「なんてこった……」

目の前の光景に頭痛すら覚えながら嘆息する。ああもうまったく、どうかしている。いや、どうかしていた。なんだってこんな――無茶苦茶なことを。
己の愚かさに頭を抱えながら周囲を見渡す。平日の、昼下がり程度の時間帯。ここは名も知らぬ、今まで訪れたこともないマンションの一室である。俺に他人の部屋を批評する権利も権威もないが、印象としては白すぎるほど白い、白々しいほど生活感のない部屋だった。見える限りでは必要最低限の、それこそ名前どおりの生活必需品しか見当たらない。飾り気などという概念はこの部屋には存在を許されてないようである。まあ、それに関しては俺も人のことは言えないのだが。
俺はそんな部屋の玄関にいた。上がり框も踏まず、馬鹿のように突っ立っている。だが、それにはちゃんと理由があるのだ。この先には進みようがないのである。いや、進もうと思えば進めるけど、進む気には到底なれないと言うべきか。
流石に惨殺死体の脇を通ってまで、知らない人のお宅にお邪魔するのは遠慮したかった。

「あー……困ったなぁ」

足元にはざっくりばっくり斬り殺された死体が横たわっている。いや、斬り殺されたより分割された、の方が正しいか。身体の各部がでたらめにぶちまけられている以上、斬り殺されたなんて生易しい言葉は似合わない。頭なんて後頭部を切り取られた上、ごろりと鞠のように腹の近くに転がっている。
だがそれ以上に困るのが、自分の手の中にある一本のナイフだ。血はついていない。そもそもこんなナイフで人の筋肉や骨を分断することは不可能である。もっと大振りで頑丈な刃物――例えば鉈とか鋸とか――で時間をかけなければ、肉はともかく筋や骨を切ることはできないのだ。しかしそんな冷静な判断をしてくれる奇特な人間がいるだろうか? 死体とナイフと怪しい男というこの現状、一体誰が俺分以外の人間を疑うだろう?
さらに困ったことにこの凶行、トリックでもなんでもなく、本当に俺がやってしまったことなのだから始末に終えない。
前述と矛盾するが、俺は本当にこのナイフ一本で解体してしまったのだ。抵抗する間も、逃げる時間も与えず、、十七の肉塊に分割してしまったのだ。普通ならノコギリや鉈でもって、数時間かけて行う作業を、一瞬のうちに。何故そんなことができたかというと――

「おっと。いい加減、現実逃避はやめにしないと」

頭を振って余計な思考を追い出す。こんな経験初めてなので、幾分混乱していたらしい。知り合いからはよく冷静だ冷徹だと言われるが、それは外面だけなのである。突飛な場面に遭遇すればこの通りだ。これのどこが冷静なのだと声高に言ってやりたい。もちろんそんなわけにはいかないが。
とにかく逃げなければ、そう思考する。だがその前に、血の海に沈んだ白い彼女に言葉を向ける。届くはずもないだろうが、自己満足だと知ってはいるが、それでも言わずにはいられない。

「ごめん、君は確かに危険すぎるほど大きな力を持ってたみたいだけど、本当に危険かどうかは分からなかったのに。
 俺ができることなら何でもするから、来世でしっかりこき使ってくれ。今、捕まるわけにはいかないんだ」

金髪な彼女の宗教は仏教じゃないだろうが、それでも手を合わせて冥福を祈る。神様仏様の領分は知らないが、被害者が妖物だからとか、祈りの言葉が違うからなんて理由で無碍にするようなことはあるまい。そういう些事を気にするのは人間だけなのだと思いたい。まあ祈る側が神様なんて存在を微塵も信じてないのは問題かもしれないが。
しばしの黙祷の後、痕跡を残していないかを確認し、息をついてドアノブの指紋を拭い取ってから、できる限り気配を消して部屋を出た。
いずれ死体が見つかるだろうが、俺にたどり着くことは無いだろう。警察をなめているわけではないが、俺に至るどこかでそれは打ち切られるはずだ。まったく、貸しは作っておくものである。
だから後は、この場から消えるだけだ。
なんでもない様子でエレベータ室へ歩いていく。結局マンションを出るまで、いや出てからも、幸いなことに誰にも見つかることなく俺は日常に埋没した。








