「十七時三十八分――四十三、四十四」

空は時を経るごとに建物に侵食されている。しかし、上天を完全に埋め尽くすには至っていない。そのすきまから見える星だけでも時間の計測には十分だが、それすらいずれ埋まってしまうのだろうか。
科学は自然を模倣し、改造することで人間という種を発展させてきた。その模倣はいずれ、空から私達を見下ろす太陽と月と星すら写し取るのだろう。
そうなれば残る自然とは一体なんだろうか。手を加えられたものを自然とは言うまい。定義にもとる。
それとも人間は、その定義の方を変えてしまうのだろうか。
おそらくは、そうなのだろう。元々定義とは、人間が自然を都合の良いように記号化し、扱うために作り出した手法なのだ。いまさら自然に合わせる義理など、どこにもない。

「五十八、五十九、三十九分零」

私の言葉と同時に、向こうの時計の長針が痙攣するように跳ね動いた。公園の中央につったった、のっぽの時計だ。
あの時計もエネルギィが続く限り、それを見る人間に正確に時間を強制的に提供し続けるのだろう。あれが物理的に調律されていて一億年にコンマ以下八桁の零飛んで三秒ほどしか狂わないから、ではない。時計の動きこそが、それを見る者にとっての時間となっているからだ。
元来、時間とは太陽・月・星の動きであったのに、代用品として生み出された時計が今や時間の支配者として人間をがんじがらめにし、君臨している。これもまた、科学が自然を超えてしまった一例だろう。自然を人間が生み出した科学が乗り越えても、その科学に支配されているあたりはなかなか皮肉が利いている。洋風サラダに入れる梅ペーストくらいには利いているだろう。もちろんサラダの野菜も梅も合成素材だが。自然は駆逐されそうなのだ、そう言ったばかりである。天然の植物で残っているものなどウバタマぐらいだ。

「二十一、二十二、二十三」

意味のない思考をしているな、と思う。だが考えないのはさらに暇なのだ。無想は私に合わない。どちらかというと夢想の方が好みだ。
無を想うとすれば、無意味についてだけだ。何故なら無意味を愛する心を忘れてしまっては、世界は危機に陥るからだ。
無意味だからと切り捨てていけば、世界はいずれ無意味なことで埋まってしまうだろう。そして唯一残った有意義を求めて争いあう。それこそが究極の無駄であり、その時点で有意義なんてものは世界のどこからも消えてしまっていると言うのに、人はなかなかそれに気づかないものなのである。それを回避するには無意味を愛すればいい。有意義を追い詰めなければいい。
まとめると、無意味を許容する余裕が平和につながるのだ。ヴィヴァ・ラブアンドピース。世界に広がれ、ヴィヴァ・ラブアンドピース。ヴィヴァはイタリア語でラブアンドピースは英語だけど。いや、これこそが異国の言語が手を取り合っているという平和の象徴なのだ、うむ。

しかし遅いなぁ。私はさっきまでの無意味思考を再びあっさり破却する。多分一分もしないうちに忘れているだろう。そんなことより、相方の遅刻の方が重大だ。
珍しいことである。まさか私の方が待つ羽目になるとは。正直、予想だにしていなかったと言っていい。いつも遅れてくるのは私であり、待っているのは彼女だ。だから待つことには慣れていなかった。おかげで時間のつぶし方もさっぱりだ。どうしてくれよう私の時間。無意味は好きだけれど、それでもさすがに食傷する。これなら遅れてくるんだった。慣れないことはするもんじゃない、次はやっぱり遅れて来よう。
だがともかく、今はこの余分をどう埋めるか。それが問題だ。あまりの暇さに私は真剣に、新しい汎用的かつ効率的な時間の考え始めた。考え始めたのだが、すぐにそれは破棄された。
相手が来たのである。中身の無い暇つぶしは終わりだ。右手を軽く上げ、頼もしき相棒を見やる。

「こんばんわ、メリー」
「こんばんわ、蓮子」

いつかと同じ紫のドレスをまとった彼女は優雅に会釈してこちらに笑みを向けた。それが若干苦笑いじみているのは、やはり珍しい遅刻をしてしまったからだろうか。

「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
「珍しいね。どうしたの?」

問うと彼女は少し表情を変えた。覚えのある顔だ。不安と、それと同じくらいの好奇心がない交ぜになった、そんな顔だ。
これを見たのは確か、メリーの夢相談でも、特に厄介な話をされたときだったか。夢の向こうでお茶に招かれたり赤い女の子に追いかけられたり、果てはクッキーと天然筍のお土産つき。
まったく、夢からどうやって物を持ち込むというのか。彼女はもうちょっと物理学について勉強したほうがいいと思う。私以外に言おうものなら、ウソか冗談と一笑に付されて終わりだろう。天然筍の鑑定を証拠にすればいい? 合成筍は完璧すぎてもはや天然となんの差異もないというのに、なにを比べればいいのやら。もっとも、メリーは加工前の筍の姿を知らないようだけど。
だがなんの証拠がなくても、私はメリーの話を信じている。なぜなら彼女の能力を嫌というほど知っているからだ。
それは、結界を見る能力。この世界と別の世界の間のラインを見取る気持ちの悪い目を彼女は持っているのだ。その力のおかげで何度異様な光景を見ることになったやら。楽しいので一向にかまわないのだが。
しかし最近、その能力が進化してるのか暴走してるのかは定かでないが、メリーの力はもはや見るだけでなく、向こう側に踏み込んでしまえるほどになっているようだ。だからこそ、クッキーやら筍やらを持ち帰れたのである。メリーが考えているような夢の世界ではなく、メリーの目が捉える別の世界から。
それに関しては危惧を抱かないでもない。それは踏み込んだまま戻れない可能性を内包しているからだ。彼女がそのまま別の世界に行ってしまったまま、なんてのは嫌だ。こんなことで彼女とは別れたくない。
そんな私が採った対策といえば、彼女に自分の新たな能力を自覚させることだった。能力とは鋏と同じ。使い方が分からなければ自らを傷つけることもあるが、理解さえすればその力を操れる。その理解には実践が一番。
つまり監視役である私と一緒にあちこちの境目に飛び込めばいいってわけだ。
だから私は今日もメリーに尋ねるのである。

「さあメリー、今度は一体どんなものを見たの?」

今日も境界探しに出かける夜だ。彼女の話はその前菜にもってこいだろう。
組んだ足を解いて立ち上がりながら、私はメリーの言葉を待った。








ウェルズの追憶 〜 See you for next TIME








今、私は夜の石段を蓮子と並んで登っている。目指す先はこの頂上。いつかは着くはずだが、上を見る気力はない。あと何段あるかなど、考えたくもない。長く続く階段と会話は私から落ち着いた呼吸をしっかり盗み取っていた。

「ふうん……雀の鰻屋台に、騒霊の三姉妹ね。おもしろいわ」

隣で階段を上る蓮子は息を切らせた様子もない。同じだけ階段を上っているのに理不尽だ。まあ私のほうがしゃべっている量が多いし荷物も多いから、当然といえば当然だけど。

「その世界はなんて言うのかしら? 名前がないと便宜上困るわね。まあいいか、“その世界”と呼ぶわ。
 その世界はずいぶん平和そうね。妖怪に会ったのに、メリー貴方食べられなかったんでしょう?」
「物騒なこと、言わないでちょうだい。それに、別に私に危険がなかったわけじゃ、ないわ」

