寒い冬が過ぎ、私が紫様と初めて会った季節──春がやってきた。
マヨヒガに植えられた木々も芽吹き、特に東の一角に並ぶ桜は見事な程に咲き誇っていた。
あまりにそれが見事なので、紫様に誘われて二人での花見となった。
はらはらと、かすかな風に乗って桜が散る。
世界から隔絶したこのマヨヒガでも変わらずに美しく、はかなく、桜が散る。
伸ばされた手に乗った杯に酒を注ぎながら、私はその景色を眺めていた。
いつか、これをどこかで見たような気がする。紫様に出会う前。それより前に、どこかで。
それは紫様に封じられた記憶が滲み出たものなのだろうか。何故今になって、そんなことを思い出すのだろうか。すこし、記憶の箍が緩んだのかもしれない。








シュレーディンガーの忘眠 〜 Border of Self #03-睡余の願い

夢と現にある境界。自分と世界の間の境。
私が望めば移ろう景色。夢なのかすら区別か付かない、私の視界。
それが無意味だと思ったのは何時の日か。世界が色褪せたのは幾年前か。
答えはずっとあったのに。気が付かなかったのは、私だけだったのに。
不確かなのは誰もが一緒。自分を確かめる術など何処にもない。
それでも皆、此処にある。生きている。
不確かな事など忘れて眠ってしまえ。夢も現実も、認識こそが世界を決める。
自分がいるかいないかすら、自分で決めてしまえばいいのだ。
ならば私は、此処にいる。あの子の隣、此処にいる。



紫様に押し付けられた、緋の杯を傾ける。私が見つけてきた、出雲の酒が喉を冷たく通っていった。
桜が散る。終わらない終わりを謳い続ける。散という死。咲という生。その境界線上で華が舞う。
きっと、酔っているのだろう。取り留めのない、益体無い事ばかり考えている。喉越しは良いが強い酒ではあるようだし、そろそろ控えるべきだろうか。
紫様を見る。相変わらずの速い調子で酒を飲んでいるようだった。自棄酒のようにも思えるが、これがこの方のいつもの飲み方。
体に悪いと思うのだが、その最中でさえ紫様の思考行動に普段との変わりはない。全く酔った気配もない。つき合わされる私だけが、必然的に酔っ払ってしまうのだ。
今日こそはここらでやめておこう。紫様に張り合うだけ無駄だという事は何度も学習したはずなのだ。桜も綺麗だし、ここらで杯を置いて──

「藍? どうしたの、ぼうっとして」

主の声に、思考が冷める。いつもより早い立ち直りだ。酒に慣れたのだろうか。

「いえ、少し考え事を……注ぎましょうか?」

紫様の杯が空なのを見て、酒瓶を差し出す。
だが珍しく、紫様は首を振った。

「ありがとう、でもいいわ。もう十分酔えたから。
 ふふ、久しぶりだわ。酒に酔えるなんて」

微笑しながら呟く。確かに今日はいつもより顔に朱みが差している。しかし、いつもならもう数本くらい楽に空けているはずだ。
小さな差異に、少しだけ違和感を覚える。体の調子でも悪いのだろうか。そんな様子はこれっぽっちもないのだが……
私の視線に気づいているのかいないのか、紫様が桜を見上げる。その表情は──少し嬉しそうで、少し寂しそうで。

「藍、境界を操るってどういう事だと思う?」

唐突に投げられたその問いに、私は気づくのが一瞬遅れた。

「境界、ですか? そんなものはわかりませんよ。境界自体が曖昧で……
 それにそれこそ紫様の領域でしょう、それは」

境界を操る力。それが紫様の力。絶対に近い圧倒的な力。
それを手にしながら、紫様は自嘲するように笑うだけ。

「境界を操る。確かに万能かもしれない。でも万能という事はとても不自由なのよ」
「そう、なのですか……?」

それは私の考えに、真っ向から対立するもの。力さえあれば自由になれるはずという、私の根底を打ち崩すもの。
それをこともなげに、紫様は口にした。

「例えばあらゆるものを見通す力。それを持って生まれた彼女がどういう生を辿っているか、あなたは聞いているでしょう?
 例えば境界を操る力。それをもっている限り、自分と外界の区別すら曖昧になってしまうのよ。望んだ境界線、それが真実の境界線? 私が動かした後ではないの?
 わからない。判断できない。ここにいるのか向こうにいるのか。いるのか、いないのかすら。
 なのに、それに誰も気づかない。本当はすきま妖怪なんて、言葉通り空隙に過ぎない事を誰も知らない。すきまは埋めない限り、ずっと空いたままなのに」

