※このSSはかなりの嘘と、ほんの少しの幻想と、小さじすりきり一杯のえちぃ脳内成分で構成されていたりいなかったり。
初っ端から騙されないようにご注意くださいませ。
幻想郷のとある湖畔に、紅い館が建っている。
紅い悪魔が住む館。数多く存在する妖怪の中でも、特筆すべき力の持ち主である吸血鬼の居城、紅魔館。
普通の人間が入り込めば無事に出てくる事は叶わないだろうその館の一室で、博麗 霊夢は目を覚ました。
豪奢な天蓋付のベットの上で二、三度の身じろぎの後、身体を起こす。
部屋は全体的に薄暗い。窓は無く、光源といえば広い室内に幾つか置かれたほのかに赤いランプだけ。太陽光などもってのほかだというような構造だ。
だが、そんな弱々しい光でも彼女にとっては──いや、今の彼女には十分だった。
大きく伸びをして、ベッドを出る。主が彼女のためだけに誂えさせた、白い布地に赤い刺繍を施したネグリジェが、彼女の動きで紅闇に揺れる。
着替えようかと思案したところで、ドアが静かにノックされた。相手が誰かは簡単に予想が付く。
「咲夜、私の着替えは?」
「ただ今お持ちしたところです」
掛けた声に、明瞭な返答。
「おはようございます、霊夢様」
音も無く隙も無くドアを開けていつの間にか霊夢の傍らに立っていたのは紅魔館メイド長、十六夜 咲夜である。
彼女は着替えを恭しく置きながら、
「この服はお嬢様がお選びになったのですが、少々着るのがお一人ではご面倒なので。お手伝い致します」
ニコリと笑うその笑顔は慇懃ながら拒否を許さない。それでも一応の反撃を試みる。着替えを見られるのは少々癪だ。
「最初っから選択権なし?」
顔を引きつらせて問い返すが、やはり笑顔で頷かれる。どうしようもなさそうだ、と霊夢は悟った。
「それは百歩譲っていいとして、その口調何とかならない? ちょっと慣れないわ」
普段では聞きはすれども、対象にはならない敬語口調。それを向けられたときの居心地の悪さは一朝一夕で慣れるようなものではない。
だが、これもあっさりとメイド長に撃墜される。今朝のメイド長にはエースの影が付きまとっているかのようだ。追尾弾でも身につけたか、と言う様な命中率である。
「慣れて頂かなくては困ります。お嬢様の血族であれば、私の主なのですから。敬語を止めろ、と言われる方が無茶ですわ」
「八方塞りね。郷に入れば郷に従わないといけないのかしら」
「お嬢様のご命令ですので」
レミリアの命令。それなら咲夜に何を言っても仕方ないか、とため息をついて霊夢はネグリジェを脱ぐ。
するりと落ちた紅白の薄絹。それに隠されていた背中があらわになる。
血の抜けたような、病的に白いその背中には、一対の紅い羽が生えていた。
「今日の朝食──いや、夕食はなにかしら、咲夜。貴方の血ならレミリアのお墨付きだし、満足すると思うけれど?」
伸びた二本の牙を覗かせて、クスクスと無邪気に笑って真紅の瞳を妖しく歪める彼女は、紛う事なくこの館の主と同じ闇夜の王族──吸血鬼に違いなかった。
吸血鬼幻想 〜 Vampire Syndrome
陽は先ほど暮れ、外の景色はもう夜に包まれている。
彼女がいるべき時間。月と闇が支配する夜の世界。
その風景を眺めながら、レミリアはグラスを傾けて喉を潤した。
紅魔館の晩餐室。そこに置かれた大きなテーブルの端、外界を臨む窓の側に彼女はいる。
窓から外を眺めながら、もう一口。
だがその味も色も、彼女にとっては物足りない。
もちろんこれは最上級の品だ。それは間違いない。
だが最上級を超える、隔絶したような一品がある事も確か。それを一度口にしてしまえば、記憶にその味が焼きついている限り、他の全ては味気ないものに変わってしまう。
「ちょっとした贅沢よねぇ……」
あの味を思い出しながらグラスを置いて、レミリアは自らの血を分けた少女の名前を呼んだ。
「霊夢、食事はテーブルの上でするものよ。お行儀が悪いわ」
「あんたはいつもベッドか布団の中で私を食べてるじゃない。少なくとも、この部屋で食べられた覚えは無いわよ」
返される不満そうな声。後ろに咲夜を従えて、レミリアの作らせた服を着た霊夢が扉を開けて入ってきた。