蓮子の能天気な推測に、貴方ちゃんと聞いていたの? と顔をしかめる。
私が向こうの世界に行っていたとか言う割に――蓮子の言うことだから根拠があるのだろうし、その話は信用しているが――想像力の乏しい意見をのたまってくれる。妖怪に出会って無事な人間などいるものか。私だって危うく食べられそうだったのだ。暗闇が本当の闇にすり替わり、無邪気な声がいただきまーすと降ってきたときには生きた心地もしなかった。
私が生きているのは、比喩でもなんでもなく目の前が真っ暗になって数秒後――いまさらのようにその妖怪は「神社も近いしやっぱりやーめた」と襲うのを止めたからだ。
死を覚悟したのに、なんということだ。覚悟損である。ストックが一個減ってしまったじゃないか。今度襲われた時、ストック切れで覚悟できないまま死んでしまうかもしれない。それじゃあ未練たっぷりで亡霊行きになってしまう。
あまりの悔しさに、私は能天気に笑いながら姿を見せた妖怪相手に感じた不満をまくし立てた。今思えば頭の回路が一本二本ショートしていたのだろう、そうでなければ妖怪相手に説教などするはずがない。言葉はともかく、人間の理論も倫理も通じるわけがないのだから。
だが、彼女は私に勢いに押され、戸惑い、背中の羽根を慌しく羽ばたかせた。私がよっぽど怖かったらしく、涙目でタダで自分の経営する屋台に招待するから許してくれと言い出したのは説教開始から三分ほど経過したころだった。
冷静に考えてみれば、妖怪に襲われて命があるだけでも幸運なのに、さらに食事に招待されると来た。こんな幸運またとない。私はその提案に飛びついた。今考えるに、その時まだ頭のラインはショート中だったようである。
そうして案内されたのが、彼女が経営する八目鰻屋台だった。夜雀の鰻屋台として、このあたりではそれなりに有名らしい。八目鰻なんて初めてだったが、勧められるままに食べてみると実に旨かった。甘くコクのあるタレと柔らかな食感がなんとも言えぬハーモニィ。おお、八目鰻とはこんなに旨い物なのか、これは人生損していた。脳内で好物リストの上位にその名前を付け加えつつ、私は身のなくなった串を皿に置き、新たな串を手に取った。
と、店主の妖怪が顔を上げ、羽根のような耳をぴくりと動かした。耳を澄ませば、それは私にもすぐに聞こえてきた。長く伸びる悲しげな弦音に高らかに鳴る騒がしい管音、ベクトルの真逆な二つの音色を幻奏音がつなぎ止めている。同時に、幻奏音だけでは感じられない肉感を二つの音が補強する。素人耳にも相当な演奏なのはすぐ分かった。ここまで息のあった演奏など聞いたことも無い。
思わず食事の手も止めて聞きほれていると、店主から歌っても気にならないか、と声がかかった。夜雀と言えば音の怪。音を出さねば甲斐がない、つまり存在が危うくなる。同じく音の怪であるセイレーンは歌を歌わなければ翼が枯れてしまい、死んでしまうなんていう世界だってあった位である。それに陽気な酒は嫌いじゃないし、うるさいのは蓮子で慣れている。店主が注いでくれた蓮台野とか言う酒――店主はついこの間、村で作られた新酒だと言っていた――をなめながら、私は二つ返事でうなずいた。
それからの時間は見物――いや、聞き物だった。いや、あそこでうなずいていて良かったと心底思った。さすがは音を生業とするものたち、手放しで賞賛するしかないコンサートだった。やがて姿を現した騒霊三姉妹と夜雀に、私は惜しみない拍手とアンコールを酒を片手に送っていだ。彼女たちがそれに応えること三回、実に騒がしく楽しい夜だった。

「で、これが、そのお酒と、鰻よ。小瓶だし、冷めちゃってる、けど」
「……呆れた。そんなもの持って来るから息が上がるのよ。しかもご丁寧にバックに隠してだなんて」
「この方が、いいでしょう? なんというか、サプライズって、やつよ」

にやりと無理に笑うと、蓮子は同じ笑みを自然に返してきた。まだ余裕があるということか、みせつけてくれる。話の引き合いに蓮子を出したのが気に入らなかったらしい。とはいえ、対抗できる余力がないのも確かだけれど。
息をつき、肩を震わせながら上るうち、ようやく終わりが見えてきた。最後の石段を、だんっ! と音がするほど強く踏み込み、私は踏破してきた道を見下ろすように背中を伸ばす。

「あー、ついたー」
「ついたわね。でもここが最終目的地じゃないんだから、このくらいで疲れてちゃお話にならないわよ?」

蓮子がやれやれといった調子で嘆息する。わかっていると言い返したいところだが、この様子では説得力はまるでないので止めにした。
代わりに私は視線を上へ向ける。階段の両側に立つ柱の先、小さな鳥居が存在していた。そこには“博麗神社”とかすれた文字で書いてある。
何度か蓮子と話題に上った神社である。なんでも大層いわくつきの神社なのだとか。なにより小さいとは言えこれほど古風な佇まいが残っていながら、観光客もさっぱりない、話題にも上らないということ自体がおかしい、蓮子はそう力説し、ここの探索を前々から切望していた。それが今日ようやくかなったというわけである。
そう言われて来てみたわけだが、たしかにここは強烈であった。まず結界の数が洒落になっていない。その上、強固さも脱帽ものだ。あちこち蓮子に連れられて、様々な結界を見てきたが、ここほどのレベルは片手で数える程度だろう。
俄然興味がわいてきた。私とて秘封倶楽部の一員である。謎に対しては貪欲なのだ。

「それで、どこから見ていくの? 結界がありすぎて、正直選り取り見取りって感じよ?」
「へぇ、そんなに。私にはさっぱりだわ」

肩をすくめる彼女と共に鳥居をくぐり、手水場で手をすすいで獅子狛犬を横目に参道を進む。灯のともらない灯篭を目印に、正中を避けて奥へ奥へ。
たどり着いた行き止まり、闇にたたずむ拝殿の前で足を止めた。大きさはいたって普通の小さな社だ。しかしそんな表面上のことはおいておくとして、

「これはまた、すごいのが……」

拝殿の奥、おそらくは本殿の前に張られた結界は、もはや線などではなく壁であった。結界とは此処と其処を区切る境界線――線である。というか、それで十分なのだ。だがこれは、それを三次元にまで拡張している。こんなものは見たことがない。近いものがあるとすれば……ああ、私が知っているものでは伏見稲荷が一番近いだろうか。数で重厚さを出すという設計思想は、単一で強力な結界を作り上げているこことは異なっているが、効果としては同一のところに位置にいると思う。

「で、どうなの?」

隣から飛ぶ能天気な声。ああ無知って素晴らしい、こんな、畏れすら感じさせるモノを前にして暢気でいられるなんて。
だがそれに救われることもある。例えば、その言葉でようやく動けるようになった今の私のように。

「すごいを通り越してヤバいわね。できればほかの所まわった方がいいかも」
「メリーがそういうならここはやめましょう。こっち側・・・・のこのあたりを見てまわるだけでも楽しそうだし」

さほど残念がることなく蓮子は拝殿の階段を上る。後を追い、賽銭箱の前で横に並んで、一揖いちゆう、古ぼけた鈴をがらんがらんと高く鳴らしてお賽銭を放り込む。二礼、二拍手、一礼と、慣れた流れで参拝を済ませて拝殿を後に――と、

「蓮子、あれ何かしら?」

拝殿の隣、今まで気がつかなかったが、小さな池がある。立て札があるし、なにか曰くありげだ。見たところものすごい結界があるわけでもない。危険もないだろう、たぶん。

「ん、どれどれ」

テンポよく階段を下りた蓮子は軽い調子で池の前に歩いていった。まったく、ちょっとくらい待ってくれないものだろうか。
バッグを揺らせて私が追いついたとき、蓮子は既に立て札を読み始めていた。この暗いのに星明りだけでよく読めるものだ。

「えーとなになに。鏡池――っいくら円形っぽいからって安直な名前ね――だって」
「愚痴はいいから謂れを教えてちょうだい」

底が見えるほど浅い池を覗き込みながらため息をつく。安直とは見える本質をずばり言い表しているのだ、とこの前力説していたのは自分だろうに。
ふと吹いた風に水面がざわめく。黒い水底には空の星がいくつも落ちていた。

「はいはい。なんでも、ここを覗くと不思議なものが見えるらしいわよ」

蓮子の言葉を聞いて、改めて池を見直す。当然かもしれないけれど、不思議なものは映っていない。ただ黒い水がどろりと居座っているだけだ。

「不思議なものって、具体的じゃないわねぇ――て、メリー?」

蓮子の声が聞こえる。聞こえるけど、聴こえない。意識の大半が水の黒とわずかな光に持っていかれている。目を離せない。
手が水面に伸びる。するすると、意識とは別に。

「メリー! やめなさい!」

蓮子の強い静止に、ようやく私は意識を取り戻した。
だが同時に、指先がわずかに水に触れ、静かに波紋が広がった。揺らぐ鏡に突き刺した私の指。
一瞬をおいて、私は思い切り池に向かって引き込まれていた。

「メリー!」

私には叫ぶ間すらない。だがその間に、蓮子は私のもう片方の手を掴んでいた。それでも止まらない。もう私の腕は肘まで飲み込まれている。
まずい。このままでは蓮子まで。
とっさの思考に体が追いつき、私は手を離そうとして、逆に強く捕まれた。
水に落ちる直前、最後に振り向いてみた蓮子の顔は笑っているように見えた。
どぼんと水に落ちる。底すら見えた浅いはずの池は、私の身体をあっさり受け入れ、意識すらも飲み込んだ。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