紫様の自嘲の色はさらに濃くなる。それはもはや、間違いようのない呪いだった。自らに向けて放たれた呪いの言葉に違いなかった。
私は何も言えない。それを知らない私が、何を言えるというのだろう。
私は、ただの妖怪で特別なものなど何もなかった。それがずっと嫌だった。
裏切られたくなかった。裏切りたくなかった。力さえあれば、きっと何もかもがうまく行く。そうずっと思っていた。
言葉が曖昧になる。自分の思考なのか、そうでないのか、区別が付かない。

「私は──」

なんなのだろう。そう呟きかけて。
桜を見上げたまま、紫様は静かに告げる。

「藍、それを飲んだら博麗のところにお使いに行ってくれないかしら。これが最後だから」
「最──後、ですか?」

最後。最後。どうしてこの言葉を、今紫様から聞いて。
私はこんなにも、慄かなければならないのか。恐れなければならないのか。
何から。何に。わからない。わからない。わかりたくない。
瞬きしたまぶたの裏に、あの冬の日の紫様の穏やかな笑みが浮かぶ。それが一層、私を苛む。
さっきの事と混ぜ合わさり、混乱する私に、紫様は穏やかに告げた。

「そう、最後。これで博麗の仕事も一段楽するから、もうお使いはしなくていいの。
 といっても、あいつは割合頼れるやつだから好きに会いに行っていいわ」
「ああ、そういう意味ですか」

胸をなでおろす。それ以外の意味などないはずなのに、何を勘違いしていたのだろう、私は。
やっぱり酔っているのだろうか。酔っている感覚などないが、それでもこんな馬鹿らしい思考、酔っているとしか考えられない。
つい、と紫様が空を撫でる。裂かれた隙間から、取り出された薄い包み。符でも包んであるのだろう、そう思うくらいの小さなものだった。
紫様はそれを私に預け、その場に横になった。眠たそうに細められた目で私を見て、緩慢な動きで手を振った。

「それじゃあ頼んだわよ。いってらっしゃい、藍」
「はい、行って参ります」

立ち上がる私。大丈夫、飛べないほどには酔っていない。マヨヒガの境の鳥居を目指して、私は空に舞い上がった。
風を切り走り、一度だけ紫様を振り返る。眠っているのだろう、身じろぎもせず横になっていた。
大丈夫。大丈夫だ。
何が、なのかはわからない。ただ自分にそう言い聞かせて、私は振り返るのをやめてマヨヒガの中を駆け抜けた。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




空を行く藍の姿はもう見えない。
尤も自分の目がちゃんと彼女を見ているのか、確たる自信はないけれど。
でもきっと大丈夫。もう、これで終わり。
長く、安堵の息をつく。
長かった。永かった。永過ぎた。私の色が褪せるほどに。
でももう大丈夫。古い色は塗り替えればいい。次なる希望に託せばいい。
私がすべき事はもうあとわずか。紫を藍に塗り替えれば、それで終わり。
逆流する苦い錆味の紅を、こらえきれずにびりゃりと吐き出す。何度も、何度も。意識が遠のきそうなほどの血を吐き出して、その苦さと赤さでなんとか意識をつないでいた。
少し息が荒い。思った以上に事は進行している。望外に上手く進んでくれている。
あとはそう──時を待つだけ。

「それなら、もう少し思い入れのある所でもいいわよねぇ……」

それくらいの我侭なら、通させてもらってもいいだろう。回数は余裕があると思いたい。

「もうずいぶん使い切ったような気もするけれど」

くすくすと、自分の言った事に馬鹿みたいに笑いながら私は身体を隙間に落とした。
隙間を使えるのもこれが最後だ。手を離れていきそうな意識を何とか掴んで、あの場所を思い描く。

満開の桜。灰色の空。冷たい雨。
濡れた桜が雨と同じように落ちていく。
絶望と苦痛の淵を渡り終えてさえ、なお生きようとしていたあの子の姿。
それでも運命は変えられなくて。消えてしまった命。それを──なんとしても、救いたかった。
それは擦り切れた私には、掛け替えがないほど大切なものに見えたから。
事実、あの子は境目で私の誘いにあっても、自らの生を肯定したのだ。それほどに強く思える事はどれ程大切な事だろう。
私にはない、なくなしてしまった、いつかの風景をあの子はしっかりと持っていた。

