翌日の朝は穏やかに始まった。少し早すぎる目覚めを別とすれば、きわめて普段通りと言えるだろう。
これでこの部屋で迎える朝は二回目となる。無駄に広すぎる空間や、最初は戸惑った翡翠のモーニングコールも少しは慣れた、気がする。
いや、これは願望か。そんなことを考えるってあたり、やはり慣れていないのだろう。慣れていれば空気のように、意識すらしないはずだ。
志貴は小さく息を吐いて窓の外を見た。
枠の向こう側には見事な程、誰もが想像する朝の形が広がっている。いっそこのまま枠ごと切り取れば絵としてどこかに出せるのではないか、なんて馬鹿な空想をする程に。それほどに穏やかで、平和。まるでいつかの、あの時のように、ずっとその穏やかさが続いて――

「……らしくないな」

朝っぱらからずいぶん感傷的になってしまっている。本当、らしくない。自分が感傷を抱かない人間だとは言わないが、ここまでうだうだと考えることも珍しい。
これはいったい何が原因だろうか。この屋敷にどうしても違和感を感じてしまうから? 昨日約束を果たせなかったから? それとも、この手で解体してしまった名も知らない彼女のせいか?
自分の性格を考えれば、可能性が一番高いのは一つ目だ。だって、それが一番自分にとって大切なものだから。優先度はダントツだ。
だが、どうしても最後の項目を捨て切れない自分がいる。最も遠野 志貴の意義から外れたことなのに、何故だろう。
考えてもわからない。もしかしたら理由なんてないのかもしれない。強いて挙げるなら、殺す前に見た、白すぎる彼女の横顔が妙に印象に残った。それくらいだ。

「まあ、いいか」

志貴はそこで思考を打ち切る。考えても分からないなら少し時間を置くのが彼の流儀だった。
否、正確には。遠い昔に居なくなってしまった、大切な人の流儀だった。だから、今の彼はそういう流儀で行くことにしている。少しでも、彼に近しく見えるように。
……ああ、もうすぐ翡翠がやってくる。いつまでもこんな顔でいるわけにはいかない。

さあ、今日も遠野 志貴の一日を始めよう。








舞台上のアリス 〜 Alice in Dance Holl
#02 プラスマイナスゼロの二人








今日は早めに目を覚ましたおかげで、朝から秋葉の顔を見ることができた。今日も元気に皮肉を飛ばされたが、これも己の不徳故。甘んじて受け止めるのが兄貴としての責務だろう。
そうやって秋葉と話した後食事をし、昨日と同じように翡翠に見送られて家を出た。
空は快晴。秋の気配を存分に見せつける青さが天高くまで広がっている。気温も暑すぎず寒すぎず、ちょうどいい感じだ。
そんな中を学校へ向けて歩く。歩き、学校が近くなるにつれて当然のように学生服姿は増えていった。楽しそうなのは今日が土曜で午前で終わりだからだろうか。その輪の中に本質的には加われずとも、遠巻きに見ているだけでも割と気分は安らいだ。穏やかな景色の絵を見ればその場にいなくとも和める、そんな感覚だろうか。なんとなく朝見た風景をまた思い出していた。
そういう、日常という基準からブレの少ない平穏な時間。それがどんな石に躓いたのか、唐突に脱線したのは学校のすぐ近くの交差点だった。
赤信号で止まった交差点。人と車で遮られた向こう側に、志貴の目は一つの白い影を捉えていた。

「――――え?」

思わず漏れた声は誰かの耳に届いただろうか。そんなことすら考える余裕がなかった。
目を凝らす。そんな莫迦な、という思いと共に。見間違えだろう、という願いを添えて。
だがそれらを、あっさりと自分の眼は蹴散らした。
人ごみの合間に見えるその姿。ガードレールに腰掛け、なにかを待つように足を揺らせてあたりを見回す白い彼女は、紛うことなく昨日志貴が解体した――したはずの、女だった。