まぶたのうらが明るい。ひざしが直にきているのか、目をとじているのに視界がしろい。
きのうカーテンをあけたままにしていたのか。星でもみていたか私。でも閉め忘れはうっかりすぎやしないだろうか。
うめきながら顔をそむける。ねむい、もう少しねかせろ。ごろん。じゃり。
顔に何かかたい壁が当たる。なにをベッドに持ち上げているんだ、もしや昨日、本を見ながらねたか。あれ、星は? まだ明るいし。
戯言を言っていても暗くならない。ベッドもかたくて寝苦しいまま。こんな調子じゃ寝ていられない――

「く、うう……」

目を開ける。明るすぎる世界に、瞬きをして、

「え……なにこれ」

深緑溢れる見たことのない景色に包まれていた。漂う青っぽい匂いは草の香りか。前のときと同じ香りだ。
服についた土を払いながら立ち上がり、まわりを見回す。光が差す程度のまばらな木々に囲まれている。少し傾斜があるから、丘か山裾か、そういう場所だ。前に訪れた異界の経験から、どちらかと言うと後者かな、と見当をつけた。
ちなみに、ここにいるワケは勿論もう思い出している。さすがにそこまでボケてない。私は、境界を越えたのだ。

「――って、蓮子は!?」

まだボケていたらしい。こんな大切なことにすぐ気づかなかったなんて。あの時手をつないでいた、私の隣にいるべき相方がいない。叫んでみるも返事はない。
血の気が引く。一瞬だけ暗くなった視界と揺れる世界に、踏ん張った足で気を入れる。落ち着け、落ち着け、クールになれマエリベリー。今私が錯乱すると蓮子がひょっこりやってくるのか? そこらの茂みから笑いながら顔を出すのか? 答えはノーだ。後者もたぶんノーだろう。さすがの蓮子も、そこまで空気読めなくはない……と思う。ならば、ならば黙って考えろマエリベリー。

状況は? 見知らぬ場所に一人ぼっち。北も南も、そもそもここが何なのかすらわからない。

……これはかなり、まずいのではないだろうか。私一人ならどこか境目を見つけて元の世界に帰ることもできる。だが蓮子には、帰る術が存在しない。月により位置を判じる彼女だが、それをもってしてもこの世界からは抜け出せない。彼女では境界を越えられないのだ。

「つまり、まず蓮子を見つけないといけないわけね」

まず一つ、蓮子との合流を条件として設定する。それにはどうすればいいだろう。とりあえず考え付くのは、周りを探す。それでも見つからなければ、彼女が私と同じように目を覚ましたとき、向かうだろう場所にいることくらいか。運が絡むが、蓮子のことだ、不思議そうな場所に行けばなんとかなるはず。

「では一丁、気合を入れて行きますか」

近くに落ちていたバッグを拾う。中に入れてあったお酒の小瓶と鰻のパックはしっかり残っていた。食事の心配はどうやらしなくてすみそうだ。ほんの少しだけの幸いか。ないよりマシだ、大きさは気にしない。あるとないの間には、無限のすきまが横たわっているんだし。
それでは暗い気持ちを切り替えて、この世界を素直に楽しむために、蓮子を探しに行くとしよう。




結果を言うと、周りに蓮子はいなかった。おおよそ一時間ほど探し回ったが、蓮子の服の欠片すら見つからない。まあ欠片がみつかったらみつかったらで、不安は五割増になるのだが。

「それにしても、また階段か……今日は、上ってばかりね。位置エネルギィが、体のどこかに、溜まってないかしら」

息をつきながら石段を上る。見上げた先には赤い鳥居が見えた。そう遠いわけでもない。稲荷でもないくせに、赤い鳥居とは奇妙だな、なんて考えながらひたすら上る。

一時間を蓮子の捜索に費やして、彼女の痕跡こそ見つけられなかったが、一時間そのすべてが全く無駄に終わったわけではない。蓮子の代わりに、私はこの石段を見つけたのだ。ちょうど今日、この世界に来る前上ったあの石段にひどく似ているこの石段を。先にある鳥居まで同じである。きっとそこには、博麗神社、と書いてあるのだろう。
予測の理由は簡単だ。前にもここと同じように、結界を越えてなお“同じ場所”というものを見たことがあったからだ。
蓮子は、結界によってはこういう場所もありえるのではないか、と言っていた。結界と大きく関わりを持っているものはその影響力ゆえ、そうでなくても結界が薄ければ薄膜を通すようにじんわりと双方に影響が出て、結果として同じような場所ができるのだ、とか。たとえるなら、一部がつながったピザみたいなもの、らしいが……蓮子のたとえはよく分からない。
まあ理屈はともかく、そういう場所を過去に見てきて、それが今現在目の前にもある。蓮子が強く興味を持つだろう場所が。

「ここなら、蓮子も、そのうち来るわよ、ねっと」

いつのまにか間近にあった最後の石段を、あの時と同じく力強く踏みあがる。朱塗りの鳥居にはしっかりと博麗神社の四文字。視線をおろすことで広がった光景は、元の世界の神社に比べて広かったが、大体のところは一緒だった。
一番大きく違うところは、この神社は何者も拒まないかのように開かれているところだろうか。普通神域は俗世から区切られるべき場所だから何らかの境界が引かれているのが普通だし、向こうもそうだった。
しかしここはそんな拒絶が一切ない。自由なのだ、ここは。もしくは怠けているか。後者だとしたら最悪である。

「あら、参拝かしら。それなら素敵な賽銭箱は向こうよ」

突然、声が飛んできた。驚いて見れば、さっきまで誰もいなかった境内に黒髪の少女が箒を抱えて立っていた。
紅白の、おめでたそうな格好の少女だ。頭上でゆらゆら揺れているリボンが、おめでたさをさらに引き上げている。おめでたいおめでたいと連呼しているが、他意はない。決して。何がは聞くな。
贔屓目に見れてあげれば巫女服に見えなくもない彼女の服は、腋がばっさり開いていた。巫女服にしてはいろいろと神聖さを犠牲、もしくは台無しにしているデザインだ。コスプレだ、と言われた方が納得できる。事実、ここが神社でなければそう判断しただろう。それともこの神社は腋の神様でも奉じていて、巫女は常に腋を見せていないといけないのだろうか。年一度の例大祭には、巫女が脇を見せながらお神楽を奉納するとか。なにそのキテレツゴッド。キテレツすぎて逆に見てみたくなるじゃないか、その祭り。
まあいい。格好は気にしない。個人の自由だ。自由は尊重されなければならないし、そんな瑣事より人がいたという事実の方が重要だ。それも、私も理解できる言葉を話している。ならば、それがあまりにおめでたそうな巫女でも、僥倖と言うべきだ。

「こんにちは。ええと、少し聞きたいことがあるのだれど――いいかしら?」

声を掛けながら思う。私の現状をどう説明すればいいだろう。結界を越えてきた、なんて言って通じるとは思えない。しかしそれが事実であり、そう説明する以外ない。
それに、もしも――ずいぶん希望的な観測だが――彼女が協力してくれるなら、それは実に心強い味方になる。巫女なら神社の由来とかにも詳しいはずだし、もしかしたら身に着けているかもしれない占術で蓮子を見つけてくれるかも。
きょとんと首をかしげる少女を前に、私はどうにか今までのことを話し始めた。
――蓮子の無事を心から祈りながら。神社だし、他の場所より願いは叶いやすいだろう。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「あぁもう、どこまで行っても森ばかり! これじゃあ、事もなしとは言いがたいわね」

鬱蒼と続く森の中、木の根をよけながら私は叫んだ。どこまでも続く森はとにかく歩きづらい。足場が悪いのだ。長時間、平らでない道を歩くのはなかなか疲れる。足元に生えた草丈は短いが、こう木の根が多いとさほどありがたいとも思えない。
その上、こちらの世界は真昼間。自分の位置を知ろうにも、月は影も形も見えない。そもそもこの世界で私の能力がどこまで通じるか定かではない。
仕方なしに太陽から方角だけでも見当をつけ、南に適当に歩いているのが現状である。もちろん、南に何か私の助けになるものがある保証はないし、そもそもここでは太陽が本当に東から昇るのかすら疑問符がつく。西あたりから太陽が昇るという伝承も、どこかで聞いたことがある気がするし。