とさり、と草の上に落ちた感触。きっと敷き詰められた桜の花びらだろう。
目を開けて映る、満開の桜。散り行く桜。あの時と同じ、桜が舞う。

ああ──こんなにも、綺麗だ。

雨はない。代わりに、雨のように桜が彼女に降り積もる。
舞い散る桜に包まれながら、紫は静かに独り、目を閉じた。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




「────っ!」

博麗神社に向かう途中、なんの前触れもなく私の体が止まった。同時に鳴り響く、意識の底からの大きな警鐘。冷たい汗が背中を流れた。
それは全て、まやかしの様に曖昧な、幻聴としか思えない事に起因する。

「紫様の、声が聞こえた……」

馬鹿馬鹿しい事だと思う。それ自体はありえるが、それならあの方はもっとちゃんと私の名前を呼んでいる。今みたいに、泣くようにか細い声でなど呼ばれた覚えは一度としてない。
それを理解して総毛立った。あの方の身に何か起こったのかもしれないという可能性に気が付いたのだ。
前回は何もなかった。何も? いや、あったじゃないか。どこぞの妖怪が紫様の部屋近くまで侵入して返り討ちにされていた。
でも、私はそいつの死体すら見ていないのだ。本当にそれはいたのだろうか。いなかったのなら、あの血は……
手元の包みに目を落とし──私は、いつもより数段急いでマヨヒガへと空を駆けた。
異様なほど身体が軽い。こんなときではあるが、早く帰れるのはありがたい。その原因も考えず、私はマヨヒガに急ぎ、たどり着いた。
そして、見つけた。

「……血だ」

先ほどまで紫様が横になっていた場所一面に、赤い血がべったりと落ちている。
いつかのように、香りが鼻に付くほど新しい血が、たっぷりと。致死量なのが、十分にわかるくらいに。
そして、この匂いは。あの出雲の酒の──!

「紫様っ!」

ありえない。そう思っていた事が目の前にある。
いや、落ち着け。これが紫様の血と決まったわけではない。紫様を襲った何かを、また返り討ちにしたときの、相手の者かもしれない。酒の香りはそこらじゅうに漂っているのだ。
頭が逃避するように生み出した話を、理性があっさり一蹴する。
馬鹿な。酒の香りはちゃんと血からも立ち上っている。前は紫様の私室近くだったから、あの方の血だと言い切れなかった。でも今回は違う。だからこれは。

嫌だ。その先を聞きたくない。考えたくない。
呆然と私はその場にひざを付く。
何かしなければいけないのに、何をすればいいのかわからない。
紫様を探すべきだとわかっているのに、紫様のその姿を見たくなくて動けない。
そんな私の首元で、かしゃり、と小さな音がした。

「ぇ……」

小さく、悲鳴のような声が響く。小さいはずなのに、それはやけに大きく聞こえた。きっと私の耳にほかのすべての音が届かなかったからだろう。
かたり。地面に落ちる。それは首輪。私が今までつけられていた首輪。
それを見て。認識して。

私は“私”を取り戻した。

自分の名前は何か。自分がなんなのか。どういった事をやってきたか。その全てを思い出した。
首輪が外れれば自由になれる。本当にそのとおりだった。
ならば、何故私はすぐにここを離れないのだろう。
答えなど、最初からわかっている。これが外れれば私は元に戻れると教えられたとき、一緒に紫様が言っていた事。

──首輪が外れるのは私が外すか、私があなたを制御できないほど弱るか。そのどちらか。

今がそのどちらかかなんて、考える必要もない。
いまだ香り漂う紫様の血。これだけで、何もかもが一切合財わかってしまった。
つられて思い出すのは、紫様と出会ったときの事。それからの、この一年。
憎んでいた。それはそうだ、私は誇り高い妖だった。都を追い払われた身とはいえ、あんなまねをされてなお平然としてはいられなかった。
でもそれは最初だけ。あの方と過ごすにつれ、あの方の危うさを知り、あの方なりのやさしさを理解し──私は、紫様に惹かれていた。
何で今になって、認めるのだろう。もう遅い。遅すぎる、のに。
膝をついたまま、涙が流れる。一筋、二筋と流れていく。
ただ泣き続けている、そんな私の後ろに、

