常に霧が立ち込める深い竹林の奥。日中すら光も滅多に入らない人里離れたこの地に、小さな庵が一つある。
まるで人目を避けるようにこんな僻地に編まれた庵は、事実隠棲を目的としていた。もちろん主の事情で、だ。
その主の名を藤原 妹紅という。外見から推し量るならば年の頃は十五、六程だろうか。どう見ても二十歳を過ぎてはいない、そんな少女である。
世を厭うには随分早すぎる歳に見えるが、それを彼女と数年過ごして言えた者は今まで居ない。幾年経ずして彼女を置いて去っていく。時に流されない少女の姿は、人を遠ざけるに十分だった。
それを悲しいとは思わない。もはやそんなもの擦り切れた、ただ騒がれるのは面倒なのだ。そう言わんばかりの少女はもはや、齢千を超えていた。
故に、妖怪が跳梁し幻想が跋扈するこの幻想郷でも彼女は変わらず隠れるように暮らしていた。ここ最近は世話好きな友人のおかげで随分と表に出るようになりつつはあったけれども。

そんな妹紅は、竹薮で騒ぐ雀の声に顔をしかめながら目を覚ました。
ああもう毎朝うるさいなぁ、あいつら焼いて食おうかしら。
そんな物騒なことを考えたのは、つい先程までの夢世界でえらく豪華な和食ご馳走を前にしていたからである。チュンチュンうるさいせいで喰い損ねたアレらのことを考えるなら、自分の怒りもさほど無理はないと思う。
そう言えば朝餉を用意しなくちゃなぁ、面倒くさい。現実ってのは面倒だね。春なのに寒いし、布団から出なくちゃいけないし。

そんなことを片足夢に突っ込んだまま考えつつ、布団を抜け出る。朝の準備は面倒だけど、別に喰わなくても死なないけれど、あのうるさい友人はそんな人間離れした生活を酷く怒るのだ。まあ自分自身、周りからどう言われようと変わった力を持っただけの人間だと思っている――私が化け物ならあの巫女だって化け物だろう――ので人間らしい生活をするのに関して文句はない。
文句はないが、面倒なのだ。これもある意味、能力を利用しているだけなのだから普段慧音が歴史を食べたり作ったりしてるのとさほど変わりはないと思うのだが、駄目らしい。駄目なのだから仕方がない。

「…………んう?」

ふと、寝ぼけた頭と身体が知覚する。小さな庵に漂う香り。おいしそうな和食の匂いだ。
おお、麗しのふっくらご飯。夢の中ではさよならしたけど、もしや現実まで追いかけてきてくれたのだろうか。それならあのきれいに焼かれたお魚さんもご一緒してくれるなら、とてもとてもありがたいのですけれど。

「……んなわけないんだけどね」

あまりに非現実的な夢想を自らあっさりばっさり切り捨てる。夢が本当になるなんて、この幻想郷でもどこぞのすきま妖怪が発作的ないたずら心でも起こさない限りはおそらくあり得ない。そう考えるとなんだかよくありそうな気がしてきたが、少なくとも今は違うだろう。ならば何故おいしそうな匂いは未だ失せず消えずに漂っているかというと。

「あら、おはようございます。朝餉の準備はもうすぐ整いますわ、ご主人様」

なんていう風に、土間で微妙に和風な緋色のメイド服を何故か異様なまでの一体感で着こなして。

「…………え? かぐ、や? あれ?」
「どうかなさいましたか? 何か不手際でもございましたでしょうか。それならばすぐに、なんなりと、この輝夜にお申し付けくださいませ。例えば寝なおすから従者の義務として優しく起こせ、なんていうことでも構いませんわよ? なんなら……添い寝してさしあげましょうか?」

極上の笑顔を振りまく輝夜が、炊事場の前に立っていた。
たっぷり十秒。妹紅は彼女を見ていた。輝夜はにこにこと、溢れんばかりの笑みを崩さないまま料理を――あの輝夜がメイド服着て料理を――続けている。
しばし後、妹紅は急に気がついたようにぶんぶんと首を強く振り、その細腕を自分の顔まで持ち上げる。望むものは明確だ。その為の手段も明らかだ。あとはただ、耐えることへの覚悟のみ。それすら不死の我が身なら十分すぎるほどに持っている。
妹紅は静かに目を瞑り、頬をつかんで力の限りひねり上げる。
つねった頬は痛かった。涙が出るほど痛かった。








メイドはつらいよ 〜 Maid in BANBOO








発端は今を遡ることおよそ二ヶ月前の満月の晩。場所は元竹林、今荒涼たる焼け野原。そこで起こった事象を単的に述べると、連日の殺し合いに上白沢 慧音の堪忍袋の緒が切れた。
前々から二人の、周りに迷惑を撒き散らすだけ不毛以下な決闘を苦々しく思っていた彼女だが、その回数が週三日になるに至り、ついに我慢の限界と相成ったのだ。
血戦の舞台となった竹林の焼け跡、互いの身を削る戦いに精も根も尽き果てたと倒れ伏す二人をひっ捕まえ、地べたというのもなんのその、二人ともに正座をさせて今までの不満を怒涛の如く理路整然とぶちまける幻想郷最後の良識。その様は満月の晩ということもあり、洒落にならなかったと輝夜と妹紅は後に語った。

まあ、慧音が角だしてたり、それがひどく怖かったりしたのは置いておこう。歴史の影としておこう。むやみやたらに掘り返すと、いろいろまずい状況になりかねない。というか掘り返すとかいう言葉自体がまず禁句である。
とにかく結果として残ったのは、殺し合いの機会は月一回、満月の晩に限ること。代わりに、その日の勝者は新月の一日、敗者を好きにできるということ。ただし周りに迷惑がかからないようにすること。
つまるところ、殺し合いができない憂さ晴らしを別のところに持ってきただけである。苦肉の策もいいところだが、今までの如くただ無為に殺し合うよりはマシだろう。そう考えての決断である。ちなみに逃避度合いは自己申告で六割強となかなかの数字を叩き出していた。