気弱にもなる。現状は不確定要素ばかりで、己の行動は正しいかどうかわからない。ちょっと叫んで、少しでも不安を減らしたくもなろうというものだ。
お分かりいただけただろうか、先ほどの叫びはそういうわけなのである。間違っても無駄な行動などではない。私とて学問を修める者の一員、無駄なことはやらない主義だ。意味のないことはよくやるけど、あれは意味のないことを愛しているからやっているのであって、無駄ではない。愛しているんだから無駄ではない。というか、学者とは日常に散らばる無意味を無駄にならないよう意味づけして保護するのが役目である。無駄を嫌い無意味を好むのは当たり前なのだ。

馬鹿なことを考えていたら調子が戻ってきた。弱気は性に合わない。いくらメリーが隣にいないからとはいえ、この程度でヘタれるようでは今後困る。
気合を入れなおし、前に進む。ちょうど今で、目覚めてからおよそ一時間三十二分五十三秒経った。月こそ出ていないが、昼間でも私の目なら星を見て取ることはできる。それにここは空気がいい。空がよく見える。

「それにしても迂闊だったわ」

一際大きな幹を迂回しながらつぶやく。まったく、迂闊だった。あの立て札を読んだとき、すぐに気づいてもよかっただろうに。
不思議なものが見えるってことは、つまり――

「――ただの人でも見えるほど向こう側との境が薄い・・・・・・・・・・ってことじゃない」

そんなところをメリーが刺激したらどうなるかなど、予想するのは実に簡単だったのに。彼女の力を安定させようとして暴発させるなんて、眩暈がするくらい情けない。してしまったことは仕方ないが、次に生かせないようではまずいので今後気をつけることにする。要注意項目Aだ。ランクで言えば、自宅近くのケーキ屋の最速四分十二秒で売り切れる人気ケーキの購入可能時間と同じくらいの重要事である。

「ん……?」

考え込んでいる間に迂回し終えていたのだが、そこに広がっている景色は予想外のものだった。
さっきまでは見渡す限り――といっても、視界は遮られていたのだが――木が詰まっていたのに、今やそれらは消えていた。正確に言うと、木々の数がまばらと表する程度に落ち込んでいたのだ。しかもさっきまでは檜ばかりだったのに、いろいろ雑多に増えている。あの蕾は桜だろうし、向こうの花は梅に間違いない。藪椿ヤブツバキまである。
加えて、木と木の合間にさっきまでは絶対になかったものが今はあった。屋敷だ。茅葺きの、木造と思わしき大きな屋敷が向こうに見えている。中ほどで直角に折れ曲がったあの構造は、確か曲り屋とか中門造りとか言ったか。とっくの昔に消えてしまった民家の形だと聞いている。
いや、構造とかはいい。とにかくあれは人工物で家だ。ならば住む者が居てしかるべきである。

「あとは相手が話せるやつなのを祈るばかりか……」

神社のメリーの話を思い出す。私も妖怪がそういうものだと理解はしているが、実際喰われるのはご免こうむる。そのときは……まあ、がんばって逃げ出そう。
心を決めて一歩踏み出す。そのときだった。

ガサガサッ

激しい葉擦れの音に驚いてそちらを見る。仰角四十五度、一際高い山桃の木の上に彼女は居た。
どこか大陸風の服をまとった少女である。年の頃は私よりいくらか年下ぐらいか、幼げな顔が小柄な身体によく似合っていた。チャームポイントなのだろう、頭に乗せた緑の帽子も可愛らしい。愛らしさという点で見るなら手に持った枝切バサミはいただけないが、庭木の手入れ中らしいのでそれは仕方がないことだ。
それだけならよかったのだけれど、と内心ため息。私にとって問題なことに、彼女には耳があったのだ。人の耳ではない。こめかみ辺りからにょっきり大きく生えているのはやわらかそうな猫耳だった。ついでにスカートの裾からは、これ見よがしに黒い尻尾が伸びている。それも二本。
どう見ても化猫だった。猫又である。いきなり妖怪に会うとはついてない。
思わず強張る私だったが、彼女はいまだにこちらを樹上からきょとんと見下ろしている。今の間に逃げられるだろうか。下手な刺激が命取りになりそうだが、ああこの緊張が怖い。
しばしの沈黙。しばしの間。それを経て、猫又少女はにっこりと笑った。実に邪気のない、愛らしい笑みだった。
そして彼女は高らかに叫んだ。

「お客さまだ、お客さまだ! 久しぶりのお客さまだ!」

叫ぶなり枝を蹴り宙を舞い、見事な着地で地に下りる。見とれている場合じゃないが、お客さまとは気になる言葉だ。
近づいてくる少女に、逃げようか逃げまいか迷った私は――メリーの話と、彼女の第一印象に賭けた。チップは私の命まるまる一個だ。どうか勝ちますように。信じもしない何かに祈って足を留める。
少女は枝切バサミを山桃の根元に置き、こちらの前までてくてく歩いてきて――丁寧に一礼した。

「いらっしゃいませお客さま! ようこそマヨヒガへ。ささ、屋敷にどうぞー!」
「え、う?」

彼女が私の手をひっぱって屋敷の方に歩いていく。マヨヒガ? マヨヒガと言ったか、この少女。それは確か遠野物語にある幻想の屋敷ではなかったか。友好そうな態度といい、まだ確定とはいえないが、これは当たりを引いたかも?
種類も位置もまばらな木を避けながら、手を引かれるまま見えていた屋敷を通り過ぎる。近くで見るとやはり大きい。しかも向こうにもっと大きな屋敷がある。向こうの屋敷は、曲り屋をいくつも合体させたみたいな妙な形をしていた。無作為に改築を繰り返して行ったらこうなりました、みたいな。あれが本邸、そして猫又の言う屋敷のようだ。
その本邸の前に、また一つ人影があった。いや、あれを“人”影と言っていいのかはわからないが。
なんせもっふもふなのである。理解していただけるだろうか、もっふもふである。具体的に言うと、ふかふかそうな尻尾が袍服の向こうに九本生えていた。そりゃあいくら人の姿をしていても、影が人の形をしているはずがない。ちなみに人型の方は実にスタイルのいい女性型。さすが九尾、うらやましいほど魅力的な体型である。伝承にある玉藻御前も、あんなふうにナイスバディだったのだろう。平安当時と今の美的感覚には大きな差があるという反論は却下だ。九尾なんだから、要は美しく化ける技術がものをいうのである。なら今美しく化けているんだから、当時だって平安時代に合わせた美しさを誇っていただろう。ああ、うらやましや。
――以上が、九尾の狐なんていう神話級の妖怪が竹箒で庭掃除なんかしてるという光景を見て、混乱のあまり逃避気味に浮かべた思考だった。というか、あのレベルになると妖怪ですらなく御遣いとかそういう位階のはずなんだが。それが庭掃除……本当に庭掃除だ。庭掃除に見える神事とかそういうのじゃなくて。ここには宇迦之御魂神でも住んでいるのか? それでも最高位の九尾がやらなくてもいいだろう。そんな人手――多少語弊があるが――不足なのだろうか。世知辛いなぁ。いかん、まだ混乱してるかも。思考内容があまりにあほらしいぞ、私。さっきまでの高尚な思考はどうした。

「藍さま、藍さまー! お客さまです、五年六ヶ月と三日ぶりの!」

えらく几帳面に少女が叫ぶ。なかなか感心な猫又である。正確さは美徳だ。秒数まで行かないのがいささか残念であるが……よし、これこれ。いつもの私に戻ってきた。
少女の声に九尾を揺らせて、藍と呼ばれた女がこちらを向く。頭の頭巾――形状から予想するに、中には耳が詰まっているのだろう――もひょこりと揺れる。彼女は直ぐに掃除の手を止め、こちらにゆったりと歩いてきた。まだ幾分あったはずの距離が魔法のように数歩で縮まり、気づいたときには彼女は私の前で丁寧に中国式の礼をしていた。

「ようこそお客人。良くぞ参られた。この子から聞いただろうが、ここはマヨヒガと言う。たどり着いた旅人は歓待するのが習わしだ。どうか楽しんでいって欲しい」
「あー……歓迎してくれるのはありがたいのだけど、ちょっといいかしら?」

