた所作に妹紅は小さく苦笑い。だが笑われたのが不満だったのか、輝夜は頬を膨らませ、妹紅が慌てて止めるのも聞かずに杯を一気に呷った。
右手で顔を覆う妹紅の隣、輝夜の手から杯――先ほどまで巫女ですら眉をしかめるほどキツい酒がなみなみと存在していた――が滑り落ち、からんと廊下に空音を立てる。傾けられた杯で隠れていたその顔は、湯上りのように赤く染まっていた。どう見ても酔っ払いの完成だった。
輝夜は笑った、と言うより蕩けた顔で妹紅の肩にしなだれかかる。そればかりかその右腕を取り、両手で抱きかかえて頬ずりまでし始めた。どう考えても酔っ払いの行動だった。
じゃれつかれた妹紅の方は降参とばかりに天を仰ぐ。軍人将棋に続いて今日二度目である。負け癖が付いたか、と嘆息する彼女の横顔を、輝夜は不思議そうに首をかしげて見上げた。その仕草は幼げな彼女の見かけを、さらに一つ二つ歳若く見せた。彼女の実年齢からも普段の有様からも、不釣合いな仕草である。だがこれは、酒に酔った彼女の常態であった。
酒に酔った彼女は童女のように幼くなる。宴会に集まるものは皆知る事実である。もちろん妹紅も何度となく彼女と酒を飲み明かしたことがあるだけに、それをよく知っていた。知っていたが、さほど慌てもしない。放っておけば、酒気こそ抜けないもののすぐ大人しくなることもまた、知っているのだ。

抱きつかれた右腕は貸したまま、左手で杯を上げちろちろと酒を舐める。彼女が笑みをこぼすのは、喉と胃に来る熱故か、火照った身体を冷やす夜風が為か、はたまた右肩にかかるちょっとした重みに因るのか。とにかく彼女は笑っている。笑って月を見上げた。
白かった。独りだった。星は近づくほどにその白さに飲まれて見えない。不憫なヤツだ、と妹紅は嘲る。
杯の酒がそろそろ空になりそうな頃、さっき予想した通りの未来が現在の事実になっていた。肩口から聞こえる吐息は規則正しく、かかる重みはより一層。顔を向ければ輝夜は妹紅の腕に頬をすり寄せたまま、穏やかな寝息を立てていた。
無防備なその姿に妹紅の苦笑はより濃くなる。試しとばかり、頬をひっぱる。よく伸びた。餅の如くよく伸びた。鈴仙の餅ほどではなかったが。
それでも起きる気配はない。輝夜は身じろぎと共に一層強く腕を抱きしめるだけだ。
これではまったく動けない。当然、寝台への移動は無理だ。腕なんかに抱きつかれているせいで、担ぎ上げていくことも出来ない。
しばしの逡巡の後、妹紅は覚悟を決めたらしく杯に酒を注ぎ直した。永琳か鈴仙辺りが来れば手伝ってもらうつもりなのだろう。最悪来なかったとしても蓬莱人二人だ、風邪を引くことはない。

だが、そんな妹紅の配慮も杞憂に終わるだろう。腕にうずめた輝夜は薄目を開いて微笑んでいた。妹紅はまったく気づいていない。今この場、彼女が正気なのを知るのは輝夜自身と、そして私だけだろう。

これが、彼女がこよなく愛する日常か。
なるほどと頷く。ああ、確かに呆れるほど穏やかで、羨ましいほど幸せな日々だ。
永遠たる彼女からすれば、毎日はどこかで見たような事象の連続だろう。それほどに彼女の積み重ねは高く重い。
だがそんな毎日の中でも些細な変化を見つけ、それを楽しむことができるのなら、永遠すら苦痛でなくなってしまうのかもしれない。
日常を見つめ続けたことで得る、確かな解。それを彼女は見つけたに違いない。
だって彼女は、写真を撮る私が嬉しくなるほどの笑みを浮かべているのだから。灰色の永遠ではこうはいくまい。

さて、いい絵も撮れたし私も帰って寝るとしよう。さすが私も一日へばりつくのはちょっと疲れた。輝夜への報告は明日でもいいはずだ。
帰った所で、なんだかいそいそと記事を書いていそうな気もするけれど。








――以上、射命丸 文による蓬莱山 輝夜一日密着取材メモより(文中敬称略)。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




余談であるが、これは輝夜嬢の許可も出ていたのに結局記事には出来なかった。
おそらく彼女から話を聞いたのであろう、もう一人の主役である藤原 妹紅嬢が私の家に殴りこんできたからだ。妖怪の山にある私の家に突撃してこれるあたり、さすが蓬莱人である。それだけ必死だった、ということだろうが。
そんな鬼気迫る彼女に家を丸焼きにすると脅されては、私も例の記事をすぐに印刷することは諦めざるを得なかった。
しかしお詫びだと言いくるめて渡しておいた妖怪の山近辺の温泉郷ペアチケットにより、あの二人の仲が公知された暁には記事にしても問題はなくなっているだろう。
……おや? そのときにはもう彼女たちの関係は幻想郷中に知られてしまっているような……

まあ、いいか。たまには新聞云々を抜きにして祝うということも悪くない。
それに、そのときにはまた別の記事種ができているはずだ。
例えば、幸せな二人がこれからどうやってもっと幸せになる予定なのかのインタヴュー、とか。
それはそれで結構面白いのではないだろうか?

なんて思いながら、私はあの時撮った“会心の一枚”を取り出して眺めた。
写真の中の二人は、やっぱり幸せそうだった。








Back SSpage