さてこの提案であるが、逃避度合いからも分かるとおり発案当初、慧音女史は当然のことながら成立には大層手間がかかると予想していた。理由は簡単である。妹紅の相手方である蓬莱山 輝夜は、いくら今は勢い――慧音にとって認めるのは苦痛だが、あと角――で押されてしょげていても、こんな提案に乗るわけがないからだ。
なにせ彼女は妹紅との殺し合い、否、妹紅に対してありとあらゆるちょっかいを出すことを生きがいとして悠久を過ごす姫君である。妹紅を見たら首を突っ込む。妹紅の話を聞いただけでも会いに行って手を出す。
ここまで手のかかるいじめっ子は、長きに渡り人間を見てきた慧音でも一度として見ていない。歴史にすら載っていない。よって矯正方法は何一つ思いつかない。もはや諦めるしかないような、そんなダメ姫様なのである。これに関しては輝夜の従者筆頭にして慧音が知る限り最高の頭脳の持ち主たる八意 永琳もしぶしぶながら同意している。輝夜は月人においてすら特異な人物らしいことがこれにて判明した。
ただし、明言するのは立場上さすがにはばかられるらしく、「あら手が滑った」と白々しく使い古した薬さじを放り投げることで表現してくれた。これには慧音も、月人もなかなか機知があると感心したものだ。奇知かもしれないのが問題だが。

閑話休題それはともかく、そんなあからさまに妹紅に対する干渉を制限される規則の可決を輝夜が認めるはずはない、そう思っていたのだ。言い出した慧音本人も、傍で見ていた永琳やイナバ達も、そして半ば慧音に同意しかけている妹紅も。

「いいわよ、面白そうじゃない」

そう、輝夜が二つ返事でうなずくまでは。

それからの騒乱は、なかなか見物であった。慧音は思考が漂白されたらしく呆然と口をあけて立ち尽くし、永琳はなにか悪いものでも見たかのように目を見開いた後、重力法則に逆らうことなく背中方向に倒れこんでいった。
隣に控えていた鈴仙・優曇華院・イナバは、気を失った師を慌てて支えているが、そのとき誤って「重い」なんて一言を漏らしてしまっていた。すぐに口をつぐんだが、永琳のこめかみに一瞬浮かんだ青筋を見て、顔を蒼白に染め上げて彼女自身が今にも倒れそうな感じである。きっと今夜は実験室から悲鳴が鳴り止むことはないだろう。途中で悲鳴をあげられない状態にするのは二流の仕事。永琳はいろいろと一流なので、そんな心配は鈴仙にとって不幸なことに微塵もない。
そんな彼女を助けるべき因幡 てゐは良い賭けのタネだと狂喜して早速胴元としての準備に疾走中だ。哀れ鈴仙は見捨てられたらしい。いつものことなので誰も哀れんではくれないけれど。

そんな中、妹紅だけは冷静に輝夜を睨んでいた。輝夜はそれを柳に風と笑顔で受け流している。狂乱の中、ただ二人だけはいつも通りに対峙していた。

「どういうつもりだ?」

短く問う妹紅。向かう輝夜は笑顔を崩さない。それはいつもの彼女の姿であり、目をこらしても普段との差異は髪の毛一筋ほども見つからなかった。

「ただ興が乗っただけよ。それ以外の理由はないわ」
「興が乗っただけ、ねぇ……」

疑わしげな声を返す。今までの経験は強く警戒を呼びかけていた。輝夜の不可解な行動は、いつも妹紅の不幸として孵化してきたのだ。用心しておくに越したことはないというか、妹紅にとって用心は死なずに日々を送りたいなら必須技能とまで言える。輝夜の態度に疑惑の目を向けるのも無理はない。
そんな妹紅に、輝夜は無邪気に笑う。勘ぐる必要もないのに臆病ね、と悪意なくからかう童女のように。

「楽しみだわ、あなたに勝ったらなにを命令しようかしら?」
「はん、そんなことは悩まなくてもいいんだよ。わたしが勝つからあんたは命令できないの」

惑わされることなく、にやりと笑って言い返す。実際勝つのは難しいが、負けるつもりもさらさらない。
そう考えるなら――確かにまあこれは悪くないかもしれないと思う。殺し合いだけじゃできないことさえ相手にさせられるなら、それは大層気晴らしになろうというものだ。
妹紅がそう考えて納得していると、輝夜はくっくっと心底楽しそうに笑っていた。

「ああ、楽しみだわ。早く次の満月にならないかしら」

夢見るように手を組んで、願うように月を見上げて、うれしそうに笑っていた。
その姿に、妹紅は何か――痛みのような、うずきのような、形容しがたい何かを覚えたが、それは浮かび上がる前にはじけて消えた。残り香をつかもうにも指をするりとすりぬける。何もない手はむなしく、結局、嘆息して月を見上げるしかなかった。
春宵の月光はいつもと同じように降り注ぎ、いつもと同じように何も語ってはくれなかった。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




――以上が、今朝に至るまでの経緯であり、藤原 妹紅にとって困惑の日の始まりであった。

誰にともなく頭の中で叙述して、妹紅は虚空を見ていた目を現在に引き戻した。
春の日の、そろそろお昼時というそんな時間。朝方の惨劇から既に四時間ほどが経過していた。
しかし四時間経とうがまだ今日であることは変わっておらず、輝夜の装いもまた変化はなかった。

それはいくら目をこらして見てもやっぱりメイドだった。頭からつま先まで、完全無欠にメイドだった。動きやすいようさまざまな工夫を施した緋色の小袖に白エプロン、ホワイトプリムがよく映える。小袖なのは輝夜が洋装が似合わないからだろう。一方、床に付きそうなほどの髪は邪魔にならないようきっちり一房に結い上げられていた。まさにメイドの格好である。