舞台上のアリス 〜 Alice in Dance Holl
#01 まずは始まり








夕暮れの住宅街を、学生服姿の青年が歩いていた。年のころは十六、七だろうか。左手で摘んだ珈琲缶をゆらゆら揺らしつつ、ぼんやりとした目で緋色の町並みを眺めながらも歩を進めている。
こくり。一口、珈琲を含み、飲み込んだ。
ありふれた、何の変哲も無い、学生そのものの彼。彼こそ、昼頃にあのマンションの玄関先を血まみれにした青年であった。
名前を遠野 志貴という。
彼はそこそこ――どころか、波乱万丈と言っていいほど奇妙な人生を味わってきた。だが、それに関しては今は語らない。
昔のことだから、そして語るべきときではないから、今は語らない。
代わりに、現在いまの話をしよう。

「……どうしようかなぁ」

珈琲缶を傾けながら、彼は小さく言葉をこぼした。殺した後悔からの言葉ではなく、これからどうするか、思案のそれだった。

「見つからなかったなぁ、弓塚さん」

呟いた名前は彼のクラスメイトのものだ。
弓塚 さつき。クラスの中でも、いやクラスを超えて人気を誇る女生徒である。美人というより可愛いと評される顔かたちの上、頭も運動も、気立てもよいとなれば人気の出ないはずがない。
そんなクラスメイトが、今日学校に来なかった。昨日、家にも帰っていないということである。その事実が志貴を、友人の手を借りてまでして学校を抜け出させ、街の捜索へと駆り立てたのだった。
些かどころか、十分に過剰な反応だろう。この年頃であれば、一日や二日程度、親にも内緒で友人宅に泊まるなど日常茶飯事と言ってもいいはずだ。
だが、志貴は見逃せなかった。
彼が件の弓塚嬢と恋仲にあったから、ではない。彼女はあくまでただのクラスメイトであり、時折言葉を交わす程度の仲でしかなかった。

では何故、ここまで彼女を心配しているのか。それには、彼の住む三咲町を現在進行形で襲っている猟奇殺人事件の話をしなければならない。
その事件は、吸血鬼殺人事件と呼称されている。今までに見つかった被害者の遺体から、過度の血液が抜かれていたためにそう呼ばれているのだ。しかも外傷は首筋に穿たれた小さな穴二つと来ている。話題に飢えたマスコミがこぞって取り上げるのも仕方が無い。
しかし、この事件を知っている人間の内、一体どれほどの人間がこれを本当に吸血鬼の仕業だと考えているのだろうか。まさか、一分もいまい。本当の意味で化け物の実在を恐怖している人間なら、さっさとこの町から逃げ出しているはずだ。そんな動きがないということは、やはりみんな信じていないのだろう。
これは本物の吸血鬼の引き起こしている事件だ、ということを。
さらに言うなら吸血鬼は実在する、その事実を。
まあ無理もない。吸血鬼? 化け物? そんなものが実在すると喚いたなら、今の世の中、それこそ即座に狂人のスタンプをおされてポイだ。それほどまでに人々は、頑強に科学という宗教を信仰している。科学的でない、その一言で、ありとあらゆる幻想が棄却される。
だがそれでも、奴らはいるのだ。ありえないという戯言を超えて、現実に存在している。今も、この三咲町のどこかでも。

しかし、いつもの彼ならその事実を知っていてもわざわざ探しにでるなんてことはしなかっただろう。出会ってしまったら、それは心構えか運が悪かったのだ。そういう解釈をする人間なのである。
それが常々の考えを捨ててまで動いたのは――昨日の、夕方にある不覚をとったからだった。

「約束、しちゃったもんなぁ」

学校帰りにちょうどこの道で彼女と出会った。偶然だった。志貴は彼女がこの道を通っていることすら知らなかった。
彼女はその偶然を喜んだ。これから行き帰りにもあえるかもね、と笑った。
勢いのまま、さつきは昔のことを語りだした。中学時代、同じ学校だったこと。冬休み、体育倉庫に閉じ込められたバトミントン部。志貴が助けた彼女達の中に、自分もいたこと。
志貴もその事をうっすらと覚えていた。そういえばそんなこともあったかな、という程度には。彼女が持っている映像とは、ずいぶん鮮明さに違いがあるようだ。
そして、成り行きのまま彼女と約束してしまったのだった。あのときのように、彼女がピンチになったらまた助けると。