咲夜の顔は少し青白い。首元には小さく二つの傷跡がある。血を吸われた事は明らかだった。
二人の様子を見て、満足そうにレミリアは頷く。貧血気味ではあるが、量は加減してあるようだ。なかなか上手い。
「咲夜の味はどうだった?」
無邪気に問うレミリアに、霊夢はすこし朱の入った表情で、
「吟醸酒ね。ほろ酔い気分」
と、彼女にしては最上級のほめ言葉を短く紡ぐ。背後で咲夜が、畏れ入ります、と一礼したのを視界の端で流し見ながら、レミリアの隣の席に着いた。
レミリアは咲夜を下がらせた後、霊夢の長い髪を手で梳き出す。霊夢はされるままに、身を寄せた。
黒くに染めた絹布を元に、赤と白のレースをふんだんに使って縫い上げた特製の巫女服は、寸法どおり彼女の体に合っているようだ。背中から伸びた翼のためのスリットも、ちょうどよい大きさになっている。
霊夢自身もそのプレゼントを嫌ってない様子。そのことがレミリアにはなにより嬉しかった。
「身体の調子はどう? 何も異常は無い?」
「羽が気になるくらいね。後昼間がひどくだるい。おかげで寝坊したわ」
「それは仕様が無い。吸血鬼だもの」
苦笑すると霊夢も、それはそうだと苦笑い。
まあ、一日そこらで吸血鬼の生活に慣れろ、といっても無理な話ではある。
そんな事より、身体のほうが無事でよかった。
理論は完璧と言ってもよかった。しかし相手が博麗の巫女ともなると厄介な施術でもあるのでは、と心配していたのだが……どうやらうまく行ってくれている様だ。
満足げに頷いて、レミリアは立ち上がった。霊夢が怪訝そうにそちらを見るので答える。
「パチェにちょっとね。あなたの体調を気にしてたから」
「あー、あいつらには今回世話になったわね。私も行くわ、本人も居た方がいいでしょう?」
「それもそうね。それじゃ、ついて来て」
バサリと暗がりの部屋に翼の音が翻る。ふわりと飛び上がるレミリアに、霊夢も同じように羽を広げて宙を飛んだ。彼女は翼に頼る必要はないのだが、今は利用するつもりらしい。
二人並んで、紅い館の廊下を飛びぬける。途中、何人ものメイドに深く丁寧な礼をされながら、大扉の前に降り立った。
扉に銘はない。この館の中では明らかに異質な、全てを飲み込む闇のように黒い堅牢な扉に、レミリアは呼びかける。
「パチェ、来たわよ。霊夢も一緒」
レミリアの眼前にあるのは扉だけ。だが、そうであるのが当たり前のようにこの場にいない七曜の魔女の声が廊下に響いた。
『良い頃合ね。ちょうど呼びに行こうかと思っていたから、手間が省けたわ』
言葉とともに、ぎいいいいい──と長い軋みを残響させて扉が徐々に開く。
その様子を、霊夢はあきれた顔で眺めていた。さすがは魔女の所業、とか感心するつもりはさらさらないらしい。
「凝りすぎね、あの魔女。この館までそのうちお化け屋敷にでも変えられるんじゃない?」
「百鬼夜行は間に合ってるわ。これ以上増えてもねぇ」
よく考えてみれば、ここの主は吸血鬼。その妹は破壊の化身で、従者は時を止めるメイド長。彼女が率いるメイド部隊も人外ばかり。
ちょっと頭痛がして、霊夢は眉間を押さえた。そんな館で、博麗神社の巫女たる自分はいったい何をしてるんだろう。
閨を共にするくらい親密になっておいて、いまさらという説もあるが。
更なる頭痛を覚えながら、レミリアの後ろについて扉の向こうに広がる不思議の図書館を飛行する。
程なくして図書館の中央部の広場に降り立った。広場といっても立てる面積は広くない。そこらに積み上げられている無数の本を、ちゃんと本棚に返せば場所も空くだろうが。
その広場のさらに中央にしつらえられた、大きな書き物机。その上でいつものように本を広げて、魔女パチュリー・ノーレッジは二人を迎えた。隣では小悪魔が畏まって控えている。
「禁忌の蠢く沈黙の坩堝へようこそ、吸血の巫女。歓迎するわ」
卓上ランプが照らすぼんやりとした明かりの中、パチュリーは唇を吊り上げる。
光源が限られているからか、それともこの世界自体が異常だからか──その姿は、普段では考えられないほどに艶めいている。
霊夢はそれを胡散臭そうに半眼で眺め、小悪魔に用意された椅子に座りながらパチュリーに問うた。