だが、メイド服を着ているからメイドなのではない。メイド服に着られるようでは、到底メイドとは言えないのだ。
この思想は幻想郷におけるメイドの第一人者たる、ナイフと手品も鮮やかな紅魔館のメイド長、十六夜 咲夜によるものである。妹紅がこれを教わったときの、かの女史の言葉を再現するならば、

「本当のメイドとは、例え私服であろうが裸であろうが「自分はメイドである」と、そう他者に認識させる程の雰囲気、存在感を醸し出す者のことを言うのよ。それなのに、今の若い連中のなんとたるみ切っていることか! 着て似合ってりゃいいってもんじゃないのよ、私たちはメイドなのよ、メ・イ・ド! 純白が表すものは主への曇りなき従心、質素な佇まいは主を立てる秘めた強い意志。そうあるべきだというのにチャラチャラと飾り付けたり騒いだり! ああ、嘆かわしい! メイドの心はどこへ行ってしまったの!?」

とまあ、こんな具合である。うっかり紅魔館の妹君と派手に屋敷を燃やしてしまい、強制労働させられた時に叩き込まれた教えだから一言一句間違いない。彼女の演説はこれから更に熱量を増し、果ては一部の信望者による拍手に囲まれながら、幻想郷におけるメイド資格授与機構の設立案にまで及んだ。エプロンはともかく、ホワイトプリムなんていう妹紅にとっては縁のない言葉を知っていたのはそのせいである。本当はもっといろいろ専門用語を教え込まれたはずなのだが、最後のほうはもう観客の歓喜で聞き取れなかったのだ。

ついでにいうが、妹君の方は「わたしも燃やしちゃったんだから、一緒にやるー!」と元気良く無邪気に、メイドがどーたらとかいう議論そっちのけで慌てる咲夜を尻目にやることを探し、破壊と狂乱を撒き散らしてせっせと仕事を増やしていた。
その様子を見て吸血姫(姉)は「ああ、フランが罪と罰の概念を分かってくれるなんて。大きくなったわね」と涙が滂沱。騒乱を止める気は更々ないというか、メイド長が何故苦労しているか理解すらしてないようなのが印象的だった。

そのときを――余計なものをいくつか省いて――思い出す。目の前の輝夜は、あのときの自分以上のメイドメイドしている。付け焼刃だった自分など全く問題にならない。これ程の猛者は紅魔館ですら稀だろう。短い間寝食を共にした幾人かの顔が浮かぶが、そのほとんどが彼女と比べて劣っていた。メイド長はさすがにその輝夜と比べてなお別格だったが。

そんなメイド輝夜こそ、およそ十五日ほど前の晩に得た“報酬”そのものなのである。あの晩「一日、私の従者になれ」と高らかに叫んだことで自分が一日の間に限り勝ち取った獲物だ。
しかしながら、こんなのは全く予想だにしていなかった。妹紅が幻視していたのは、自分の命令をこなせずに四苦八苦したり、憤慨しながらも従わなければならない屈辱に震える姿だったのだ。それとはまるで逆である。
形だけ。見た目だけ。きっと自分の勘違い。そんな風に祈りながら、輝夜の朝食を手に取ったのは四時間前。しかし――

もう一度、輝夜を見やる。彼女の病的な程白い手には、妹紅の着古した服の一つと、針と糸が握られていた。
ついついと危なげもなく、手早く針を服にくぐらせ、返し、引っ張り出す。刺し込み、返して、また引っ張った。そんな単調な針仕事を、彼女はさっきから延々飽いた様子もなく続けている。

――予想は見事に裏切られた。朝食はなんというか、くやしいほどにうまかった。こんなにまとも食事をしたのは一体何日、いや何ヶ月ぶりだろう。その味に思わず泣いてしまいそうだった。
涙の向こう、走馬灯のように翻る在りし日の自分の姿。ああ、駄目だよ過去の私。いくら料理が出来ないからって、適当に野菜を洗って切って鍋にぶち込み、醤油で味付けた気になっても駄目なんだ。それでも大根を生のままかじってたあの日々よりはマシなのだけど。
その上料理だけでなく、命令もしていないのに勝手に庵の掃除を始め、二時間もした頃には編んだ当初のような状態にまで引き戻してしまった。今までほとんど掃除しなかったため、磨かれた床の照り返しが余計に悲哀を誘った。

だが、そのすべてにおいて――輝夜が完璧な仕事をすればするほど、胸が痛み、苛立つのはどうしてだろう。従者は完璧であればあるほどよくて、そこに痛みや苛立ちなんて介入する間もないはずなのに。

「妹紅、どうかしたのか?」
「ううん、なんでもない」

そんな自分に掛かった声は、口調から分かるとおりに輝夜ではない。輝夜の手元を興味津々とばかりに熱心に覗き込んでいた慧音のものだ。
妹紅は手を振って平静を主張する。いくら親友でもさすがにこの話題は気まずすぎたし、自分でも理解できない感情の話などされるだけ迷惑だろう。
取り繕いが上手くいっていたのか、それとも察してくれたのか。慧音は深く追求せずに再び輝夜と話しながら、その針の動きを追い始めた。

説明が遅れたが、輝夜と一緒に慧音もまた妹紅の庵に朝から来ていた。
輝夜がちゃんと妹紅の言うことを守っているか。妹紅はあまり輝夜に無茶を言わないか。それらの事柄を監視する為に審判役として今回派遣されたそうである。持ち周りで次回は永琳が担当らしい。
目を覚ましたときにいなかったのは、外に水を汲みに行っていたからだとか。しかしながらもしその場に居たとしても、当時の妹紅の視界に入ったかどうかは甚だ疑問であった。なんせ、当時目前に居たのはメイド輝夜だったのだから。