「ふん……ぎりぎり、か」

いつの間にか、博麗殿が立っていた。
振り返って、驚いた。博麗殿はいつもの改造巫女服ではなかった。染み一つない雪のように白い絹に、赤い糸で細やかな刺繍をあしらってある。
無表情の博麗殿とあいまって、その姿は巫女というにふさわしい荘厳さを備えていた。
その冷たい目がこちらを向く。厳かな空気をまとったまま、博麗殿は口を開いた。

「藍ちゃん──いや、九尾の狐。
 いまから言う事を良く聞きなさい」

その託宣染みた、色のない声。打たれたように身体を私は振るわせる。

「紫はまだ生きてるわ。かろうじてってくらい微妙だけど」
「────!」

跳ね起きて博麗殿に向き直る。紫様が生きてる。博麗殿の口から聞かされた言葉は、目に見える大量の血という現実よりも信じられた。

「本当ですか! 紫様はどこに──」
「順を追って話すから。じゃないと、ちょっと冗談じゃすまない事になる。
 まず言っておかなければならないのは、貴方は今から数刻もしないうちに、何もしなくても──じゃないわね、何もしなければ・・・・・・・、絶大な力を手に入れることが出来るってこと。
 もうすでにある程度は流れ込んでいるんじゃない? さっきから妙に力があふれてきているとかなかった?」

風にあおられ、はためく巫女衣を気にした風もなく、ただ淡々と博麗殿は話を続ける。
紫様が今どうなっているかを聞きたいのだが、それを邪魔することは躊躇われた。そうすれば、容赦ない封殺が飛んできそうで。

「それは境界を操る力。陰陽より派生するすべてのものに君臨する力。貴方が何より望んでいた、圧倒的な力。
 それをもうすぐ手に入れることが出来る。何故なら、紫が貴方に自分の力を遺して死ぬから」
「死ぬ…から」

予想していなかった、なんていうのは嘘だ。薄々どこかで、もしかしてと思っていた。
でもずっと、理由がないとそれを否定してきた。それだけが状況を否定できる唯一の材料だったから。
……理由は、あった。紫様自身の口から今日聞かされた言葉。

博麗殿の話は続く。

「ところで、今なら思い出せるでしょう。紫に会ったとき、貴方ちゃんと生きてた?」
「そ、それは……」

理不尽な博麗殿の問いかけ。
生きていた。そうに決まっている。でなくば、今ここで生きている私はなんだという事になる。
否定するのは簡単だ。なのに、博麗殿の眼がそれを許さない。
本当にそうか? 何か間違っていないか? 自分が正しいと、そう言い切れるのか?
そんな問いを無表情の裏に隠して私に送りつけてくる。

「あの、時。私は……ちゃんと──」

──生きて、いた?
都を追われた時に、受けたいくつものもの矢。呪いを込めたそれは、確実に私を死の淵に追いやっていた。
それでも、生きていたかったから。死んだように見せかけて追っ手を騙し、近くの山中に逃げ込んだ。
でも足を怪我していて、呪いに体は蝕まれ、体力は雨にどんどん奪われ──

「ああ、ああああああ──」


私は、死んだのだった。


「ああああああああああっ!!」

そうだ、死んでいた。ちゃんとしっかり死んでいたのだ、私は。あの時、紫様に会う前に、冥府に足をつかまれ死の河を渡った後だった。
ならば私は何故今生きているのか。そんな事、簡単すぎる。
死神のように私の前に現れたあの方。あの方は──死神とは真逆の存在だったのだ。

博麗殿の、話は続く。

「納得、行ったみたいね。
 普通はね、力の継承でも紫は死ななくていいのよ。普通なら無理のある事じゃないから。
 でも今回は普通じゃなかった。貴方は死んでいた。魂は身体から剥がれ落ちかけて、肉体も限界。そんな貴方の“生と死の境界”をずらし、自分の力を変形させながら注ぎ込んだ。
 式神にすれば、そんな難儀な事する必要もなく貴方を蘇生できたのに、あいつは莫迦だから貴方が縛られないよう“下僕”という形を選んだ。
 本当、莫迦なやつ。欲張らなければ死ぬ事もなかったのに」

今まで、ずっと何の感情も無く通してきた博麗殿に、今になってやっとほんの少しだけ、寂しそうな色が見えた。
でもそれも一瞬の事。次には、もう博麗殿は冷めた目で私を見ている。