「で、それは誰に吹き込まれたの?」
「魔理沙。なんでも環境が与える影響は見過ごせないものがあるとか。その理論は納得できたから、魔女らしくしていたなら魔力も上がるだろうかと実験中。ただ、魔女らしくという定義が本にはなかなかなくて困っているわ」
問われた途端、普段の無愛想な表情に戻り、パチュリーは本のページをめくった。客が来ても本を手放すつもりは皆無。図書館の主の面目躍如とも言うべき姿だ。
本に視線を向けたままで、パチュリーは霊夢に質問を投げかける。
「体調は──いいみたいね。本当はアリスもいるときに精密検査をしておきたいのだけれど──それは止めておきましょう。止めておくから大人しくてレミィ。
というわけで問診よ。これから幾つか訊くから答えて頂戴」
パチンとパチュリーが指を鳴らすと、いつの間にやら筆記机にカルテまで用意している小悪魔がいる。
ずいぶん用意のいい事だ。まあその分手間がかからなくていいけれど。
博麗の巫女は矢継ぎ早に飛ばされる質問の数々を、慎重に、出来る限り正確に答えていく。ヘタに答えてどんな悪影響があるかわからないから。
カリカリと小悪魔が忙しそうに羽ペンを動かす音が、いやに大きく図書館に響いていた。
レミリアは仕事の邪魔をするつもりはないらしく、大人しくそこいらの本を読んでいる。
行為自体はいいとして、「相手を虜にするときの五つの難題」とか読むのは乙女心情的に止めてほしい。これ以上堕とす気か、と問い詰めたくなる。
それに、何でそんな本がパチュリーのお膝元といえる机周りにあるのか気になったが……それは考えない事にした。私生活はあくまで本人のものだし。
思考は表に出さないようにしながら答え続け──パチュリーが顔を上げた。
「──以上よ。お疲れ様」
「どうだった?」
視線をパチュリーに向け、幾分心配そうな表情でレミリアが聞く。
パチュリーはそんな彼女を安心させるように微笑した。
「大丈夫よ。身体に問題はないし、ちゃんと予定通り。むしろ予想以上の成果だわ。
ふふ、抗魔に関するレポートだけでも四通くらい書けそう。発展を含めたら十じゃ足りない数になるわ。魔理沙なんか垂涎モノでしょうね。
あとは、吸血鬼としての身体能力及び魔力の向上性をテストしたいのだけれど──」
怪しげに笑うパチュリーの姿は、魔女そのもの。普段は平坦で落ち着いた瞳が、いまは炯々と光を放たんばかりである。
正直に言って、霊夢とレミリアはがたんと椅子を鳴らせて一歩退いた。小悪魔は慣れているらしく諦め顔で嘆息する。どうやら一度二度のことではないようだ。
──と、彼女がいきなり顔を上げた。どこか思案しているような顔つきで呟く。
「噂をすれば影がさす。魔理沙が来たみたいだわ。ちょうどいいからテストさせてもらいましょう。
霊夢、最初はどれくらい力が出るかわからないから、くれぐれも控えめにね。魔理沙は普通の人間なんだから」
「はいはい。でも魔理沙相手に手を抜く必要ないかもよ? あいつは変わった人間だから」
かったるそうに手を振りながら、空に躍り上がるように霊夢は飛ぶ。
目指すは空翔る神速の魔法使い。
背中の赤い翼も軽やかに舞う霊夢を、レミリアは満足そうに、小悪魔とパチュリーは幾分不安そうに見送った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一方、魔理沙は、どこか緊張した面持ちで図書館の無数に並ぶ書架上を飛んでいた。
明朗活発と評される表情も今はなく、理由もわからないのに鳥肌立つ背筋をしかりつけていた。
いや、理由なら判っている。嫌というほどはっきりと。
この図書館に満ちた、あからさまなまでに濃密な魔の気配。
敵意はない。殺意もない。ただ、そこにあるというだけで全てを圧倒する異様なまでの存在感。自らの力を抑え付けようともしていない。
「何かヤバイ感じだなコイツは。あー……フランに初めて会ったときに似てるといえば似てるか……」
独りごちる声にも緊張が混ざる。混ぜざるをえない。
フランドール・スカーレット。悪魔の妹。七色の羽も神々しき、純色の破壊と破滅の吸血姫。