「しかし料理、掃除だけでなく裁縫までこなすとは。意外と言えば意外極まりないな」
「失礼ね、私をなんだと思っていたの?」

慧音のもっともな評価に、輝夜は手を止め頬をふくらませる。妹紅としては慧音の言葉は全面的に支持できるものだったが、輝夜にとってはそうではなかったらしい。
慧音は苦笑いとともに後を続ける。

「率直に言えば、引き篭もり食っちゃ寝姫だな」
「引き篭もりだからこそ、家事が上手くなるんじゃない。他人の家に遊びに行っておいて、家事の練習なんてできないでしょう?
 さらに言えば、気持ちよく食っちゃ寝するには環境を整えるのが大事なの。それには家事は必須だわ」
「むぅ、確かに」

納得したらしく、慧音は腕を組んで頷いた。輝夜の方もそれで満足したのか、再び針で糸を導いていく。表から裏、返して表。もう一度裏。一針一針をゆっくりと、丁寧に縫っていく。何がうれしいのか、かすかに微笑を浮かべながら。
全く同じ間隔で全く同じ目を作る手を止めずに、輝夜は不意にその微笑をほんの少しの苦笑に変えた。

「でも、家事のいろはを思い出したのはここ何年かのことなのよね。だからあんまり威張れたものではないわ。 それまではイナバたちがよくしてくれていたの……と言うより、なにもさせてくれなかったのよね。姫は働かず命令するものだ、とか言って。
 いくらイナバ――じゃ誰か分からないわね、てゐが家主で私は雇われ姫だからって、あれはないんじゃないかしら」
「君臨すれども統治せず、だな。それは確かに彼女達の言う通りだろう。歴史上はそれが正しい」

うなずき返す慧音に、そう言えば自分も家事なんて何一つ教わらなかったなぁと思い起こす。当時はそんなことは下々の者がやるべきであって、一応は貴族の子女であった自分は手を触れることすら許されていなかったのだ。そんなことを気にかけるなら良い歌の一つでも詠んでみろ、異国の詩でもそらんじてみせろ、とそういう時代だったのである。
しかしそれは輝夜だって同じ――ではなかったな。
あいつの育った家は、元々は貧しい下級官吏の家だったが、輝夜が持参金として持ってきた莫大な黄金により裕福な家へと変わったのだ。それでも彼らはその暮らしぶりを死ぬまで変えようとはしなかったが。
そんな家、いや人達だったからだろう、輝夜が色々と家事を身に着けているのは。

「妹紅、ちゃんと話聞いてた?」
「え、あ、悪い。聞いてなかった」

朝のあれ以降、いつの間にか普段どおりの口調に戻っていたせいで、思わず従者と思わずに反射的に謝っていた。
瞬後、なんで私が従者な輝夜に謝らねばならないんだと思い直すが後の祭り。輝夜と慧音は、盛大にため息をついていた。これしきのことで、そんなにかわいそうな人を見る目で見なくてもいいと思うのだが。しかも慧音まで。
だというのに、この無情なやつらは態度だけでは飽き足らず、言葉の刃で切りつけてきた。

「そろそろ昼時だし縫い物の方もひと段落したから、昼食はなににしようかと聞いていたんだがな。
せっかく輝夜が主であるお前の好きな食事にしようと話を振っていたのに……人の話はちゃんと聞かないと駄目だぞ、妹紅」
「いいのよ上白沢。妹紅は妹紅ですもの。今更すぐにどうにかできるわけがないわ。
 もしそうならこの子と私の因縁も関係も、とっくに決着がついていたでしょう。それはそれでひどく味気ないことじゃないかしら」
「あんたら、好き放題言いやがって」

ジト目で睨むが二人は慣れたものとばかりに視線をそらすことすらしやがらない。ただ、さっきの流れは嘘か幻かとでもいうように露骨に話題を元に戻された。
……あとで輝夜だけでもいびってやる。そう妹紅は強く心の中に刻み込んだ。

「で、なにか食べたいものは? 材料なら持って来てるから大体のものなら作れるわよ」
「それなら旬のものが良いと思うぞ妹紅。季節は大事にしないとな。
 そもそも旬とは、古来から人々が自然とふれあい長く付き合うことで、その周期や特性を理解することに始まり――」

横で慧音の、いつもの長い説教が始まったのを聞き流しながら、それなりにまじめに考える。
なんと言っても輝夜の作る食事はあと二回なのだ。作り手に思うところがあるにはあるが、それは目をつぶるとして、あのうまい食事があと二回。それは絶対に有効活用されなければならない。
となると慧音の言っていることも――色々と迂遠なのをはしょれば――的確なのだ。旬な品はうまい。これは間違いない。
しばしいくつかの品を思案した後、妹紅は結論を出した。

「タケノコ料理がいいかな」

タケノコと言えば春が旬。しかも有り余るほど取れるだろうから、輝夜の持ってきた食材の中にもあるだろう。なんせ周りは竹林である。あたりを掘れば簡単に出てくるはずだ。
妹紅の答えを聞き、輝夜はふむ、と唇に指先を当てる。
思考半秒。輝夜は居住まいを正し、目を丸くする妹紅に恭しく一礼した。

「かしこまりました、ご主人様。本日の昼食、腕を振るわせていただきます。期待してお待ちくださいませ。
 ……どうかなさいました?」

朝以来のその口調に、思わず固まってしまう。胸に走った痛みの大きさは、あまりに予想外だった。鉛を飲み込んだような重さに声も出ない。ただ私は、何もできずに輝夜を見つめるだけだった。同時に感じる苛立ちはからかわれたとき以上のもので、その理由など理解のしようもない。
それを輝夜は驚いたととったらしい。意地の悪い笑みを浮かべて言葉を続けた。