博麗殿の、話は、続く。

「その方法は無理だらけだった。まず無理な施術だったんだから、無理が出ない筈がない。
 そもそも、生と死の境界なんて莫迦みたいな大規律、短時間ならともかく長時間ずらしたままでいられるはずがないのよ、あいつでも。
 前に言ったでしょう。紫は蜘蛛で、その巣にかかった貴方は蝶。
 でもそれは捕まった瞬間入れ替わった。貴方が蜘蛛になり、紫が蝶になった。巣にかかった蝶を蜘蛛はどうする? ばりばりと食べて、自分の力にするでしょう?
 だからあいつは必ず死ぬ。貴方にばりばり食べられて」
「それが、あのたとえ話の意味ですか……」

入れ替わった蝶と蜘蛛。食べられる者と食べる者。
それは確かに、当たっていた。

そして、博麗殿は話を終える。

「以上で私からの話は終わり。さて、そこの貴方。
 最初に言ったように、貴方はちょっとの間何もしなければ、もう裏切る必要も裏切られる心配も無い力を手に入れられる。そんな段階は軽く超越した力だからね、あれは。
 それでも、あの莫迦を助けたければ──そうね、原因を取り除けばすべてが元通りになる。蜘蛛は蝶を助けようと思わなければ、蜘蛛を止める必要もなかった。綺麗過ぎる孤高な蝶じゃなくて、隣にいてくれる朝露でも望んだのなら蜘蛛のままでいられたのかもしれないわ。
 それが解法。必要なのは覚悟だけ。私が示すのはやり方だけ」

言って博麗殿はぽい、と一枚の符を投げ出した。
声は相変わらず淡々と、感情の欠片も感じさせない。
しかしその目は、もういつもの穏やかな博麗殿のものだった。

「そいつを使えば紫に追いつけるわ。行くのなら早くするのね。
 ついでに言えば、その包みの中は見通させてもらったけど必要ないものだったわ。後の事なんか、頼まれてやるものか。
 それじゃあばいばい、藍ちゃん。この一年、なかなか面白かったよ」

落ちた符を拾い、見上げる。そのときにはもう、博麗殿の姿は何処にも見当たらなかった。
ぞんざいなやり方だが、あの人らしいといえばあの人らしい。
背中は押してもらった。目的も出来た。あとは、歩くだけだ。
その一歩を踏み出して、地面に落ちた符をとって。
大きく深呼吸を一つ。持った符に力を込め、術式を働かせ、理を書き換え、呪を動かして世界を渡り。

雨のように舞い落ちる桜の中に、眠るように横たわった紫様の姿を見つけた。

それはあのときの焼き直し。入れ替わっているのは、私と紫様のいる場所。そして冷たい雨と降り注ぐ桜くらい。
その様はまるで、今の二人をそのまま暗示しているようで──どうにも、顔をしかめるしかなかった。
少し急ぎ足に、紫様の側に寄る。気配を察したか、紫様は薄く目を開け──力なく、微笑んだ。その口の端から、赤い血がつぅ──と流れる。

「あら……見つかってしまったわ。かくれんぼは、私の負けね」
「…………っ!」

一瞬で、頭に血が上った。冷静になろう、落ち着いて話そう、そう言い聞かせてきたのに、全部全部吹き飛んだ。
私は紫様を見下ろしたまま、あらん限りの声で叫ぶ。

「ふざけないでください! なんで……なんでこんな事を──!
 言いたい事、たくさんあるんですから! 人の気持ちも考えずに、勝手にこれがいいとか決めてしまって、限りないほど暴走して。あれだけ一年間引っ張りまわして、生きてるんだって実感させて!
 どうしてこんなに優しくしたんです! あなたが居なくなったとき、辛くなるばかりなのに」

そうだ、それこそ最初会った時の様に接してくれれば良かったのに。
そうすれば、この方の死を見ても何も感じずに居られたのに。
紫様はやはり薄く笑ったまま。あれほど血を吐いているのが信じられないほど穏やかに、言葉を紡ぐ。

「そう、それは謝らないといけないわね……
 でもね藍──いいえ、狐さん。だって、あのときの貴方、何も信じてなかったじゃない。そんなの駄目よ。駄目すぎるわ。
 貴方は自分が幸せになれるんだって、そんな事考えもしてなかった。幸せになりたくて、裏切られて。もう裏切り続けるしかないなんて思い込んで。そんな遣り方は必ず貴方を不幸にする。
 世界はこんなに残酷で、寛容なのに。残酷さしか知らないなんて不公平すぎるし莫迦らしすぎる。
 だから少しだけ、ほんの少しだけ──貴方に、幸せになれる事を知ってほしかった。
 辛いのなんて一時だけよ。たった一年過ごしただけの仮初の主でしょう? 大丈夫、すぐに私の事は忘れられる」