「…………」

絶句する。言葉がない、とは正にこの事だ。だって、あの女は線をなぞって・・・・・・解体したのだ。
線。それは志貴だけが見ることのできる、モノの終わり――つまり死に易い部分を示す黒いラインだ。理屈はただ聞いただけで理解していないが、経験からそれに間違いはないと知っている。白い部屋での十七分割あれはあらゆるものが内包する不可避の死を可視とする眼、直死の魔眼を持ってしまった彼だからこそ出来る殺人だったのだ。だからこそ、たったナイフ一本で人体を瞬時に解体出来たのである。
そして、その線を切られた部位に再生はない。何せ死んでいるのだから。これはありとあらゆるものに適応される。鬼だろうが妖怪だろうが、如何なる化け物でもこの死の法則からは逃げらない。逃げられなかった。
この眼に晒されて死なないものなんて存在しない・・・・・・・・・・・・・・
これもまた、幾多の経験が実証してくれている。
だと、言うのに。なぜ、あのおんなは。

信号が青に変わる。周りの人はまだらの橋を向こう岸へと歩いていく。その中で志貴だけが渡れない。一歩とて踏み出せない。

よく似た他人? 空似?
いや、違う。楽天的な逃げはよせ。あそこにいるのは化け物だ。その気配、いるだけというのに圧倒されるほどの重圧、あんな存在、二つといてたまるものか。それこそ間違いようなんてまったくない。
でも、それならあれは、どうして死んでいないんだ――!?

ふと女が顔を上げ、志貴を見た。拙い、そう思う間は十分にあった。だが彼の身体は目を逸らす事すら出来ずにいた。
自然、目が合う。白い彼女の赤い瞳が、学生服姿の志貴の黒眼を、十数メートルという距離をものともせずに貫いた。
直後、彼女は微笑んだ。楽しそうに、やっと待ち人が来たと言わんばかりに。
ガードレールから腰を上げる。視線はこちらに固定したまま。一瞬たりとてはずれない。
彼女がこちらに一歩踏み出したその瞬間――志貴は己が全力をもって逃亡を開始した。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




走る。


走る。

走り、
走り、疾って、走った。

長距離は苦手だ、身体が追いつかない。
もともと身体は丈夫じゃない。その上八年前の傷で、余計に体力が無くなった。
だから短距離、不意の一瞬で姿を消して行方をくらます。
逃げ切る必要はない。相手がこちらを見失えばそれでいい。遠くへ行かずとも、視界の外へ這い出る手段なんていくらでもある。
だが逆に言えばそれしかない。元々身体のつくりの土台が違う相手、油断を突くしか方法がない。
街路樹、路地、塀、果ては人の背中に屋根の上。
瞬時の横滑り。影への跳躍。緩やかな動きから、転じて急な瞬動へ。
視界をさえぎるありとあらゆる障害物に身を隠して、とにかく逃げた。

それを、もう、どれだけ続けただろうか。
脚と心臓が悲鳴を上げる。呼吸が足りず、脳が灼熱する。
短距離? そんな規定は遠に過ぎた。それでも脚を止められない。もっともっと、と速度を上げていくしかない。
何故なら、背後の気配はまるで消える様子も、こちらを見失って戸惑う具合もないからだ。的確に、正確に志貴の背中を追ってきている。それはまるで訓練された猟犬の様。振り返って見はできない。きっとその瞬間に追いつかれる。
追いつかれたら、間違いなく死ぬ。殺される。
当たり前だ、こっちが先に殺したんだから。
だから殺されたって仕方がない。それは非常識だけど、当たり前のこと。
でも、駄目だ。
今は死ねない。
今はまだ死ねない、死ねない、死にたくない。死んではいけない。
まだ目的を一分と果たしてない。
約束を、何一つ守れていない。
死ねない。
こんなままでは
死んでられない。
ここで
自分が
死ねば、
あのとき
なんの
ために
あいつは――――!

「ぐ、あっ!?」

足がもつれ倒れこむ。受身すら取れずに硬い地面に投げ出された。
足りない頭で考えすぎた。逃走の最中に別のことに気をとられるなんて。

「くそ、なんて無様だ――!」

崩れ落ちた足に力を込める。が、唯でさえ急な横方向への加速を何度も繰り返していた足は、用意に起き上がってはくれなかった。
落ち着け、落ち着けと頭の中で繰り返しながら周囲を見回す。いつのまにかどこを通ったのかも把握せずにただ走り逃げていたらしい。混乱しすぎだ、と罵声を浴びせる余裕もなかった。
三方を壁で囲まれた薄暗い路地、それが現在位置。身を隠せるような物はほとんどない。だがそれでも、しばしの時間をかせげるのならと、転がるように奥の塵溜めに身を寄せようとしたそのときに、