それが、魔理沙が出会った頃のフランドールである。
圧倒的な魔力に裏打ちされた弾幕の数々。翼と同じ、様々な色彩の感情を閉じ込めたそれらは、今をもってなお魔理沙の記憶と瞳と心に灼き付いている。
そのフランドールと同等となれば、無事帰る事はまず諦めなければならないだろう。
鼓動が早まる。どくどくと、自分の血潮が感じられるほど加速する。
身体のあちこちに仕込んだスペルカード、アミュレット、シールドシンボルを確かめる。
……万全とはいえない。もとより、今日は弾幕りにきたのではなく本を借りにきたのだ。
無防備でどこかに出かける程弛んではいないが、普段の用事に全身武装して行くほど殺気立ってもいなかった。
そのことを、少し後悔する。全身武装とは行かないまでも、もう二、三予備のスペルカードを持っていたいところだった。
引き返す。そんな選択肢が頭に浮かんだ。
浮かんだが──魔理沙は、一瞬でそれを星屑にして消し去った。
ここで退くなど、なんて馬鹿げた考えだろう。
ゆっくりと、魔理沙の表情が不敵な笑顔に変わっていく。
まだ見えない眼の前に相手がいる。その相手を見もしないで逃げ帰る?
ありえない。そんなものが霧雨 魔理沙のはずがない。
強大な魔力がどうした? 総毛立つほどの悪寒がなんだ?
そんなもの、恋心にも似たこの胸の高鳴りを抑えるには全然足りない。
身体に奔る魔力の滾り。まったく持って不安はない。
「うし、一つやっちまうか」
宣告するように呟く声は、娯楽を前にした子供のように、感情を一切隠していない。
ただ、楽しみだと言っていた。
その声に応えるように、闇にもう一つの声が染み出る。
「毎度毎度、暴走しがちねぇ魔理沙は。もうちょっと落ち着きがあった方が人生のんびりよ?」
図書館を疾走する魔理沙の箒が止まる。その声は良く知っているものであり、同時に──この場ではありえないものだったから。
「霊夢……冗談にしてはタチが悪いぜ。巫女がそんなんじゃお役御免だぞ」
「悪霊が住み着いてるような神社だし、別にいいんじゃないかしら。そういえば最近見ないけれど」
笑いながらこちらを見据える彼女に、魔理沙は苦い笑みを返した。
そんな彼女達の視界の端で、幾つかの赤い線が空を奔る。まっすぐに、互いに手をつなぐように繋がりあい、二人を囲んで一つの大きな立方体を切り出した。
パキィンと甲高い音。それが仕上げだったかのように、線は面となり強固な紅い結界が二人の周りを固めていた。
「この仕様は……レミリアか。結界なんて使えたのか、あいつ。パチュリーにでも習ったか?」
「私が教えてあげたのよ。便利でしょ、こういうときに」
どこか浮世離れした笑みを霊夢が浮かべる。
どういうときだよ、と苦笑いして、魔理沙は確認するように短く問う。
「何時、吸われた?」
「昨日よ。どうしてもってねだられてね」
困ったように肩をすくめる彼女は、魔理沙のよく知る姿に相違ない。僅かながら考えていた、操られている可能性を抹消する。
「ねだられてってまあ……ずいぶん安いなぁ。一生闇夜で暮らす気か?」
「それはそれでいいかもねぇ。ここにいたら明日の食事の心配はしなくて済みそうだし。
でも、そんなことより──」
楽しそうに笑う口からこぼれた牙。赤い闇が、ぞろりと動く。
「待ちきれないんでしょう、魔理沙。いいわよ、相手になってあげる」
楽しそうに笑う不敵な瞳。黒い金色が、颯爽と流れる。
「嘘付け、元からそのつもりだったくせに。わざわざこんなもん作らせやがって」
「どうでもいいでしょ、そんなの。今夜はこんなに気分がいいから、存分に遊ばせてもらうわよ」
霊夢は巫女服から、魔理沙は魔法ドレスから符を取り出す。
満ちる静寂。一瞬の間。相対する両者に敵意はない。これは遊び。愉快な戯び。それの意義は、愉しむためのものだ。
だから、
「楽しい夜になりそうね」
「可笑しな夜になりそうだな」
心底愉快そうに笑い合い、少女達は弾幕遊戯を開始した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
対峙する二人。先に動いたのは魔理沙だった。