「あら、なにをそんなに驚いておられるのですか、ご・しゅ・じ・ん・さ・ま?」
「な、なんでもない! とにかくそれでいいからさっさと作ってきな!」

なんとか態勢を立て直し、あたかも輝夜の思うとおり驚いていたように装った。偽装は成功、輝夜は慧音に話を向けた。

「そうね……タケノコを肉みたいに焼こうかしら。お酒も悪くないのを持ってきてるし。
 ついでに聞くけど上白沢、あなた食べたいものはある? 妹紅の嫌いなものじゃなければ作るわよ」
「その口調、本当についでなんだな」
「当たり前でしょう? 今の私の主は妹紅なんですもの。優先順位が違い過ぎるわ」

まあそれもそうか、と納得する慧音。とにかく、一通りの決定を見て輝夜は針を針刺しに仕舞い、今まで縫っていたシャツを丁寧に畳んで炊事場へと向かった。

その時になってようやく、輝夜が今まで縫っていたのが妹紅自身の着古したシャツだと気づく。シャツは破れたところもほつれたところもきれいに補修してあった。ご丁寧にどこかへ飛ばしてしまったボタンによく似た代わりを縫い付けている。もちろんボタン自体は、どこにでもあるものだけど――

「メインは筍の酒焼きとして、他の品はなんだろうな。朝があれだったからには期待できるが――どうした妹紅? また考え事か?」
「あ……うん、まあちょっとね」

慧音の声に嘆息するように応えて、シャツを抱えてタンスに向かう。本人は理解できない感情に悩んでいるなのだが、その背中を見つめる上白沢 慧音は別の方向で受け取っていた。

「いい加減、気づかないものなのかなぁ……」

普通は気づくと思うのだが、どうなのだろうか。悪意の中を生きてきたなら好意には疎くなってしまうのだろうか、それとも相手が悪いのか。
なんにしろ、この問題はお互いで解決するしかないのだ。妹紅もいつか気づくだろう、そう慧音は信じている。
だからこの場は待つことにしよう。いつかそのきっかけが来るはずなのだ。そのとき的確な助言を行うことこそ彼女のためになる。
そう結論付けた慧音は、苦労のにじみ出た笑みとともに机の上の茶を一杯、ゆっくりと飲み干した。

だが現実はこの時点で、彼女の望むようにゆっくりとは動いてくれないようだった。こればかりは彼女の責任とは言えまい。未来を完全に読み、先手を打って望む世界を引き寄せるのは、過去を紐解く彼女の領分ではないのだから。
それになにより、相手が藤原 妹紅と蓬莱山 輝夜でなかったなら。それならば、この後に起こるような事態にはならなかっただろう。

妹紅は慧音に背を向けて、タンスの前でこの気持ちは何なのかと自問していた。
輝夜がメイドとしてきただけである。それ以外は普段と何も変わりない一日をすごしてきた。確かに、輝夜が常に視界に入るのは自分達の関係を見ればいらつく原因にもなりそうだけれど、それを望んだのは自分なのだ。たしかに予想とは違ったけれど、それへの不満はいろいろなことで打ち消されたはず。だからそんなことじゃなくて、私と輝夜がいて、そこにもう一つ必要なものがあるはずで――

「……そっか」

ふと気づく。輝夜と共にいて足りないもの、わかりきっていたじゃないか。自分を馬鹿にするように、どこか皮肉そうな笑みを浮かべてぽつりと呟く。

「やっぱり、あんたと私には戦いしかないんだな」

きっとこの感情はあいつとの血沸き肉躍る戦いを望む心。「輝夜」それを奪われたが故の痛みと、獲物を目前にしてなお手を出せない苛立ち。「私は」そうだ。そうに決まっている。私とあいつにそれ以外の関係なんて必要ない。「お前を……」

「コロシ、タイ」

「妹紅、ご飯よー。妹紅? ……ご主人様、お食事の用意が出来ましたわ」

輝夜の言葉に蹲って地獄の狂気に身を委ねていた体がびくりと黄泉帰る。
あれ、もうそんな時間だったのか。外を見やると、太陽が少し前までの記憶とずれていた。

「妹紅、何をしている」
「あ、ううん。何でもない。今行くよ」

自分でも驚くぐらい、素直に返事をしていた。そうだ。今は伏せないと。どろどろのぐしゃぐしゃなこの気分を、伏せないと。

妹紅は、輝夜のご飯を残さず平らげた。
味は、感じられなかった。

「おかわりはいかがです?」
「……ん、いや。いいよ。おなかいっぱい」
「そうですか。判りました。ではお下げ致しますね」

時間はまだある。私達には、永遠が憑り付いているのだから。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇





宵をとうに過ぎ、外はもう暗闇に閉ざされている。慧音は村のこともあり、妹紅自身がおとなしくしていたのもあって既に人里近くの自宅に戻っていた。庵には妹紅と輝夜、ふたりきりである。
今日もあと数刻といったところだろう。妹紅は、生き物がせわしなく鳴く夏にはまだ早い、春中ごろ故の静かな夜を眺めていた。時折吹く夜風が心地いい。新月でこそあるものの、いい夜になりそうだ。
春の夜風にあたりながら、輝夜に目をやる。洗い物も済ませた彼女は、再び針と糸に興じていた。やることをすべて終わらせてしまって暇なのだろう。手慰み、といった風情が手元の動きにありありと表れている。

頃合か。呼気と慧音への申し訳なさを吐き出して、妹紅は窓際から立ち上がった。輝夜の瞳がこちらを向く。その唇が何事かと物問う前に、妹紅は答えた。

「ちょっと、付き合って」
「わかったわ」

すぐさま声は返ってきた。それを待って庵を出る妹紅に、輝夜はそのままついていく。進む先はなじみ深い、夜の竹林。暗いその路を、妹紅の灯す不死の炎が照らしていた。道なき道をただまっすぐに。感覚だけが頼りだが、ここを住処とする二人にはそれだけで十分だった。

暗夜を歩きながら、それにしても、と妹紅は思う。慧音が帰ってくれたのは本当によかった。そうでなければどうやってごまかすか、考えなければいけないところだったのだ。彼女にいらぬ心配はかけたくない。それなら輝夜との決闘をやめればいいとそう思うが――どうやら、それだけは無理らしいようだ。