ん? とこちらを見返す藍に告げる。
できる限り落ち着くように深呼吸を一ついれ、

「この世界は、いったい何なの?」

自分がものすごく、いろいろと置いてけぼりにされているということを。




理解に要した時間は、およそ数分で済んだ。八雲 藍と名乗った狐の説明が、要点を抑えていて上手かったからだろう。上手すぎてなにか、報告慣れしている感じがしていた。働かない上司に今日の業務を逐一説明する部下、みたいな。失礼な想像かもしれないが、そういう苦労性染みたオーラがそこはかとなく漂っていたのだ。
その上手な説明により理解したこの世界。私のような人間にとっての幻想が跋扈し、現実が棄却される不思議の里。それがこの幻想郷。
説明を受けながら案内されたのは、一見ごくごく普通の和室であった。床の間に飾られた水墨画が見事だったので思わず見入ってしまったが、隅に“可翁”とかいう印が捺されているのを見つけて余計に見入ることになった。さすが幻想郷、幻の一品がざくざくである。いい仕事してますねぇ。

「失礼しまーす」

障子の向こうから猫又少女、橙の声。続いて障子が引かれて、彼女がお盆を持って入ってきた。乗っているのは急須に湯飲み、それに紅白の大福だ。
昔に旅行したときに泊まった旅館を思い出す。あの時もこういう歓待をうけたなぁ。
橙は静かに湯飲みに、淡い琥珀色の茶を注ぐ。溶け出すように香るこれは……桜だろうか。

「桜の焙じ茶と、いちご大福です。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう。頂くわ」

春の茶に春のお菓子、とそういう趣らしい。桜の焙じ茶というものは飲んだことはないが、香りに誘われ湯飲みを傾ける。思った以上に薄めで飲みやすかった。桜の味というのはわからなかったが、そもそも桜を食べた覚えがない。ならばこの味が桜なのだろう。
添えられていたイチゴ大福の味も、まったくもって満足いくものだった。ひょっとしたら私がよく食べる糖月堂のより美味かったかもしれない。粒餡は一歩及ばなかったが、漉し餡が絶品だったのだ。漉し餡派のメリーがいたなら泣いて喜んだだろう。

「どうですか?」

そわそわ、というよりはわくわくと表現できる様子で橙がこちらを見つめている。
私は端的に答えてみせた。

「最高。おいしかったわ」
「よかった!」

花開くような、とはこういう笑顔を指すのだろう。彼女は実に晴れやかな、満面の笑みを浮かべた。思わずこちらまで微笑んでしまいそうになる。

「それは藍さまが作ったんです。紫さまがこし餡とかお好きだから、この季節はよく作られるんですけど。
 それであの、よかったら――」
「ええ、後で感想とお礼を言わせてもらうわ。おいしかったもの」
「ありがとうございます!」

ああ、いい子だなぁ。猫って会話できたらこんなにいい子ばかりなのかなぁ。何で私、猫と会話できる程度の能力じゃなかったんだろう。猫のコミュニティって情報豊富そうだし。絶対面白かっただろうに。
それからしばらくの間、私は彼女と世間話に興じることにした。世間話と馬鹿にするなかれ。“世間”、つまり幻想郷の話である。向こうにとってはなんでもない情報でも、私にとっては貴重な一報になる可能性は高いのだ。
その中で出た、最も興味深い言葉は、

「ねえ、そのユカリサマがここのご主人なの?」
「そうです。紫さまは藍さまの主さまで、だからわたしの主さまの主さまなんです。私は藍さまの式――なんだけど、ほとんど見習いみたいな感じかなぁ。はやく立派な式になりたいです」

これである。なんとあの藍は式なのだそうだ。九尾の狐を式にするとはどんな存在なのだろう。ユカリサマなんて神様いたっけか? 名前的なノリはほとんど学校の怪談と変わらない。ソージサマだとかそんなんと同レベルの音律である。

「紫さまはすきま妖怪っていう、とてもめずらしい妖怪なんだそうです。わたしも紫さま以外にすきま妖怪を見たことありません」
「すきま妖怪。なんか変わった妖怪ね」

聞いたことのない妖怪だ。弱そう、と思ったことは口には出さない。それが社会常識というやつであるし、あの藍の主が弱いはずはないだろうという常識的な判断の結果である。
しかしすきま妖怪、いったいどんな存在なのか。次はそれを聞こうとして口を開きかけたとき、

「橙? 誰か来ているの?」

廊下の障子に影が映った。今度こそ間違いなく人影である。聞こえた声は彼女が出したものだろう。
橙が嬉しそうに振り向き、声を上げた。

「紫さま、おはようございます! お客さまです、お客さまがいらっしゃってます!」

ユカリ、ということは彼女がマヨヒガの主か。すきま妖怪だから平面系を想像していたのだが、早とちりだったようだ。障子の向こうの影からは、確かな質感を感じられた。

「あらあら、それはご挨拶しないといけませんわね」

影は戸に手を伸ばし、音もなく開けた。白い壁がなくなり、彼女の姿があらわになる。
彼女の第一印象は白と、紫だった。ああ、名前の字は紫なのだろうな、と納得する。私は縁とか連想していたのだ。
彼女が着ていたのは着物だった。大陸風味の二人に比べれば、ある意味一番マヨヒガらしい服装をしていたと言える。
羽織るように肩にかけた薄紫の桜を散らせた打掛に、純白の小袖。眩しいほどに白い小袖だが、彼女の結い上げた金髪が一筋垂れた首筋あたりから、ゆらりと紫糸が清流のようにたゆたっている。その行き着く先は裾の、同じく紫で形作られた大蜘蛛の口。なかなか思わせぶりな織込みだ。確か蜘蛛神は水神の一つなんだったか。それをイメージしているのだろうが、正直、真に迫りすぎて怖いほどの技巧細工だった。ううむ、さすが幻想郷リターンズ。物品だけでなく、伝説級の技でもお手の物ということか。本当、いい仕事してるなぁ。
そんな風にゆっくりと観察できたのは、彼女が驚いた顔で私をじっと見ていたからだ。
隣の橙が不思議に思うほどに。私ですら一瞬、どこかで彼女と会ったことがあるのではないか、と勘違いするほどに。

「そう。今日、だったの」

彼女の唇が震え、小さく言葉を紡ぎ出した。嘆息染みたその声音を聞き、橙が素直に首をかしげる。

「どうしたんですか? 紫さま」
「ああ、お客様が来ることは分かっていたの。それがまさか、今日だとは思わなくて」

座ったまま見上げる橙に微笑み返し、彼女はするりと座敷に入ってきた。その動作に衣擦れの音すらしない。なるほど、どんな意味があるのかは分からないが、こういうところは確かに妖怪だろう。そのまま音も立てずに私の向かい――橙の隣に座り、改めてこちらを見た。

「いらっしゃいませお客様。私は八雲 紫。この子達の主と、ついでにマヨヒガの暴君をしているの。
 あなたのお名前をお聞きしてもよろしいかしら?」

妖艶に笑う彼女。これがすきま妖怪、か。対面してもその凄さは分からない。分からないというのが彼女の特性なのかもしれないが、そこらへんは私には分からない。
だが、予想できることもある。先ほどまでに橙から聞いていた彼女のエピソードから立てた推論だ。

「宇佐見 蓮子。宇佐神宮の宇佐に見解の方の見る、それと蓮の子と書くわ」
「ずいぶん個性的な紹介ね」

小さく紫が笑う。その隣、橙があいかわらず首をかしげているが、無理もない。

幻想郷で宇佐神宮などと言っても・・・・・・・・・・・・・・・分かるはずがないのだから・・・・・・・・・・・・

推論は確信に変わった。八雲 紫は間違いなく私たちの世界への干渉手段を持っている。そうでなければ大分の神社の漢字など、知っているはずがない。あの神社はまだれっきとした形で存在していて、幻想とは程遠いところにあるのだから。
大福もお茶もおいしかったし、橙はかわいいし、不思議がいっぱいと、ここはまさに無可有の郷マヨヒガだ。
しかし、私にとって最も必要な人がここにはいない。だから残念ながら、ここに留まることはできない。
私はそれを取り戻すために、目の前の妖怪に向けて言葉を紡いだ。

「ねえ紫さん。いきなりで申し訳ないけど、質問を一つ。ここがマヨヒガってことは、私はここから何か、一つ小物を持っていっていいのかしら?」
「ええ、そういう決まりですわ。マヨヒガですもの」
「その小物、持ってかないから代わりにちょっと頼み事しちゃいけない?」

あくまで気楽に持ちかける。相手は妖怪だというのに、のんきなものだ。いくら橙や藍が歓待してくれ、敵意のない様を見せてきたとはいえ、妖怪相手にこれほど気を許すものなのか。我ながら呆れるほどである。これではメリーのことを言えたものではない。
しかし、ここならそれが許されると、何故かそう感じたのだ。理由なんて無粋なものは考えない。