小手調べとばかりに、横にスライドしながらマジックミサイルを乱射する。
それがあたる事は、欠片も期待していない。問題はそれを霊夢がどう捌くか。それを見て今の彼女がどれほどのものなのかを観察するのが目的なのだ。
普段の暴走気味な言葉、加速しすぎの行動から誤解されがちだが、魔理沙は極めて思慮深い性質である。
何故ならば、彼女はただの人間だからだ。
霊夢のように天賦の才に恵まれたわけでも、パチュリーやアリスのように生まれながらに高い魔力を持つ魔女として生まれたわけでもなく。
咲夜のように人でありながら異能を備えて生を受けてもおらず、ましてやレミリアのように生来の覇者として存在しているのでもない。
ただの人間。普通の人間。それでしかない。
そんな彼女が、その友人達と対等に渡り合えるのも影にある努力と、そして破天荒な言動の裏に隠された高い計算故なのである。
観察しながら、魔理沙は予測していく。戦いを予測して行く事。これが人間・魔理沙の最大の武器だ。
吸血鬼化した霊夢。ただでさえバケモノ的な才能の持ち主が、冗談抜きにバケモノスペックな身体を手に入れたのだ。
無謀に突撃すれば返り討ちにあうだけ。今は相手の力を見極めるべき。
そう判断して魔理沙は霊夢の動きに注視しながら、なおも魔法弾を放ち続けた。
暗闇を疾る緑色の閃光の群れ。迫るそれらを、霊夢は一瞥する。
魔理沙の予想では、いつものように紙一重で避けてこちらに間合いをつめてくるはずだ。近接戦闘における吸血鬼の卓越した能力を使わない手はない。
あの細腕には想像も出来ないほどの圧倒的な力がある。レミリアと戦りあった事は何度かあるが、彼女が勝つのはいつも瞬発力と腕力を封じた上での近〜中距離戦だった。牽制と本気を織り交ぜた弾幕の影で肉弾戦を不意打ちのように切り出して行くのが最も効果的だったのである。まともに近接を挑んでも話にならないし、遠距離のみでは種族の差のため魔力的に追いつけない。トリッキーかつクレバーに行くしかないのだ。
だが霊夢に果たしてそれが通用するか。いつもの巫女の動きは最小限かつ的確なもの。無駄と言うものを一切省いたが故の余裕を纏って、霊夢は敵を打ち倒すのだ。
そんな彼女が吸血鬼となれば、避けられない弾などあるのだろうか──
だがその予想を裏切るかのように、彼女の姿が一瞬で掻き消えた。
背筋を走る強烈な悪寒。魔理沙は躊躇いも無く全力で右に位置をずらす。瞬後、隣を駆け抜ける赤い一撃。冷や汗を流しながら、見上げるといつもどおりのんきそうな顔で浮かんでいた。
博麗の力で空間を渡ったか、それとも吸血鬼の異能で加速したか。今では材料が少なすぎて判断が出来ない。
だがとにかく分かるのは、距離を置いて様子を見るのはどうやら無理そうだと言う事だ。一瞬で距離を詰め、吸血鬼化した為だろういつもとは比べ物にならない速さでこちらに飛び来る霊夢を相手に、もはや牽制のための遠距離戦は意味がない。もともと射撃戦は相手のほうが得手なのだ。
と、魔理沙に不意にある推測が浮かぶ。起点は、何故霊夢はいつものように紙一重で避けなかったのか、だ。突如として慣れた戦い方をかえるのには、それなりの理由があるはず。魔理沙はそれを考える。
フル回転する魔理沙の思考。普段と今の条件の違いを羅列し、いくつかの項目をピックアップ。境界条件を考え、それを満たす変数を思索。
吸血鬼。超越した身体能力。博麗 霊夢。巫女。捕まえられない無重力。人間。あとは──そう、彼女は昨日成ったばかり。
これだけで解を引き出すのには十分だった。伊達に魔法使いをやっているわけではない。
観察と考察は魔理沙の領分。戦いの場こそ魔理沙の実験場なのだから。
相手の弱点は理解した。ならば、打つ手はたったひとつ。
「ははっ、霧雨 魔理沙に逃走の二文字は無いぜっ!」
わざと暴走気味に気合を入れるように声をあげ、霊夢に向けて加速する。霊夢もまさか真正面から来るとは思っていなかったのだろう、速度がほんの少し鈍った。
その隙を魔理沙は見逃さない。
ひそかに編み出していたベクトル偏向の呪文で加速を落とさず真横にスライド。霊夢にしたら一瞬で消えたように見えただろう。吸血鬼の動体視力なら追いついたかもしれないが、それでも視界からほんの少しの間消えた事は間違いない。