しばらくの後、目前の竹の葉を払うと一気に視界が広がった。二人がたどり着いたのは、空をぽっかりと開けた広場だった。あちこちにある焦げ跡破壊跡はまだ生々しい。そこは二週間前の満月の晩、妹紅が輝夜を下し、一日の間我が物とすることを決めた広場だった。
大地と竹林に刻まれた傷跡を興味なさそうに一瞥して、振り返った妹紅に輝夜は問いかけた。

「こんなところで、いったい何をしようというの?」

いまさらなその問いに、妹紅は顔をゆがめる。白々しい。そんなこと、わかっているだろうに。

「私とあんたがこんなところでやることなんて、たった一つに決まってるだろ」

手に灯し続けていた火が燃え上がる。勢いを増したそれは、すでに明かりという段階をとうに超えていた。立ち上る真紅は熱気のあまり、景色さえも歪ませている。受けたものは燃えるどころか溶けかねないほどの高熱だ。
だがそれを見てなお、輝夜はただ立ったままの姿勢を崩さない。それの意味するところは明白だった。

「……戦る気はないっての?」
「ないわよ。そういう約束だったでしょう?」

妹紅のまなじりが険しくなるのを見ながらも輝夜は首を横に振る。そして、付け加えた。

「なにより、ご主人様と戦うなんてとんでもないわ」

彼女の嘘偽の見えない笑顔に妹紅の思考が沸騰する。苛立ちと他のさまざまな感情がない交ぜになる。めまいすら感じるほどの激情に任せて、妹紅は右手の炎を投げ放った。
轟音を立てて飛来する炎塊に、輝夜は一つため息を落として手を上げた。その仕草に妹紅は眼を輝かせる。ああ、やっと。ああ、ついに――ああ、これで、この胸に走る理不尽から逃げられる。
だというのに、輝夜はその炎をよけるでも打ち落とすでもなく、手の内に呼び出した赤い衣を大きく広げて包み込んだ。唖然とする妹紅をよそに、ばしゅんと小さな音を立てて火球はあっさりと姿を消す。それでおしまいとばかりに輝夜は右手を下ろした。

「ね、帰りましょう? 上白沢だって来るかも――」
「慧音は関係ない! これは私とお前の問題だ、誰にだって関わらせるものか!」

叫びながら、ただひたすらに火炎を生み出し、呪符をばらまく。一つで届かないなら無数で押し切る。とにかく、輝夜を引き込もうと必死に彼女は手を振り上げる。
瀑布のごとき紫紺の札が渦を巻き、流星のような火弾が輝夜に向けて殺到する。
だが、それでも届かない。炎はやはり火鼠の皮衣に鎮められ、呪符は龍の光牙に阻まれる。輝夜はいまだ、一歩たりとも動いていない。
おかしい、どうして。いくらなんでもこんな子ども扱いされるはずがない。なんで今日に限って当たりもしない!

激情のままに撃ち続ける。そうしなければ心が折れてしまうというように、ただひたすらに撃ち続ける。
どれだけの間そうしていただろうか。さすがに体力がつき、肩をあえがせて手を下ろした妹紅は、晴れた土煙の向こうに無傷の輝夜を見た。彼女の周囲、大地はえぐれ、酷い有様となっているが、境界線でもあるように破壊は彼女を目前にして停止していた。
あまりの光景に拳を震わせる妹紅と対照的に、輝夜は至極落ち着いた風情で妹紅に告げる。

「防御に専念すれば、私にだってこれくらいはできるわ。戦う気がない私をどうこうするなんて無理よ。
 さあ、もうこれくらいにしましょう。気が立っているなら、落ち着くお茶でもいれてあげるから」
「そんなのいらない! 私は戦えって命令してるだろ、私がご主人様なんだろ、だったら私の命令を聞けよ!」

泣き喚くような声だな、と冷静なときの妹紅なら判じただろう。だが今の彼女にそんな余裕は欠片もなかった。一撃でも届けばこの胸のうちは晴れるのだと固く信じて、再び両手を振り上げる。
怒り狂っているはずなのに今にも泣き出しそうな彼女を前にして、輝夜は顔を手で覆う。

「……見てられないわ」

妹紅に聞こえないよう小さく呟き、うつむかせていた顔を上げた。今度は妹紅にも聞こえるように、輝夜にしては珍しいほど真剣で、寒気がするほど優しい声を場に突き刺す。

「そうね、主の命令なら仕方がないわね。今日は朔月だから、できれば避けたかったけれど――それも無理なのね」

そんな彼女の変化に妹紅は気づかない。戦えることを知り、じらされた末の開放を夢見て今度こそとゆがんだ笑みを浮かべていた。

「やっと乗ってきたか、覚悟決めるのが遅いんだよ」
「軽々しくできる覚悟なんて意味があるかしら? 考えて悩んで、どうしようもなくとらざるをえない手段に踏み切ることを覚悟というのよ」
「うるさい!」

ことさらに優しく輝夜が重ねる言葉を、昂ぶる気持ちのままに振り切る。これ以上彼女の言葉を聞いてられない。

「御託はもうたくさんだ! あんたと私の間には、血と弾幕があればいいんだよ!」

叫ぶまま、再び炎を生み出した。今度は投げ放たずに手にしたまま、輝夜に向けて疾駆する。
元より輝夜相手に遠距離戦なんて無謀だったのだ。私の攻撃は炎ゆえ、敵に当たらずとも傷はつけれる。だがそれも輝夜位の相手となれば話は別だ。最小限の防御で十分以上に被害を抑えてくる。特に輝夜は、私より遅いし破壊力もないが、巧いのだ。悔しいがあいつが言うとおり、守りに専念されれば弾幕が通ることはほとんどない。
だからこその接近だ。手足に炎をまとわせての格闘は、受けることを許さない。受けたところでその手は炎に巻かれている。事実、あの満月の晩だって輝夜はこれを防げなかったんだから。