「私の親友がね、私と同じように幻想郷に落っこちてるはずなのよ。
 彼女のところに送って欲しいのだけれど、だめかしら?」

まっすぐに八雲 紫の瞳を射る。橙はどんな顔をしているだろうか。今の私には見えない。見えたのは、紫の真剣そうな顔と――直後の、微笑だった。

「橙、彼女はどうだった?」

唐突に紫は橙に尋ねた。問われた橙は即答する。

「楽しかったです。外の世界のこと、いっぱい聞きましたし、お友達のことも聞きました。
 大切な、大切な人なんだって」
「そう、楽しいお話をしてもらったのね。
 それはつまり、私たちにはその楽しいお話のお返しをする義務があるということ。過不足がないように、ね」

かみ締めるように繰り返す。何か誇らしげに頷いて、彼女は己が式の名を呼んだ。

「藍」
「御側に」

声が消えぬ間に、紫の隣に藍が恭しくかしずいていた。その唐突な出現を、不自然とは思わない。紫の隣こそが彼女本来の位置と、納得させるだけの気配とか忠節がそこにはあった。
紫も彼女の忠誠を、主故の当然として受け止める。彼女がここで揺らいでは、それこそ藍の誠心が無駄になる。実に正しい主従のあり方だ。

「私の部屋に、これくらいの大きさの漆箱があるの。持ってきてちょうだいな」
「――承知しました」

紫の示した大きさは、新書サイズといったところか。
それより気になったのは、命を聞いた藍が怪訝な顔をしたことである。すぐに消えたが、あれは間違いなくほんの少しの疑問であった。気にはなるが、その理由を聞く間もなく彼女自身も無音で姿を消した。
程なくして、再び藍が現れる。その手の中には確かに一つ、つややかな漆塗りの箱があった。

「御待たせしました」
「そう、これこれ」

捧げるように差し出された箱を受け取って、八雲 紫はこちらを見やる。

「お友達がどこにいるのか、それは私にも分からないわ。でも、見つけられそうな子には心当たりがあるの。神社で巫女をしていて、その手のことなら抜群なのよ。勘が良過ぎるくらい良いの。
 おまけをつけるから、その子のところに送るってことで手を打ってくれないかしら?」

彼女の提案に、ふむ、と思案する。今更ここで嘘をつく必要もないだろう。おまけというのも興味がある。差し引きあたり、私のデメリットは少なそうだ。
私はその条件で構わないと頷いた。

「ありがたいわね。それじゃ、これがおまけ」

言って彼女は、藍が持ってきた小箱を机に置いた。おまけとはこれのことだったか。あらかじめ取りに行かせるあたり、まるでこちらがどう返答するか予想していたかのようである。
目で確認してから、箱を開ける。中にあったのは――

「リボン?」
「ええ。その帽子にでもつけてみたら? マヨヒガの一品だから、幸運がざくざくですわよ?」

ざくざくとはまた胡散臭い言葉である。いまどき通販のあおり文句にも使われまい。マヨヒガの品、というプラス要素に若干ケチがついてしまった。もちろんまだまだプラス評価だが、主がこの分では保証書付とはいかないようだ。クーリングオフ、なんてのも無論ないだろう。しかし、おまけにそこまで期待するのも酷である。グリコだって、おまけはちょっととしたものなのだ。
私は取り出した太いそのリボンを、言われたとおりに帽子に巻いてみた。黒い帽子に白いレースを施した赤リボンというのは、似合っているのか微妙なところだ。
が、橙の趣味には合っているらしい。うらやましそうにこちらを見ていた。

「お似合いですよっ」
「ありがとう。うん、結構気に入った」

本当は橙にそう言われてからその気になったのだが、嘘も方便である。橙の笑顔を壊す必要もない。
鏡はないが、勘で帽子の位置を微修正。満足したところで紫が声をかけてきた。

「さて、それじゃあ向こうにお送りするけれどよろしいかしら?」
「あ、その前にちょいと」

手を上げて止める。まだ一つ、約束を果たしていなかった。
変わらず紫の側に控える藍に声をかける。今度は視界の端に、残念そうな橙の顔をちゃんと入れながら。

「藍さん、お茶もお菓子もおいしかったよ。ありがとね。
 ただ私的には粒餡はもうちょい素材そのままのが好みかな。だから、次に期待してるわ」
「精進いたします。ええ、次までに」

さすが橙の主様。橙のことをよく見ていらっしゃる。これほど機転がまわる式を持てて、紫は実に幸せ者だ。
それでは、次があるかどうかは別として、本気で居つきたくなる前にお暇するといたしましょう。

「んじゃ、お願い」
「はいはい。それではまたお会いしましょう」

ひらひらと紫が手を振る。それがそっけない、彼女の別れの挨拶だった。はずなのだが。

「ああ、そうそう。着地にはお気をつけくださいな」

――着地?
疑問の声をあげる前に、私はすとんとまっすぐ落ちていた。




「ぬおわあああああっ!?」

叫びが響いたのは一瞬だったか、それ以上か。短い時間を経て、私は見事に腰から着地していた。
したたかにぶつけたが、高さはさほどではなかったのだろう。痛いことは痛かったが、耐えれないほどではない。しかし痛くないというわけでもない。おまけに上から、忘れ物よ、とばかりに靴が一組降ってきた。ニヤニヤ笑いが目に浮かぶようだ。

「あたた……着地ってまた無茶を……」

紫のとぼけた笑顔に文句を言いながら腰をさする。後から来る痛みだった。思った以上に痛い。これで結局メリーが見つからなかったら、怒っていいはずだぞ、私。
だが、その心配はないようだ。痛いだけの価値はあったということか。
私が座り込んでいる座敷の向こう、日当たりがよさそうな縁側がある。そこに二人分の影。おめでたそうな紅白少女と、そして私のよく知る彼女。

「や、メリー」

ああ、簡単に見つかってよかった。プロセスは一つ二つ減らせるようだ。その上メリーも無事みたい。安心した私は気楽に手を上げる。
それの、何が気に入らなかったのだろう。メリーは途端に目を吊り上げ、持っていた湯飲みを脇において座敷に上がりこんだ。どしどしと音がするほど強く畳を踏みしめながら、私の目の前まで歩いてきて――

――にっこりと微笑んだ。よく分からないながら、私もつられて笑う。いや、笑わなければならないと、私の本能が命じたのだ。そうでなくば、酷いことになる、と。
私が浮かべた笑みは、即座に用意した物ながら中々のものだったと思う。会心の出来、というやつだ。当意即妙でもいい。特に目元なんか、我ながら私本来の柔和さを如実に表現できていたはずだ。完璧だ。これならメリーも文句はあるまい。満足感を感じると同時に、メリーの拳が私の頭頂部に突き刺さった。

「あ痛っ! な、何するのよメリー!」
「何するのよ、じゃないわよ! な、何なのよアレは! 三日も行方不明だったくせに、訳わかんないところからノーロープバンジーで登場して、のほほんと気楽に手を上げて! わ、私がどれだけ心配したと思ってるのよ蓮子のバカ! 三倍バカー! 蓮子なんかカラーリング真っ赤にしちゃえばいいんだわ、フルボディぐらいに! それなら遠くからだって三倍バカ蓮子だってすぐに分かって、私だって心の準備を整えてから迎え撃てるんだからー!」

メリー、メリー。落ち着いて。心配させたのは分かったから、そのいろいろと破綻してる言語をどうにかして。あとカラーリング真っ赤だけは勘弁して。昔試して、とっても落ち込んだんだから。
ああ、メリー、メリー。お願いだから落ち着いて。怒りながら泣きつくなんて高等スキル、私どう対応したらいいか分からない。ていうか、この体勢はまずいってばメリー。抱きつきながら押し倒すって、年頃の女の子の所業じゃないってば。一部じゃそうなのかもしれないけれど。
それにしても心配させたって、私も心配してたのだが……まあ先に怒られちゃったし、勢いで精神的にも肉体的にも押されてるし。イニシアティヴを取られた私の負けか。仕方ない。
例の巫女さんが呆れた顔でこちらを見ている。できれば向こう向いてて欲しいんですが、無理ですか、そうですか。
はぁ、とため息を一つつき、呼吸に変えて気合を入れる。その気が散らないうちに、私はメリーを抱きしめた。