一瞬。わずかな一瞬。それだけで準備を既に整えていた魔理沙には十分だった。
魔理沙が横にずれた後も霊夢はまっすぐ飛んでいる。加速は急には止まれない、その事を魔理沙はよく知っていた。そしていつも優雅に飛ぶ霊夢は、急激な加速故の制約を実感した事が余り無い。
“吸血鬼”霊夢の弱点は、その高すぎるスペックを人間の感覚で使っている事だ。だから普段の自分との誤差が出る。それは分かっていても一挙手一投足まで気をつかわなければならない誤差。
それを知っているからこそ、小回りな回避をせずに魔理沙の背後を取った。へたに紙一重を狙うと、動きすぎて当たってしまうかもしれないから。
だから魔理沙はわざと霊夢に突進し、彼女の平常心をわずかに狂わせ、抑えの効かない加速度を出させた。
結果──彼女は今、無防備な側面を魔理沙に見せている。
これが魔理沙の狙った最大の機会。一メートルほどの間合い、止まろうとしても止まれない状況、これならまともに撃てば当たらない一撃も当てられる。
魔力も十分にチャージし、もはやあとは呪文のみで放てる呪符。それを構え、高らかに謳い上げる。
魔理沙の目に、いつもの霊夢の笑っているのか困っているのか良く分からない顔が映り──
「“恋符”マスタースパークッ!」
──闇を埋め尽くす光の洪水に飲み込まれた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「──ってのに、なんでこんな事になってるかねぇ……」
嘆息と共に吐き出した言葉は、多分の悔しさとほんの少しの諦観をない交ぜにして大気に溶ける。
図書館はいまや、先ほどまで彼女の周囲にあった喧騒が嘘のようにもとの静寂を取り戻している。赤い結界も無くなり、視界を闇が包み込み、あちこちに薄ぼんやりとした明かりが浮いているだけ。
そのいつもどおりの図書館の中。魔理沙は静かに、自分の身体をがっちりと掴んでいる霊夢に嘆息していた。
霊夢は魔理沙が大人しいのが可笑しいのか、笑って彼女に囁く。
「さてね、わたしが吸血鬼だからかもしれないわ」
「ああ、そりゃ当たりかもな」
からかい半分の霊夢に、半ば自棄気味に魔理沙が応えた。実際、実にバカらしい光景を見せ付けられたからだ。あんな避け方しておいて自分にどうしろと言うのだろう、この万年春巫女は。
「いやぁ……まさか、あのタイミングで避けるとはな。反則だぜ、あんなの」
「いつものわたしなら避けれなかったわねぇ。いつものわたしならあんな状況ないけれど」
マスタースパークに撃ち落されるところだった霊夢。彼女はあろうことか、逆にあの時立ち止まらずに動いて魔理沙の背後を取り、今あるように彼女を捕まえたのだ。
彼女が吸血鬼であり、移動性能が格段にあがっていた事。そして至近距離だったのでマスタースパークの光芒の範囲が狭かったこと。それ故にギリギリのところでよけれたのである。
そうして現在。魔理沙は吸われる人ばっちりな体制で霊夢に抱かれていると言うわけだ。
「えー……と、これはやっぱり、ヤるのか?」
引きつった声で尋ねる。答えは世にも嬉しそうなものだった。
「当然でしょ。負けたのなら代償は払わないと」
首筋から聞こえる舌舐めずりの音に総毛立った。いや、そんなごちそうじゃないんだからと魔理沙は心の中で叫ぶ。だが届かない。霊夢にテレパスは期待できない。出来たとしても聞く耳持たない。
「ひゃうっ!」
ぺろりと霊夢が魔理沙の首をなめる。思わず魔理沙は声を上げていた。霊夢の笑みがさらに濃くなる。オマエはいつからサディストになったと問い詰める余裕も今はない。
「ふふ……魔理沙、敏感なんだぁ……さて、お味の方は──」
吸われる。間違いなくやられる。そう魔理沙は目をつぶって覚悟した。
ああこんな事ならもうちょっと人間でしかできない事をやっておくべきだった。たとえば美味しいもの食いだめするとか。この前森で集めたキノコも無駄になるなぁ。あの労力はなんだったんだろう。
しかし魔力も頑丈さも上がるし、それはそれで得なのか? 食事さえ何とかすればむしろOK?