紫様の言葉に、歯を食いしばる。
藍ではなく、狐さん。それが今の、あの方の中の私の位置。もう踏み込めない、私と主の境界線。
でも、それは間違ってる。私に幸せになってほしいなら、こんなことは無意味なのだ。
それを私はこの方に伝えなければならない。この方の、決定的な間違いを。

「私、幸せだったんです」

抑えた声で、それでも肩が震えるのを自覚しながら、私は言う。
紫様が少し嬉しそうに笑って──次の言葉で凍りついた。

「あなたのお側でいられて、幸せだったんです。貴方だったから、幸せだったんです」
「…………何故。違うでしょう、藍。私がそこに必要なわけないでしょう。あなたに必要なのは私ではなくて、自由や力や──」
「だから!」

こらえきれず、再び叫ぶ。わかってくれないこの主に、懸命に叫び続ける。

「あなたがいたから幸せだったんです! やっと気づいた、やっと解ったんです。
 自由なんていらない! あなたのいない幸せなんて幸せじゃない!
 どうか私を見捨てないでください! 私を置いていかないで、紫様!」
「そん、な────」

幸せを知らない? そんなの私の事じゃない。そうなのは紫様の方だ。
こんなに必要とされているのに、それにも気づかないなんて。
この方はずっとずっと、自分はいつ居なくなっても大丈夫だと思っていたのだ。悲しむ人が居ないから、だから自分を切り捨てられる。
境界線上にある自分の存在。それは曖昧で、いるのかいないのかわからなくて。だから誰も、その存在を考慮に入れなくて。入れたら入れたで、今度はどっちなのかわからないからどうにもできなくて、触れないようにするしかしかなくて。
きっとそんな風に思い続けていたから、この方は誰の目にも触れなかった。いてもいなくても、それは同じだったのだ。誰かが代わりにいる役を、自分の境界を動かす事で成り代わって生きてきたのだ。
それこそ間違っている。まったく、博麗殿がいつかに言ったとおり、何様のつもりだ。他人に幸せになれとかいう暇があるなら、自分を何とかすべきだろう。
それをこの方に教えてあげなければいけない。それが従者としての、私の役目だ。

「紫様、だからこの儀式──邪魔させていただきます」

理解し、悲しそうに自嘲する紫様に、決意と覚悟をもって宣言する。

「無理よ……確かに、貴方の方が今は私より強いでしょうね。でもこの術式、貴方に解るものかしら。私が長い時間を掛けてくみ上げた変則的な式なのよ? もう私はいくつも持たない。時間はないわ。
 御免なさい、貴方を傷つけてしまったけれど、もう私には他には何も──」
「止め方は知ってます。博麗殿に、お聞きしましたから」

遮った私の言葉。それに紫様は自嘲すら止め、青ざめた顔を真白にして、もはや動けもしない身体を必死に引きずって私を見上げる。

「なんて──こと。止めなさい藍! それがどういう事か分かって言っているの!?」

また、紫様の口の端から血が一筋、二筋とあふれていく。きっと苦しいだろうに、痛いだろうに、それでも紫様は動くのを止めない。私の死を否定し続ける。
ああ、私は悪い従者だな。主が、こんなに必死になって止めろと言ってる事をしようとするとは。
でも納得がいかないのだ、この結末、この終わり方。

「分かっていますとも、それしか私が貴方の隣にいる方法がないって事くらい。
 それに、私はなんだっていいんです。貴方の側でいられるなら、式神でだってなんだって。自由がなくたって、いいんです。
 私は何より、貴方が欲しい」

大丈夫、一度通った道だ。怖くなんてない。
それにここでお会いしたとき、紫様自身が仰ったのだ。


あなたが自分の死を選ぶ時まで、私の隣に居続けなさい、と。


まあその後も、出来ればお側にいさせてもらいたいのだが、そればっかりは紫様の決める事。でも自信はある。私以上に紫様の事を考えている従者なんて、絶対いない。天に掛けて誓ってもいい。
だから、簡単だ。あとは腕を突き立てればそれでいい。躊躇なんて微塵もない。紫様を信じている。
ただ、そこでちょっとだけ紫様にお願いがあったりするのだ。