――刹那、脳裏をよぎる記憶。私はあの時、何を思って輝夜を望んだのか――

っ考えるな! 歯を食いしばって思考を追い出す。そんな時間はもう終わっている。ただ前に進めばいい。
進む速度を力に変えて、炎をまとった拳を振りかぶる。輝夜は一歩も動かず妹紅を見据えたまま、ゆるりと右手を構えた。
いまさら何を放つ。この距離ならもう私の方が先に届く。妹紅は迷うことなく、全力で拳を解き放った。吸い込まれるように輝夜の顔へ向かうその手に、輝夜の右手が伸び、

「がっ!?」

一瞬後には、妹紅は何もない空を見ていた。馬鹿な、と思いながらも投げられたことを理解したのはそのさらに一瞬後。飛び起きて輝夜を見ると、その右手には皮衣の赤い光が巻き付いていた。前回の経験を生かして、もう炎拳の対処法を見つけたか。しかし、それにしたってあの速度の私を投げるとは何事だ?
妹紅の疑問を例によって察した輝夜は、無感動に答えを示す。

「私の力は永遠と須臾を操ること。時間操作だってできるのよ、例えばあなたの手が届くまでの一瞬を、永遠に引き伸ばすとか。疲れるからそう毎度使うわけには行かないけれど」

なんだそれは。そんなもの、今まで一度も使われた覚えがない。まだそんな切り札を隠し持っていたってのか? つまり私は、手加減されていたってことか?

「なんで……なんで最初っからそれ使わなかったんだよ! そんなのあるなら、私にだって楽に勝てただろ!」

手を抜かれていた。その事実が妹紅の心を打ちのめす。こんなにも私は全力だったに。全身全霊でぶつかっていたのに。
震える妹紅を前にして、輝夜はやはり優しく笑う。それは狂気はない代わりに、鉄のような覚悟に裏打ちされた笑みだということに妹紅は気づかない。ただ、その言葉にだけ反応した。

「だって、それじゃあ楽しめないじゃない。せっかくの、あなたとの戦いを」
「ふざけるなあっ!」

今さっき投げ飛ばされたばかりだというのに、同じようにして突っ込んでいく。もうまともな思考などしていない。輝夜を目指してひた走る。走りながら力の限りを振り払って絶叫した。

「お前なんか、消えてしまえ!」

その言葉をばねにして、さっきより早く、強く、拳を打ち込む。さっきよりは早いはず。前よりずっと熱いはず。それでも永遠と須臾には届かない。有限は無限に追いつけない。やはりそれを妹紅は理解していたのだろう。冷静でなくても戦いで鍛えた理論は身体に染み付いている。
だから、輝夜が悲しそうに顔を伏せた後、右手が輝夜の胸を貫いたのを目の当たりにして、妹紅は最初、それが冗談か幻覚なのだと思った。

「――え?」

ごぼりと腕にかかった血に、ようやく理性が目を開ける。自分の右手はやはり、輝夜の胸の真中を貫いていた。
途端、身体に震えが走る。それは得られるはずの歓喜の反動ではなく、恐怖ゆえのものだった。どうしてそんなものを抱かなくてはならないのか、それ分からないが、震えの正体だけは否応なく自覚させられた。
忘我のあまり、腕は輝夜の身体からずるりと抜け落ちた。開いた穴から輝夜の血が噴き出して、妹紅の顔を紅く染める。反射的に輝夜の身体を支えるが、血は止まらない穴はふさがらない。永遠のはずの彼女の傷が治らない。治らない!

「ああ……やっぱ、り、痛いわねぇ……」

口の端から血を垂らしながら輝夜が言う。ささやきにも近いその声音は、普段のふてぶてしさからは程遠く、よわよわしかった。あの輝夜が、殺したって死なないはずの輝夜が死に犯されている。あり得ないはずのことが目の前で起こっている。

「どう、して」

慄きながら問う。
冷静に考えれば、あんな攻撃何度続けようが輝夜には通じないのだ。だから問う。どうして。
今なお流れ出る血。自分も輝夜も赤く染める血。いつもならすぐに治るはずの傷が治らない。だから問う。どうして。
蒼ざめた顔にはっきりと分かる死相を浮かべて、なお輝夜は妹紅に答える。

「朔の日は、月の死の日。月の力が途切、れる日。どこまでいって、も私は、月の民。月の力が、途切れれば……私だって、力を振るえない。
 今日はね、妹紅。私を殺せる、久方の日なのよ?」
「うそ、だ……」

あんなに戦うのを嫌がったのは今日が新月だから? 今日戦えば、本当に死んでしまうから?

「じゃあなんで戦ったんだよ! 拒否すれば――」

拒否すれば? 無理やりにもそれを望んだのは、誰だというのだ。

「う、あ……あああああああああっ!」

それを強要したのは私だ! 他ならぬ私じゃないか! 知らなかった?それで許されると思っているのか!
でもこれは、輝夜の死は、ずっと私が望んでいたものじゃなかったのか? 父の仇を、踏みにじられた尊厳を、取り戻すための長い長い殺劇ではなかったのか?
だけど、この身体を蝕んでいるのは紛れもない怖れだ。後悔と恐怖だ。私は怖がっている。輝夜の死の訪れを。
嬉しくなんか全然ない!