いやいや、まだまだ人間やりたりない。人間の限界にぶつかって、それをブレイクスルーしてなお先が見たくなってからでも遅くはないはず。だからもうちょっと人間やっていたい。頼むから霊夢、量加減してくれ。
そんな取りとめもない事が頭を駆け抜け過ぎ去って行く。駄目だろうなぁと諦めつつもそんな思考を眺めてみる。
だが、いつまでたっても首につきたてられるはず牙がこない。恐る恐る目を開けると──
「こ〜う〜は〜くぅ〜……」
鬼がいた。どこぞのちび鬼ではなく、冗談抜きの修羅がいた。暴走ギリギリに溢れた魔力の余波で陽炎う影を従えて、憤怒の炎を瞳に宿した魔女、パチュリー。
魔理沙はそんな彼女の後ろ辺りにいつのまにか浮かんでいる。どうやら彼女の魔法で転移させられたらしい。助けてくれたのはありがたいのだが……パチュリー、マジで怖い。
「あんた今何しようとした!?」
殺意すら篭った怒声。それを霊夢は泰然と受け止める。
「いや、ちょっと味見」
反省の色のないその様にパチュリーの腕が痙攣したようにぶるぶる震える。このパチュリーにさえ普段どおりを変えない霊夢に魔理沙は畏怖すら覚えた。少なくとも魔理沙なら即座に平謝りしているだろう。
「味見ってそんな、それで魔理沙が吸血鬼になったらどうするつもり!
魔理沙は何もしてないんだからなったら治らないのよ!」
パチュリーが珍しく声を荒げるが、それでも霊夢は動じない。この巫女、ネジが一本二本抜けてるんじゃないだろうか。余裕があるのなんてのは間違いで。そう思わせるほど動かざる事山の如し。
「そこらへんは手加減して吸うし、血なんて流し込まないから大丈夫だってば」
「あんたの大丈夫ほど信用できないものは無いわ!
というか魔理沙の血を吸おうとした時点で万死に値するので死刑執行するからおとなしく死になさい!」
いろいろとヤバげな事を口走りながら魔法陣を構えるパチュリー。これからの関係を色々と考えさせる単語に関しては魔理沙は聞かなかった事にした。聞かなかったから考えない。
そんな間にも図書館全体がざわめきだし、幾多の本が空を飛び交う。
高まる魔力。濃くなる異界。手加減とか容赦とか、そんな言葉を彼方に置き去ったパチュリーだったが、それを止めたのはいつのまにか彼女の背後に立っていたレミリアだった。
「まぁ待ちなさいパチェ。霊夢に魔理沙の血は吸えないわよ?」
「え……?」
暴走はしても一応聞く耳は持っていたのか、パチュリーの手が止まる。
レミリアを振り返ると、彼女は残念そうに首を振った。
「吸えないのよ、もう霊夢にはね。だってほら──」
驚くパチュリーに、指し示すレミリア。その指の先、霊夢はにぃと笑って口元からぽろりと、文字通り零れ落ちた二本の牙をつまんで見せた。
「吸血鬼体験期間だぁ?」
あの後、冷静さを取り戻したパチュリーを含めて図書館ホールに戻ってきた一同。何がなんだか分からない、そんな魔理沙になされた説明がそれだった。
そして、それを聞いて魔理沙が叫んだのが上のような言葉である。
「そ、体験期間」
魔理沙の頓狂な声を、霊夢の腕に抱かれて満足そうなレミリアが繰り返す。それに続くのは抱いている本人の霊夢だ。二人分の重みを乗せた揺り椅子にきいきい不満そうな声を上げさせながら肩をすくめる。
「この子にねぇ、ちょっとやってみないって誘われてね。
まあ体験なら戻れるわけだし、それならやってみたら話の種くらいになるかなぁと」
「いずれ霊夢を血族に加えたときの問題も多少は先読みできるしね」
「それについては異論があるけれど……まあ、大筋そういうわけなのよ」
そー言われても、と魔理沙は思う。
吸血鬼体験期間だとか誰が考えるだろう。あれはなったらおしまい、もーおーもーどれーなーいーとか、そういうものじゃなかったのか? それと圧倒的な力があったからこそ、古来より吸血鬼は脅威とみなされていたんじゃなかったのか?