「紫様、私を起こしてくださったら──おはようって言って頂けますか?
 それが私の願いなんです、紫様──」

最後は、紫様が不安にならないよう笑ったまま。
私は振り上げた腕を思い切り自分の胸に振り下ろし、確実に心臓を貫いた手ごたえに安堵しながら、暗い闇に落ちて行った。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




桜が、ふらりはらりと舞い落ちる。
春の柔らかな風の中、ざわめきながら揺れ落ちる。
その只中で、紫は穏やかな笑顔のまま事切れている藍の身体を抱きしめていた。
分かっている。自分のしようとした事は、何から何まで失敗だった事くらい。
でもそれでも──向こう側を幻想してしまうのは、止められなかった。
突き立てた己の爪は痛かっただろうに。肉を裂く苦しみは、耐え難かっただろうに。
そんな苦しみ、味わって欲しくはなかった。ただ、幸せになって欲しかった。

「私、駄目な主ね……」

あれだけ諭されて、まだこんな事を考えているとは。
深い自嘲を刻み込んだまま、ぽつりと呟いて、立ち上がる。幽鬼のようにやつれたその顔立ちで、目だけ炯々と光を放っていた。
鋭い視線が、桜並木の向こう側に注がれる。

「まったく、どうしてくれるの。私のしたかった事全部台無しじゃない。
 前に聞かれたことそのまま返すわ。貴方こそ一体何様のつもり? 兄弟を導く老婆かしら? 貴方が何か言わなければ、長兄だって次兄だって梨を採れたかもしれないのに」
「老婆ってなによ、老婆って。私そんなに歳くってないわよ」

不機嫌そうな顔で桜の裏から出てきた霊夢は、倒れた藍の穏やかな顔を見て、やや安堵したように呟く。

「藍ちゃん、間に合ったわけだ。まったく……本当に駄目な主だわ、あんた。
 見通す私が言っても聞きゃしないだろうから言わなかった事、やっと教えてもらったわけね。
 長年生きてる癖に情けないったらありゃしない」
「ふん……貴方にそんな力なくったって、言って来たのが貴方なら信じなかったでしょうね」

言い返すが、効いた風情は欠片もない。ただかすかに苦笑いさせたくらいである。

「あっそ。
 それにしても迷いも迷ったわね。そんなに嫌だったの? 式神にして自分に縛り付ける事。
 死ぬ時は一緒になって。式神に生気を供給し続ける主は、冬みたいな周りに生気のない季節は式に任せっぱなしで眠らなきゃいけない位でしょ。
 藍ちゃん見てたらそれくらい我慢してくれるって思わなかったわけ?」
「我慢は人に押し付けるものじゃないでしょう?」
「あんたが言うか、それ」

霊夢は心底呆れたとため息ついた。ひらひらと手を振りながら続ける。

「ここら一帯、結界張っておいたから。雑霊なんかは入ってこれないわ、安心してやっちゃいなさい。
 しかしまぁ見事なもんね。あんたの血まき散らかしたせいで、ここらの桜みんな呪われちゃってるみたいに薄紫色じゃない。おかげで隔離しやすかったんだけど。紫桜木シオウギって感じかな」

茶化す霊夢に、そういえば確かに辺りが静かだと今更ながらに紫は気づいた。
そんなことに気を払っている余裕が今までなかったのだ。
霊夢と話して、紫はようやく自分がいつもの調子を取り戻しだしたのを自覚した。
まったく、色々とおせっかい極まりない巫女だ、と苦笑しながら。

「帳消しには足りないわよ」
「つっても残りはしばらく返せないよ。私、明日あたり死ぬ気だし」

あっさりと。明日の天気を話すのように霊夢は自らの死を口にする。
紫は一瞬驚いて──思い出し、納得した。

「先代の遺産。人間と妖怪の力量差を埋められる呪符制度を蔓延させ、常識化させる意識結界を含めた隔離世界。博麗大結界の最後の詰めか……」
「大正解。あんたのおかげで準備は整ったからね、あとは維持用の楔だけなのよ。
 なくてもいいんだけど、あった方が安定するし。私が適当に埋まればそれで完成。
 あとは次に任せるわ。金輪際、巫女なんかやってやるもんか」