「かぐやぁ……」

抱きしめた身体は氷のように冷たい。流れ出る血だけが火傷しそうなくらいに熱くて、輝夜に残された刻限を計っているかのようだった。命を計る血時計、なんて悪趣味!そこに混じる雫一滴――私はいつのまにか泣いていた。こいつのために涙を流す日が来るなんて思いもしなかったけれど、泣いてしまっているのだから仕方がない。
同時に、どうやら観念せざるをえないらしいぞ私の上っ面。さすがにコレは、いくら鈍感で意地っ張りな私相手でも、もう隠せない。

私はきっと、こいつが好きだ。泣いてしまうくらいに愛している。

いまさら理解するなんてお笑い種だ。いまさら過ぎるほどいまさらだ。死に際だなんて、どれほど遅けりゃ気が済むんだ。
わめく妹紅の頬に輝夜の手が伸びる。感触こそ冷たいけれど、その仕草は泣きたくなるほど優しかった。

「泣か、ないで、妹紅……嫌いな私は、これから死ぬの、よ? 憎しみだって、器に収まってるなら、生をつなぐ大事なかんじょう。でも、度を過ぎれば……蓬莱人すらころす、毒になる。
私を見るだけで、あなたが苦しむほどになってしまったのなら――わたしは、私を殺すわ」
「それで、私が消えろなんて言ったから!?」

そんな事言うなよ。余計に辛いじゃないか。全部が全部、自分のせいだと分かっていても。
それは勘違いだったんだよ。私はきっと――言えない気持ちを、お前への憎しみだと取り違えてただけなんだ。
あふれる気持ちをわななく口は言葉にできずに、ただ添えられた輝夜の手を取った。掴んでしまった手首の鼓動は、もう微か過ぎて感じ取れない。
なのに輝夜が無理やり身を起こそうとするから、私は輝夜を抱き寄せた。

「いわせて、もこう」

私はかすれる声を必死に聞き取ろうとあがく。輝夜の吐息が肌に触れるほど強く抱きしめて、

「わたし、あなたが、好き――」

途切れた声に、力を失った彼女の身体。藤原 妹紅は、宝物にでも触れるように大切に、二度と離さないように強く抱きしめ、

「ん……私も、だ」

囁いて、途端力を取り戻した輝夜に強く抱き返された。

「……あ?」
「うふふ……よかった。これで私達、正真正銘の両想いね。長い片想いもついに終わりだわ」
「え、ちょ……輝夜、生きてる?」

混乱する頭を必死に整え、ただ現状把握に努めさせる。輝夜の肩口からのぞく背中に、さっきの穴はきれいさっぱり消えていた。
輝夜は妹紅を強く抱きしめたまま、先ほどとは打って変わってはっきりと甘く囁く。

「力が弱くなるのは本当。さっきのは、ぎりぎりなんとか生存可能な際だったのよ」
「こ――こっの嘘つきめっ」

ありったけの憎らしさを込めて毒づく。ああ、分かってるさうれしさ隠し切れてないことなんて。
だって仕方ないじゃないか、私はこいつが生きてることがうれしいんだから。
抱かれるに任せるまま、私は頭上を見上げた。ぽっかり開いた空に月はない。あるのは無数の星の光だ。月に比べればか細い光だろうけれど、確かにそこに存在している。

「ああまったく、生きているってのは素晴らしいね」
「同感よ」

星明りの下で何が悪い。月明かりにも負けない景色だ。記念日には良いだろうさ。
重なる自分達の影を見つめて妹紅はそう思った。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇





いまだに空は暗い。だが明け方に向かって、時は止まることなく進んでいる。事実、茂みを闊歩する虫も増えてきた。春はいずれ過ぎ、夏になるのだ。それも遠いことではあるまい。
あの戦いから十数分後。広場には独り、輝夜だけが残っていた。なんだかんだと言い訳して、妹紅一人先に帰らせたのだ。その理由は、輝夜の背後の木にいる。

「ずいぶん危なかったな」

聞こえてきた声は硬質かつ気難しいものだった。だがそこに、かすかな安堵と気遣いを感じたのは輝夜の気のせいではないだろう。生真面目なやつねぇ、と内心苦笑しながら、振り返ることなく輝夜は応えた。

「ええ、久々に命の危険を感じたわ。死ぬって、ああいうことなのね」
「怖いのならもっと安全な手を使うべきだったな」

ため息混じりの言葉とともに木の陰から出てきたのは、藤原 妹紅の親友と自他共に認める上白沢 慧音であった。彼女は苦い顔のまま輝夜の脇に座る。

「それにしても他に手はなかったのか? 私はもっと穏便に済ませるからと言うから協力したのに……」
「感謝してるわよ。あなたがいたら、さすがの妹紅も私を呼び出すなんてしなかっただろうし。おかげで刺激的な時間をすごせたわ。こんなに幸せなの、生まれて二度目かしら」

その言葉に間違いはないだろう。彼女をよく知るわけではないが、それでも輝夜は十分以上に幸せそうに慧音には見えた。今回が二度目なら、一度目はいつかなどと聞くのは無粋だろう。分かりきっている。
さすがに戦闘になったときは肝を冷やしたが……結果よければすべてよし、としようか。何より妹紅のあんな顔を見せられて、いまさらなんだと言えるはずもない。
内心、うれしいやら腹立たしいやら複雑な慧音をよそに、輝夜は月のない空を見上げて大きく一つ伸びをした。

「ああまったく、メイドって予想以上につらかったわ。死んだ方がましなくらい」
「楽しそうに見えたが?」

メイドとして庵にいたとき、彼女はいつも笑顔だった。それも裏表のない、正真正銘の笑顔だ。つらそうには見えなかった。対する輝夜は、一部を首肯し、一部を否定した。

「ええ、妹紅のために何かしてあげられるのは楽しかったわよ。何を作れば喜んでくれるかなんて、考えただけで胸が躍ったわ。
 けれどね」

くく、と小さく笑って輝夜は続ける。

「どんなに愛したって、あくまでメイド――忠義ゆえの行為にしか見られないなんて、報われないじゃない?」
「それは……確かにな」

少しだけその気持ちは分かる。方向性を間違えられた、というよりすれ違う感情ほどつらいものはそうそうない。それくらいの経験は、慧音とてしてきたのだ。
深くうなずく慧音を、立ち上がった輝夜は振り返り、

「まったく、メイドはつらいわね」

苦笑混じりのくせに、いやに楽しそうにそうのたまった。








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