そんな魔理沙の疑問に、自信満々に答えたのは大魔法図書館パチュリーその人。こういう知識技術の事となると実に楽しそうに滔々と話し出す。
「吸血鬼というのは因子の感染により体の作り変えが行われるわ。ならその因子に対する抗体をあらかじめ体の中に仕込んでおいて、時限発動するようにすればいい。
この方法は吸血鬼治療として昔から考えられてたんだけれど、早期にしか効かないのが問題だったのよ。今回の場合は、アリスに協力してもらって因子の進行をある程度以上は進まないように術式を組んだ上でやってみたわ。
結果は──ご覧の通り。ただ、予定じゃあと二、三日持つはずだったんだけれど……」
ああ、おかげであんな無様さらしてしまったわとかぶつぶつ呟いている。いまさらながらに自分が何を叫んでいたか自覚したらしい。傷には触れないで置いてあげよう、そう魔理沙は誓った。もちろん薮蛇を恐れてである。下手につつけば押し倒されたり吊るし上げられるのは自分かもしれないし。
しかし、研究それ自体は面白そうではある。興味の範囲が広い魔理沙、もちろんこれにも興が乗った。テーブルに身を乗り出してパチュリー相手にまくし立てる。
「いいなーそれ。わたしにもしてくれないか? 実験台は多い方がいいだろ?
そうだな、フランにでも頼んで吸ってもらうとか──」
魔理沙がフランの名前を出した途端、パチュリーのなぜか──あえてなぜかとしておこう──微妙に上向きだった機嫌が暴落した。それはもう、世界恐慌のようにまっさかさまに。
「駄目。駄目駄目。絶対駄目」
表にはっきりとは見せずとも絶対拒否の障壁で即刻魔理沙の案を却下する。
魔理沙は不満そうに再請求するが、あっさり棄却するパチュリー。だがそれであっさり引き下がるようでは魔理沙ではない。
そのままあーだこーだと、いつもは静かな図書館に二人の声が木霊した。
その様を楽しそうに見つめる二人、霊夢とレミリア。
彼女達は、魔理沙達と違って平和な会話をしているのだろうか、と思えばまったく違う。
笑顔で交わされる会話の内容は、次のようなものだった。
「霊夢……魔理沙の血、本当に吸おうとしたでしょう?」
「何の事かしら?」
一瞬だけ身体を固めた霊夢だが、慣れたものですぐにいつもの調子で言い返す。
だが慣れたものと言えばレミリアとて慣れているのだ。伊達で四六時中霊夢を追い回しているのではない。些細な変化すら見落とさない。
「隠しても駄目よ。わたしには分かるもの。
……咲夜はいいけれど、魔理沙には許せないわ。わたしが許してないもの」
「……ものすごく傲慢な事言ってない、あんた」
嘆息のような悲鳴。この後の事を、なんとなく予想してしまったが故のもの。それを受け、レミリアは楽しそうに宣告した。
「傲慢にもなるわ。あなたはわたしのものだもの。勝手な事はしないで。今夜は……お仕置きね」
「…………」
霊夢の笑みはどう見ても引きつっているのだが、あいにくこの場にそれに気づく者も、気づいたところでどうにかする者もいなかった。
こうして少女達の夜は、危険なままに過ぎていく。
願わくば、彼女達に安らかなる夜を。かなわない願いだろうが、願うだけならタダなのだから。
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