準備が大変だったんだから、と嘆息する霊夢に、いつもと違った調子はない。死を前にしても変わらない。
それが不思議で、紫は思わず尋ねていた。

「死ぬの、怖くないの?」
「どうせ生きてても、巫女なんて割に合わないことしなくちゃなんない。それなら死んで怨霊になっちゃった方が自由にやれるかなーなんてね。楔にするのは身体だけでいいんだから、魂は好き勝手できるでしょ。
 ついでに今までいろいろ言ってきた連中祟り殺してやるつもり。妖怪相手にするの私なのに、あーだこーだとうるさい事ばかりでいい加減鬱陶しかったのよね。意趣返し、今から楽しみだわ」

くくく、と笑う彼女。
そんな様子に、本当に、心の底から呆れてしまう。

「ふん……ずいぶんな事ね。博麗の巫女とも思えない言葉だわ。妖に魅入られでもしたんじゃない?」

冗談混じりに言葉を返す。それを聞いた霊夢はやけに嬉しそうに手を打った。

「ああ、それはいいわ! そういう事にしておこう、そのほうが楽しそう。魔に魅入られて、ね。その言葉、もらっておくわよ」
「著作権は主張しないでおいてあげるわ。餞別よ」

もはや言葉もない。投げやりに言葉を放って、紫は藍に向き直る。やらなければならない事があるのだ、これ以上付き合ってられない。
霊夢は構わずにひとしきり笑って、背を向けたままの紫に手を振った。

「ありがたいね。さてそれじゃ、さよなら紫。私の精神がちゃんと現世で安定するまで、一年かかるか十年かかるか。はたまたそれ以上か。
 そこらへんは分からないけど、元気にしておきなよ。あと、藍ちゃんあんまり苛めるんじゃないわよ」

彼女の生きた最後の声だろう、その声。なのにそんな気配は、やっぱりどこにも見当たらない。
だから紫も、いつものように返してやった。この莫迦が、いつものように帰れる様に。

「余計なお世話よ。とっとと行ってしまいなさい。ちゃんと待っててあげるから、勝手に成仏するんじゃないわよ」

それで終わり。それ以上は言葉はない。いらないから、存在しない。
霊夢は手を振って桜の木立の中に消え、紫は渾身の術式を構築し始めた。

桜並木がざあ、と揺れる。
あたりはその薄紫色の吹雪に覆われ、隠れ──見えなくなった。








◇  ◆  ◇  ◆  ◇








「──これが、この首輪にまつわる私と紫様の出会いだ。いくらかあとで聞いた話も含めているけれどな。
 それにしても、この首輪はずっと失くなったと思っていたが……紫様があの後ここに仕舞い込んだんだろうな」

愛おしげに、首輪を握る藍。
橙はただ、その話を聞いていた。その間一度も目をそらさず、一言も聞き漏らすまいとその黒耳を藍に向けて。
それだけ、これが大事な話なのだと橙は考えていたからだ。
知らなかった。自分の主と、その主にそんな絆があるなんて。
それが少し、うらやましかった。自分には、主の式になる前の記憶がないからだ。
気が付けば眼の前に藍がいて、心配そうに自分を見つめていた。
自分はそのときから、彼女を主だと当然のように思っていた。
その理由が、今日すこし分かった気がする。

「どうしたんだ、橙?」
「なんでもないよ、藍様ー」

いつものように甘えながら、橙は思う。
いつかきっと教えてくれる。自分が式になったときの話を。
それはきっと、自分が“八雲”を名乗れるようになったときなのだろう。
それにもう一つ、分かったこと。
毎年、桜が満開になるこの季節。何故かなんの変哲もない、なんの特徴もないとある日に。
藍ではなく紫が料理をして、綺麗に咲く桜の下で、三人そろって過ごす理由。
今日がその日。だから自分はこの蔵に、花見に敷く茣蓙を探しに来たのだった。

「あぁぁぁっ!」

そうだった。話に夢中になってすっかり忘れていた。
きっと紫様は料理をし終えて自分達を待っているはず。

「藍様藍様! 大変大変! 急がないと紫様のお料理が冷めちゃうよ!」
「ああっ! そうだった、ええと茣蓙は……あったあった。
 よし、行くぞ橙!」
「はいっ!」

茣蓙を引っつかんで蔵を飛び出した藍に続いて、橙も飛ぼうとして、立ち止って振り返り──

右耳の金輪が、一筋外の光を照り返して、蔵の中に差し込んだ。

――きっと、この蔵のどこかにあるはずの、自分の思い出の品を幻視して、にこりと笑って扉を閉じた。








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