今思い返しても、どうしてそんな無責任な約束をしたのか分からない。いくらぼろを出さずにその場を切り抜けるためとはいえ、払った代償が大きすぎる。冷静になっていれば、そんな無茶なことはしなかったのに。
しかし、それでも。約束したのなら果たさなければ。約束だけは、果たさなければ。
だから――

「だってのになぁ」

この様である。無様過ぎて呆れるのすら勿体無い。
吸血鬼の活動時間である夜が来る前に、せめて場所の見当だけでもつけておきたかったのだが、それが叶うことはなかった。もう少し探せば見つかる可能性がないわけではないけれど、オレンジ色の町並みが赤信号一歩手前のイエローシグナルのように危険を彼に告げている。信号と違うのは危険の度合いと次の色ぐらいだろう。
さすがに夜――連中が本領を発揮する時間に町をうろつく気にはなれなかった。

「で、結局やったことが一人解体しただけ、か」

空の珈琲缶を放り投げる。遠野 志貴は再び長い坂道を歩き出したその背後、空き缶がすぐそばの缶入れに吸い込まれた音が伽藍と響いて渡った。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




やがて長い坂道が終わった。もう遠野の屋敷は目の前だ。
遠野の屋敷、か。内心自嘲する。
そこは確かに今現在住んでいるところではあるし、いるのは家族なのだが、建物自体に家とか自宅とかいう単語を当てるには、まだ少し違和感があるようだった。八年と言う時間は、決して短くはなかったらしい。それは自身の磨耗故か、有間の家の功績かは区別がつかないが、とにかく彼は自宅と呼ぶべきそれを屋敷としか認識できなかったのだ。
自分は今、普段どおりの顔をしているだろうか。不意に沸き起こった疑問を押し殺す。余計なことを考えるだけ、普段とは遠ざかってしまう。何も考えなければいい。それならそれで、普段どおりだ。

「やあ、ただいま翡翠」
「お帰りなさいませ、志貴さま」

門の前にいた少女が志貴に向けて一礼する。遠野家のメイドを務める翡翠だ。この屋敷での生活が始まって今日で二日、慣れない光景に志貴は戸惑いながら接している。いつかこれにも慣れることができるだろうか、と考えつつ。
ふと、向き合った翡翠の、名の通り翡翠色をした瞳が不安げに揺らいだ。彼女は表情外のところで表情豊かなのだ。

「志貴さま、学校で何かあったのですか?」
「え――?」

予想していなかった突然の質問。貧血で早退はいつものこと。だから学校がどういう処理をするかはわかっている。家に知らせてくるなんて今までなかったが、まさか。
逡巡に一拍答えが遅れた。

「いや……何もなかったけれど」

答えてから失敗を悟る。感情に聡い翡翠が、志貴の迷いを見逃すはずはない。分かっていた。分かってはいたが、心構えのないところに来た質問に、驚きが先に来てしまったのだ。
拙い。どうすればいい。
次ぐ応えを急いで探す。だがその前に翡翠が、気づいているはずの不自然を見なかったこととして流れを打ち切った。

「そう、ですか。差し出がましいことを申しました。申し訳ありません」
「そんなことはないよ。心配してくれてありがとう」

頭を下げる翡翠に、今度こそ顔色を悟られないよう背を向け、感情の気配を隠し、内心で己に唾棄する。
この未熟者が。
翡翠を不安がらせるとはなんて様だ。それで貴様、遠野 志貴のつもりか。恥を知れ。
不意を突かれた? 予想していなかった? なんだ、その子供の言い訳は。お前は遠野 志貴だろう? それくらい、遠野 志貴なら予想していて当たり前だ。
これ以上の無様を翡翠の前で晒すことは、絶対に、何があっても許されない。

そう、許されないのだ。志貴はいつもの自分を演出しながら庭を渡り始めた。後ろからの足音が、翡翠が少しの距離を置きつつもついてきていることを教えている。八年という時間の隔絶を象徴する数歩が、今日ばかりは有難かった。
少し気まずい沈黙のまま玄関にたどり着き、扉を開けて中に入る。中のホールにはちょうどティーセットを運ぶ琥珀がいた。