カツン、と硬い音が路地の入り口から聞こえてきた。

「ん、やっと捕まえたわ。まったくもう、手間かけさせてくれるわね」

声に、仕方なしに身体を向き直す。僅かに漏れる日光を背に、例の女が立っていた。
位置的にはちょうど路地の唯一の出入り口をふさぐ格好となっている。いや、元よりこの距離で捉まって逃げられるはずもない。
女の軽口には付き合わずに呼吸を整える。まずは落ち着いて、それから方法を考える。あのときからそうやって、どんなピンチも切り抜けてきた。今度だって何とかしてみせる。
そのための観察として、志貴は女を見詰め――彼女が、平均ラインなんて軽く彼方にぶっちぎった美女であることに気づいた。
殺して、追われて、捕まって。ようやく気づいた。
冷静に、と考えていた頭が漂白される。それこそ彼女の姿のように。
それを見咎めた彼女が声をかける。

「ちょっと、どうしたの? 私まだどこか欠けちゃってる? 一応鏡で見てきたんだけど」
「え、あ、いや、そんなことはない、けど」

ふざけた会話だ。だがこの場にはその方が似合っている。ここにいたる現実の経緯は異常。ならば正常こそ異物だ。

「ひとつ聞かせてもらえるか?」
「なにかしら?」

ならばこの異常な問いもまかり通るだろう。志貴は嘆息気味に、目前の女に問うた。

「なんで、生きてるんだ?」
「生き返ったからだけど。まさか殺されるなんて思いもしなかったから、本当時間かかっちゃったわ」

一瞬、聞いた言葉の破天荒さに己の耳と脳内を疑った。
いや、問いも異常なら答えも異常だろうとは思っていたが、生き返っただって? どんな魔法だそれは。

「生き返ったって言ったか? なんだそりゃ」

呆然と問い返すが、女は腰に両手をついて怒った様子でこちらを見据える。志貴の能天気な返しがよっぽど気に食わなかったらしい。

「貴方のそのフザケた技術に比べたら全然マシよ! 一体何をすればあんなコトができるわけ?
 再生しようにもできないから、新しく作るしかなかったのよ! 本当痛くて気が狂うかと思っちゃったわ。痛くて正気に戻ったけど」
「あ、う、すまん」

勢いに押されて思わず謝る。
謝って――思い出した。彼女はそれこそ、志貴に殺される謂れなど何もなかったのだ。ただあまりに強力な妖物であっただけである。ソレに対する殺害衝動を抑えられなかったのは志貴の未熟故だ。

「……済まない。君は殺されるコトなんてなかったのにな。謝ってすむことじゃあないけど、それでも謝らせてくれ」
「あ――――いいわよ、別に。今ちゃんと生きてるし……」

何故か驚き、慌てて彼女は志貴の謝罪を受け入れた。
志貴としてはまだ謝り足りないのだが、彼女はそれで満足したようだ。曇りない笑顔を殺風景な路地裏に咲かせる。
そして志貴を興味深そうにジロジロと、いろいろ角度を変えて見つめてから、ぽつりとつぶやいた。

「貴方、いい人ね」

呆然、その二。
今日は一体何度驚けばいいのだろう。何か、そういう日なのだろうか。

「なんで、そうなるんだ? 間違っても殺されたやつが、殺したやつに言う台詞じゃないぞ」
「そうかなぁ。殺しても生き返ってくるような化け物にちゃんと謝れるなんて、結構すごいことだと思うんだけど、私」
「殺した事実に、変わりはないだろ」

そう、それにはまったく変わりない。相手が化け物なら殺していいのか。後の行動がどうだというのだ。それで殺したという事実が、重くなることはあっても、少しでも軽くなるというのか。
罪は消せない。軽くもできない。咎を一度背負ったなら、そのまま歩き続けるしかない。
なのに、それでも女は笑顔を向ける。

「そうね、それは変わらない。事実は変えられるものじゃないし、変えていいものでもない。
 でも私は――貴方を、許しても・・・・いいかなって思ってる。貴方がそんな人だったから。
 これなら、貴方のしたこと消えないけれどプラスマイナスで打ち消しよね? 殺された本人が言ってるんだもの」
「…………」