「ごめんねメリー。まあ私も無事なわけだし、許してくれるとうれしいな。これからはもうちょっと気をつけるから、ね?」

子供の言い訳レベルだ、言ってから思った。向こうの巫女も、呆れを通り越して珍獣でも見るかのような目でこちらを見ている。ああもう見るなよ、私だって恥ずかしいんだから。
だが、何故か……今のメリーにはそれで十分だったらしい。いつものメリーでないからだろうか、いつもは通じない言葉が通じたようだ。彼女は泣き止んで、一つ頷いて離れてくれた。まだ服の裾つかんでるけど、それはまだ許容範囲だ。

「で、メリー。私、目が覚めてからまだ数時間程度なんだけど。メリー的には三日も経ってたの?」
「……ええ、私が気がついてからは、三日経ってるわ」

さっきの自分の所業を思い出したのか、若干赤い顔でメリーが答える。その割にはまだ手は服の裾。許容範囲、許容範囲。
私は質問相手を変えることにした。こっちの方が詳しかろうと思ってのことだ。今のメリーと顔を合わせづらいとか、そういう意図はまったくない。人前だ、自制しなくては。

「ねえ巫女さん。私さっきまでマヨヒガってところにいたんだけど、あそこってそういうところなの? つまり時間の流れが外と違うみたいな」
「それはないわね。あそこは確かに変わった場所だけど、竜宮じゃあないし。
 だから原因がどこにあるかっていうなら――そうね、あんた達が無茶な方法で結界を越えてきたとか、そういうのじゃないかしら。もしそうなら……無茶したくせに三日で済むあたり、あなた達は運がいいんでしょうね。
 あと私は博麗 霊夢。巫女だけど、名前まで巫女な訳じゃないわ」

言い切るその目がかなり怖い。厄介ごとを増やしてくれたな、とアウトオブワーズでトーキングだ。推測的語尾の癖に態度は完全断定である。マジで勘がいいらしい。
ああ、彼女の気配が分かってしまえる我が目が憎い。なお憎いのは、飢えに飢えきった好奇心だ。こんな状況だというのに、どうしてこんな戯言が口をついて出てしまうのだろう。

「そこまでして来ちゃったんだから、ちょっと位観光しても損はないと思うのだけど……ダメカナ?」
「…………」

巫女――博麗 霊夢嬢は私の問いに、にっこりと笑う。つい先刻見た笑顔だ。具体的に言うとメリーのアレである。となると、後に来るものも予想できた。予想できたが、避けられるかどうかは別である。ひぃ、と小さく悲鳴を上げて抱き合うメリーと私の前に立ち、

「今すぐ帰れ」

霊夢は青筋浮かべた笑顔のまま、私たちを力いっぱい蹴り飛ばした。




どさり、と二人分の体重が地面に乗る。こうして投げ出されるのはいったい何度目になるだろう。
地に着いた衝撃に、思わず閉じてしまっていた目を開けた。その先に広がっているのは暗い夜空だった。
反射的に星を見て時間を計測する。時間は――あの時、池に落ちた直後? ここは、私たちの世界の博麗神社か?
驚きに身じろぎすると、下から悲鳴が上がった。メリーだ。

「うぐぁ、蓮子どいてー!」
「あ、ごめんごめん」

気づかなかったが、メリーを下敷きにしていたらしい。謝りながら身体を退かせる。
周りの風景は、寸分違わず私たちの世界のものだ。向こうにはこの事件のきっかけとなった鏡池もあるし、その隣にはきちんと拝殿もある。人気がないのも変わっていない。
それらをすばやく確認しながらメリーを起こそうと手を差し出す。と、彼女の隣に私の帽子が落ちていた。蹴られたときに頭から落ちたらしい。起きるついでにメリーがそれを拾ってくれた。
しかし彼女は手に取った帽子に目を落として、不思議そうに目を丸くした。

「…………?」
「どしたの、メリー」

声をかける。彼女は淡く笑って帽子を返した。

「いいえ、なんでもないの。ただこのリボン、霊夢がしてたのに似てるかなぁって。
 まあ似てるだけでしょう。だって霊夢のアレ、初代伝来の品だって言ってたし」

手渡された帽子をまじまじと見直す。
言われてみるとそんな気がしないでもないが、私は彼女の姿をそこまでよく見ていなかった。不注意というなかれ。少しは察して欲しい、なんせメリーに抱きつかれて、いっぱいいっぱいだったのである。
いっぱいいっぱいといえば、この旅自体が最初から最後までそんな感じではあったけれども、

「楽しい旅行だったわね」
「概ねは、ね」

メリーからも同意をもらい、此旅は賛成多数で民主主義的に楽しいものだったと決されました。
これで後やることべきがあるとすれば、打ち上げぐらい。それに欠かせないものを相棒が持っているのを覚えている。
だから私は言ってやるのだ。帽子をかぶりなおしながら、立ったままのメリーに手を伸ばし、

「さあ行きましょうメリー。お酒と鰻と土産話がありさえすれば、今夜もきっと楽しいわ」
「そうね蓮子。まだまだ夜はこれからだものね」

つかんだ彼女の手の温かみに小さからぬ安堵を覚えながら、私たちは現実の町へと帰還した。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇





「さて、掃除はこれくらいで良いか」

私は箒を止め、辺りを見回した。今現在、そろそろ夕暮れという時間と春先という季節にマヨヒガは包まれている。
春を迎え始めたマヨヒガは、ところどころにその片鱗を見せていた。蕾をつけ始めた桜などはいい例だろう。春に向けて世界は徐々に気が満たし、木々も気を吸って活発になっているのだ。おかげで掃除の手もかかるが、紫様も起きてこられるので相殺どころかおつりで一財産築ける位だ。冬ではせいぜい寝姿しか拝見できないのである。それが要らぬとは断じて言わないが、あの方の笑顔どころか御声すら聞けないのは、それはそれでかなり辛い。また冬が来ない間に紫様の笑顔貯蓄を脳内記憶に貯めて置かねばならないな、と思う。新聞屋でも呼んで写真を一枚撮ってもらおうか、とも。そろそろ新しい写真が欲しいところであるし。

「橙の方は片付いたかな?」

主のことと平行して、庭木の手入れの方を任せてある自分の式を思う。まだまだ未熟な子だが、それでも少しずつ成長している。主として、家族として嬉しい限りだ。あれでもう少し視野を広く持てる様になれば、一人前と言えるだろう。

「……おう」

はたと気づく。そう言やあの子は物事に対して精一杯すぎるきらいがあるのだった。この前羊羹を買ってきたときなど、きれいに三等分するする事に固執するあまり、ちょっと目を離した隙に羊羹は哀れ薄さ一分の束と成り果てていた。買って来たのが羊羹だったことは、不幸中の幸いであったと言えよう。まとめればさほど問題はなかったからだ。これがカステラだった日には……えうー、である。
しかしそれが、庭木となるとどうなるか。あの子の事だ、あたうる限り枝を整えようと努力するだろう。あくまで、木に登ったままの視点から。紫様には庭木の手入れは最低限でいい、自然のままで十分だと言われているのに。
拙い事をしてしまったかもしれないなぁと思う反面、まあいいかと思う自分がいる。これでは橙には甘々な紫様を責められたものではない。
しかし手の打てる内に見に行くか。私は箒を手近な名無しの式神――薄い自我しか持たないが故に紫様にあまり負担をかけない型であり、それを指揮するのがマヨヒガにおける私の主な仕事である――に渡し、橙のいる東庭の方へ歩き始めた。

橙と言えば、今日あの子が連れて来た客人は実に快い人間だった。割とそういう人間が多い幻想郷でも、稀なほどの対応力と思考力と――なにより、溢れんばかりの人間味を持っていた。ああいう人間こそが、真に妖怪と対等に渡り合える人間なのである。例えるなら霊夢や魔理沙のような連中だ。この例だけで、事情を知らぬ者にもあの客人がどれだけ稀有なのかお分かり頂けるだろう。
その時である。無音で、私の前に隙間が開いた。こんなことが出来るのは御一人しか居ない。反射的に身を屈め、傅く。主は堅苦しいと言うが、これは一つの私なりのけじめである。そうそう変える事は出来ない。

「紫様、御用命でしょうか?」
「今回は違うわ。まあお立ちなさいな、話はそれからよ」

主の声がかかって初めて私は顔を上げる。隙間に乗った紫様は、服装に合わせた紫の番傘に加えて、一升瓶を一本携えていた。少々粗野にも見える様だが、今日の紫様の御格好には合っている。てか天狗、天狗。要らん時には居るくせに、どうして肝心な時に居ない。洋装好みな紫様の和装なんてそうそう見られんのだから、今と言う時間を切り取らずして何時を撮る。しかも多少着崩しておられるから、首筋あたりの白い肌が紫様の金色の髪と相俟って――ああ、ああ! もう堪らないなぁ、我慢するのは辛いなぁ! やっぱり天狗ごときにはもったいなくて見せられないね、私の記憶野で独占だ、でも写真も欲しいなぁ!
そんな私の苦悩を、たぶん知るはずもなく、紫様は手にした酒瓶をゆらゆらと揺らしながら、軽く笑む。