「ただいま、琥珀さん」
「あ、おかえりなさいませ志貴さん」

志貴が声をかけると、彼女は居間の方へ足を止め、花咲くような笑顔を見せて言葉を続ける。

「タイミング、ばっちりですねー。ちょうど今から秋葉様がお茶を頂かれるそうですけど、志貴さんもいかがですか?」
「あ、いいね。それじゃあカバン置いて急いで戻ってくるよ」

先ほどの反動か、ことさら明るく受け答えて志貴は階段を上る。これ以上翡翠に見つめられていると、ボロが出そうで怖かったのだ。その行為が未熟の証と知りながらも、彼は部屋へと歩み去る。走り出すことだけは、何とか自制していた。
その背を翡翠は無言で眺めていた。押し殺した貌の下、何か言いたそうに、じっと。瞳だけが風吹く水面のように揺れている。
そんな彼女に琥珀が気づかぬはずはなく、気遣わぬはずもない。

「どうしたの? 翡翠ちゃん」
「いえ、なんでもありません。仕事、してきます」

短く。できうる限り短く。己の内に燻る感情を表に出さぬよう答えて、翡翠は背を向け屋敷の奥に消えた。
ホールに残ったのは琥珀一人。その孤独は、先ほどの志貴にとっての数歩のように、彼女にとっては何より有難かった。一瞬だけだが、琥珀は感情の完全に抜け落ちた無貌を空気に晒していたのだ。すぐに気づいていつもの顔を張りなおしたが、誰かに見られていたらば苦しい言い訳をしなければならなかっただろう。それほどに、凄惨とも言える無表情を彼女は見せてしまっていたのだ。
嘆息一つこぼして、秋葉の待つ居間へと向かう。
紅茶、冷めてなければいいけれど。そう、半ば機械的に思いながら。




カバンを部屋に放り込み、一階に戻る。志貴が目指すのは妹である遠野 秋葉のいる居間だ。

「やあ。ただいま、秋葉」
「おかえりなさい、兄さん」

笑顔も見せずに挨拶を口にする秋葉に、志貴は内心で苦笑した。

この屋敷で彼女と相対するのは、昨日帰ってきたときを除けば八年ぶりになる。自宅、という言葉や翡翠、琥珀の在り様で感じた時間の長さを、彼はここでも痛感していた。
八年前の秋葉は大人しいを通り越して気弱とすら言えるほどの女の子だった。よく服の裾をつかまれた事を、今でもよく思い出す。くいくいと、か細く引かれる感触に振り返ると、秋葉はいつも不安そうにこちらを見上げて立っていたものだった。
それがいまや――

「兄さん、昨日も言いましたけれど兄さんは遠野家の長男なのですから、もう少ししゃんとして頂かないと困ります。自宅でも学生服のままだなんて、みっともない」

――これである。こちらを見やるその瞳は鷹のようで、不安の色など欠片もない。むしろこの目に見つめられた方こそ、己が何か間違っているのではないかと不安に駆られるだろう。
ああ思い出よ、汝は偉大だ。幸いあれ。

「私の話を聞いているのですか、兄さん」
「ああ、聞いているよ。といっても、あんまり私服なんてもっていないんだけどね」
「でしたらこちらで用意します。そういう事は遠慮なく言ってください」

こちらで用意、って秋葉が服を選んでくれるのだろうか。一瞬頭をよぎった妄想を、まさかと笑い飛ばす。そういう気遣いをしてもらえるほど、八年も家を空けていた兄貴が慕われているとは思えない。決まりきった服を渡すだけだろう。

「なんですか、兄さん。ため息なんてついて」
「いや、なんでもないよ」
「そうですか? 少し疲れているように見えますけれど……」

ああ、それでもこういう風に気遣ってくれるから勘違いしてしまうのだ。

「翡翠にも言われたけど、そんなことはないってば。
 強いて言うなら、帰る道が違ったから慣れてない分疲れただけだよ」
「体が弱いのは知っていますけれど、そこまでくると貧弱になりますよ、兄さん」

情けない、と逆に嘆息する秋葉に内心を笑顔で塗りつぶし、高望みできる身分ではない事を思い出す。
人殺しの癖に、家族と安穏と暮らせているのだ。これ以上何を望む。
トゲのある秋葉の口調に苦笑いを滲ませて、遠野 志貴は少しだけ、椅子にゆっくり腰掛けることを自分に許した。