……この、女は。
一体何度、俺を驚かせれば気が済むんだ。
そのあまりに馬鹿らしい理論に、志貴は、

「……、ハ」

俯く。俯いて後、空に顔を向ける。そして久しぶりに声を上げて笑った。

「ハハハハ! なんて理屈だ! プラマイゼロって、そりゃあないだろ!」
「むー、そうかしら。いい考えだと思ったんだけど」
「頓知が利いてるってのは認めるよ」

クク、と小さく笑いを漏らして立ち上がり、軽く足の具合を確かめた。大丈夫、もう走れる程度には回復している。
だがそのときには――本当に、何故かわからないけれど――志貴には逃げようという気はまったくなかった。
まだ彼女がこちらを油断させようと、嘘を言っている可能性だって、低いとはいえ全くのゼロではないと分かっているのに。
命の危険が完全に過ぎ去ったとはいえないのに。
どうしてか、そんな考えすら、浮かばなかったのだ。

「それで、俺に頼みたいことって? その口ぶりなら、何かあるんだろ?」
「うん。説明いろいろ飛ばせて助かるわ。
 その腕を見込んで、貴方に頼みたいのは――」

言葉の途中、志貴と彼女の視線が同時に路地の入り口へと向けられた。
路地の暗がりと退避するように明るい白に、黒いフォルムが影を落としていた。

「犬、というにはずいぶんと剣呑な気配だなぁ」

大型の狩猟犬を思わせる形に、呆れを含んだ声を落として志貴は一歩前に出る。その手にはすでに、一本の鉄の塊が握られていた。指の動きに、カシン、と音立てて刃が飛び出す。

「頼みたいことって、これか?」
「そうね、私の護衛とか手伝いとか、お願いしようと思ってたの」
「何でも屋かよ。でもまあ、見込んでもらった分働かないとな」

さらに一歩、前へ。彼の眼鏡に手がかかる。
同時、まだ優に八メートルはあろうというのに今までピタリと静止していた犬が動いた。
刹那の間に静から動へ、獣の全身が躍動する。
八メートルなどという距離、それにとっては無いも同然だった。ならば愚かにもそこに踏み込んだ人間の喉笛を食い千切るのは必然である。
その跳躍はまさに狩人の動き。ただ生き残るために捕食する、そのための機能を十全に使用した攻撃だった。
それを志貴は、眼鏡の外れた蒼い眼で見つめ、

「――――」

すらりと手を疾らせた。
一閃。獣の両前脚が切り落とされた。おそらく何が起きたのかさえ理解も思考できなかっただろう獣の眉間に向け、もう一閃。翻った刃が突き立てられる。
それで終わり。死してなお、人一人など軽く吹き飛ばす勢いの跳躍は、魔法のように消えうせた。いや、殺された・・・・
直死の魔眼の保持者によって、死を貫かれたものは絶対的に殺される。そして、死者は強制的な停止を与えられるのだ。それ故、眉間にあった死の点を貫かれた時点で、獣は何の影響を与えることができなくなった。

刺さったナイフ――七つ夜を抜く。頭蓋に阻まれることもなく、するりとぬける。一瞬後に、どうと獣は地に落ちた。
死体を見下ろす志貴の背に、場違いなほど明るい拍手がかかる。
振り返ると、彼女は近くに積み上げられた箱に腰を下ろしてこちらを見ていた。
「ああ、やっぱり貴方に声をかけてよかったわ。凄腕じゃない?」
「お褒めに預かり光栄だよ――ん?」

何気なく落とした視線の先に、もう獣はいなかった。ただ黒々とした水のようなものがあるだけで、それもすぐに地面に溶け消える。

「なんだったんだ、ありゃ」
「まさか混沌? いえ、その割には安定しすぎてるし……うーん、使い魔だとは思うんだけど……」

腕を組み、しばし考える彼女だが、答えは出なかったのかこちらに向き直る。

「ま、いいか。それよりね」

彼女は暗い路地の中、それを忘れさせるような笑顔を浮かべ、

「わたし、アルクェイド。アルクェイド・ブリュンスタッド。
 ねえ、貴方の名前、教えてくれない?」

己を殺した人間に、何のてらいもなく、そんな笑顔を向けるから。

だから、油断して、しまったのだ。

「ななや――ああ、七夜、志貴、だよ」

大切な名前。でも、忘れなくてはいけない名前。彼と一緒に殺したはずの、死人の名前。
それを口にしてしまっていたのは。
油断していたから。そう――思うしかなかった。








Back SSpage
Prev
Next