「ちょっと出てくるわ。それを知らせておこうと思ったの」
「はい、どちらへ?」

心の内と思考を切り分けつつ――普段からやっているので、割と得意技である――応じる。それにしても紫様が御自らどこかに行くとは珍しい。しかもこの春の、まだ早い時期にだ。普段ならマヨヒガにて眠っているか、徐々に花開く木々を愛でている頃である。
徐々に体を沈ませながら、主は曖昧に笑う。それは普段に主が見せる、どこか深みと凄みの同居した得体の知れない笑みではなく、困ったような微笑だった。

「幽霊を見たのよ。懐かしい幽霊をね」
「はぁ……」

予想外の答えに、私は間抜けな返答をしてしまっていた。
しかし、幽霊か。どこぞの大食い幽霊なら見慣れているが、それとはまた違う幽霊なのだろう。あれを懐かしいとは言うまい。死んでいるのによく見る顔である。
とはいえ、藍は彼女以外に、懐かしいと言える――つまり、それほど姿形を保った幽霊を見たことがない。主はいったいどこでそんなものを見たのだろうか。今日訪れたのは、まだ生きた人間だけなのだが……まさか彼女のことなのだろうか。

「そういうわけだから、さっさと成仏するよう説得に、お墓参りをしてくるわ。夕飯までには帰るから、それまで頼むわね」

いろいろと疑問は残る。たとえば客人に渡した土産、あれを何故御自身の力で呼び寄せなかったのか、とか。
だが、一切の詮索を彼女の勘が許さなかった。
これは紫様だけの領域なのだ、そうなんとなく思ったのだ。この手の勘を外したことは一度もない。今に至るまで何度となく助けられてきたのだ。信ずるに余りある。
ならば自分にできることなど、主が心配なく過ごせるよう送り出すぐらいだ。

「承知しました。御気をつけて行ってらっしゃいませ」

深々と頭を下げる。その向こう、下げた目線からは見えないが、主はもう隙間へと消えてしまっただろう。
そう思っていたのだが、

「――ありがとう」

不意の一言に顔を上げるが、一瞬間に合わずに紫様は虚空へと身を滑り込ませてしまっていた。
額に手を当て、空を仰ぐ。夕暮れが忍び寄る空は既に茜色だ。おかげで誰か来たとしても、今の顔を隠さずには済みそうである。

「まったくもう……気を使い返されたら、式の立場がないじゃないですか紫様」

なんだかなぁと呟いて、まだまだ修行が足りぬ我が身を嘆く。式を式らしく扱わないあの方にも問題はあるが、気を使われる従者というのも様にはなるまい。子供扱いされている訳ではないが、これくらいはやって当たり前くらいに認識させてみたいと思う。
だからせめて、もう少しあの方の従者として、身の丈を伸ばしたいものだった。




博麗神社に程近い所に、名もない小高い丘がある。小さな木立に囲まれた丘は、普段存在すら気にされない。それほどに、ありふれた場所である。
そんな丘の夕暮れの茜に染まる斜面に、何の前触れもなくすぅと一本黒い線が走った。線はすぐに広がり隙間となる。
音もなく、大きく開かれた隙間から一人の影が丘に降り立った。着物姿の女である。見た目は歳若いが、彼女の笑みと気配は見た目と実際に大きく隔たりがあることを示していた。
ふわりと地に足をつけた彼女は、周囲をゆっくりと見回してから歩き出す。気軽に傘を細い肩にかつぎ、散歩のごとき足取りで丘を登っていく。木々の間をすいすいと抜け、手に持った酒瓶を気分よさげに揺らしながら先に行く。

数十年来ていないだけで、辺りはずいぶん様変わりしているように彼女の目には映った。具体的に言うと、木が増えたような、枝が伸びてるような、そんな感じだ。要するに放っておいただけである。
内心で手入れを欠かしまくりな自分の無精に苦笑しつつも、我が友はこういう無規律を好んていたのだと言い訳する。人も、妖怪も、自然も、幻想も。すべてありのままに受け入れることを、彼女は己の生き方としていたのだ。だから多分大丈夫。自分の不手際ではないのである。
誰に言い返されるわけでもないし、それでよしとした。実際、不満の声は聞こえない。ならこれでよいのだと納得する。
このあたり、自分も昔と変わらないものだとさらに苦笑を強くする。見てくれも、生き方も、存り方さえもずいぶん変わりはしたけれど、それでもなお変わらないものもあるということだろう。
それは未練か本質か。区別はつかぬが、そういうことは己の思う方を選んでしまえばいいのだと、彼女は昔の経験から学んでいた。大切な式神を得たときの思い出である。

よく知った道を歩く足取りに迷いはない。小高い丘を、ただ楽しげに登っていく。飛べばすぐだが、彼女は歩いて行くことを選んだ。その方が、今の己には相応しい気がしたのだ。
木々はだんだんと少なくなり、比例して視界は広がり橙色が強くなる。夕日に包まれたその向こうに、目指す場所はあった。
歩み寄り、立つ。視野いっぱいに広がるのは、彼女の友が終生愛し続けた不思議の住む里の姿だ。

「そう。この光景も変わらないのねぇ……」

万感を込めて、声を隣の墓標に降らせた。草に覆われた、二つ分の小さな墓だ。小さく刻まれた名は、遠い遠い昔に何度となく聞いた音をなぞっていた。
傍らに腰を下ろす。携えた酒の蓋を開け、隙間を開いて杯を二つ取り出した。
小気味よい音を立てて酒が流れる。酒の勢いに杯はすぐ一杯になった。手酌だなんて切ないけれど、ここにいるのは自分だけなのだから仕方がない。
先に注いだ方を片方の墓に置き、もう一つを飲み干した。少し辛めの、どこか懐かしい味。その感想に、自分はどこまで酒好きなのか、と笑ってしまう。懐かしいだなんて、一体何年――いや、何十でも足らない昔に飲んだ酒だと思っているのだ。それでも、私の心はこの酒の味を、こんなにも時間が過ぎ去ったと言うのに、変わらず覚えていてくれた。

変わらない。変わっていない。そのことが無性に嬉しく思える。それは自分の余計な部分があまりに変わりすぎたからなのか、分からないけどただ嬉しい。

杯を重ねる。日暮れの色に染まっている、愛しい幻想郷を眺めながら酒を飲む。少しずつだが、確実に酒は減っていく。落ちていく陽のように。あるいは満ちていく闇のように。
無言で、ただ酒を飲む。当たり前だ、ここには他に誰もいないし、石がしゃべるわけもない。ましてや、墓の下の死人が語るはずがない。
でも、遠くに行ってしまったはずの、もう二度と会えないはずの、その死人の声を久しく聞いてしまったから――あまりに懐かしくて嬉しくて。遠い昔、自分の胸の中で死んだはずの人間が、ほんの少しだけ甦ってきたらしい。
そんなときだけ、彼女はここを訪れる。生き返った死者を、もう一度死者に戻すために。かつての自分から、八雲 紫に戻るために。
最後の一杯を注ぐ。まだ瓶には半分ほど酒が残っているが、これは友の分である。幻想に包まれる前も後も、自分と彼女は対等に付き合ってきた。酒においてもそれは変わりはしなかった。だから、だ。
一息ついて、杯を空けた。
ゆっくりと八雲 紫は立ち上がる。

日暮れはすぐそこだ。さあ、もう帰らなければ。私は八雲 紫なのである。ならば、私のいるべき場所はここではない。私の帰りを待つ式達のいるマヨヒガなのだ。あそここそが私の家だ。
藍は夕飯の支度をしながら、橙はその手伝いをしながら、他ならぬ八雲 紫の帰りを待っている。だから、私は帰らなければ。

「懐かしくなったら来るから。また、ね」

見下ろした墓標に言い残して、八雲 紫は静かに隙間を開いてその場を去る。
彼女の姿が見えなくなる頃、昼と夜の境界線たる紫色が丘を包む。ずっと昔から変わらない、この丘の風景だ。
そこに加わった小さな変化は、朱塗りの杯が一つと――蓮台野と言う名の、酒瓶一本だけだった。








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