その昔、魔法使いはこう言った。


いつか気がつく。君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ。


長い永い時の中で、わたしはその言葉を、忘れてしまっていたけれど。
書き直される記憶の中に、埋もれてしまってはいたけれど。
今ならはっきり思い出せる。
それは今が楽しいから。あの言葉が真実なのだと、わかったから。

だからこそ、わたしは眠ることを怖れている。
あの言葉は真実だ。ならばその逆もまた本当なのだ。


つまり――眠りは恐怖の始まりだ。


それはまるで、鏡の様。光も闇も、身も心も。みんなみんな、さかしまにうつる。

眠りは目覚めの裏返し。幸せな劇は幕を降ろして、代わりに赤い紅いカーテンが、するする上に昇っていく。
その奥にいるのは、もう一人のわたし。

長い髪を風に揺らし、

ああ、

花畑に佇んで、

あれは、

その紅い眼には何も映さず、

あれはきっと、

真っ赤な月を背にしたわたしが――――……・・・

・・・……――――遠くない未来のわたしなのだ。




そんな未来を否定する。わたしは家族を守ってみせる。
あんな奴にこの身を渡してなるものか。
だから私は、眠りではないネムリを選ぶ。
たとえそれが、奴もろともに、わたしの終わりを呼び込もうとも。








夢現の界 〜 Through the NightMare Glass








朝の光が清廉に、清潔な廊下を照らしている。
遠野家の朝は、今日も穏やかな沈黙と緩やかな柔光に包まれていた。それはこの館にとってありふれた、朝の日常風景である。
そんな中、その静謐を崩すことこそ自分にとって最上の禁忌だとでも言うかのように、無音で進む少女の姿が廊下にあった。
遠野家の朝の番人、翡翠である。雄鶏よりも正確に、彼の者より一層上品に朝を告げることが、早朝における彼女の役割だ。
いつもと変わらぬ時刻に、変化無く進む確かな足取り。沈黙と平穏を輩に緋色の廊下を歩む姿は、この屋敷ほどの景観においては一種儀式めいてすら見えた。
否、儀式と呼んでも差し支えあるまい。今日も穏やかな一日となるように願いを込め、基点となる朝を告げるその行為は、彼女にとっては儀式に他ならないのだ。
故に彼女は静かに足を進めていく。今日最初に訪れる部屋は、この館の最も新しい──とは言っても、もう二ヶ月ほど前になるが──住人であるアルクェイドの私室である。
歩きながら翡翠は彼女のことを反芻する。

アルクェイド・ブリュンスタッド。我が主、遠野――いや、七夜 志貴の婚約者にして真祖という吸血種の姫君。
その性格は天真爛漫にして温厚。主の話では、会った時はかなり自分勝手でわがままな部分があったらしいが、いまではそんな部分はまったく見えない。
多少砕けた雰囲気はあるが、その立ち振る舞いはまさに姫君。
しかし、と翡翠はかすかに笑む。姫君だというのなら、わがままというのも似合っているかもしれない。姫君といえば、天真爛漫なほどにわがままなものなのだから。

自分の、夢物語そのままな思いつきに苦笑しながら翡翠はアルクェイドの部屋の前に立った。
腕を上げて、扉を軽く二回叩く。いつもの朝の儀礼のとおりに。
穏やかでありながら規律正しい生活をする彼の姫は、翡翠が参上する時間には既に起床して、優雅に読書などをしている。
外界の知識を持ってはいるものの、偏りがある彼女は常に完璧たらんと学習を続けているわけだ。無論、楽しんでという部分もあるだろう。読書時の彼女は常に笑顔を絶やさない。
故に、いつものようにノックをすれば、すぐに返事が返ってくる。
――はずだったのだが。

「…………?」

今日に限って、いくら待っても返事が来ない。
珍しいことである。翡翠の記憶では、前日に何かイベントでもない限りアルクェイドが朝起きていないということは一切なかった。
幾分の不安が、心に芽生える。些細なことのはずなのに、自分でも不審に思うほど、嫌な影が思考に差した。
もう一度ノックして、返ことがなければ例え失礼でも踏み込もう。
そう心に決めて、扉を叩く。

……


…………・・・



────返事は、なかった。

不安の芽が、葉をつけた。焦燥の日を浴びてするすると伸びていく。もしかしたら今日だけ寝過ごしたのかもしれない。昨晩、遅くまで起きていたのかもしれない。それに、ただ返事がないくらいでこんなにうろたえる必要はないはずだ。こんなこと、どこにでもあるちょっとした場面ではないか。
葉を枯らそうと言葉を流すも、その勢いは衰えない。嫌な予感が、消えてくれない。
大丈夫だ。そう強く言い聞かせる。中に入って、無事を確かめれば済むことだ。それで一切合財が決着する。ちょっと今日は違っただけだ。なにも起こるはずなどない。
アルクェイド嬢は月の姫。夜の玉座に君臨する吸血姫。どれ程の脅威であろうと、害することなどできるはずがないではないか。自分の曖昧な直感など、その強力な事実が微塵に粉砕してくれるだろう。

「失礼します、アルクェイド様」

扉を開ける。未だにアルクェイドからの声はない。わずかに早まる動悸を抑え付けながら、ベッドに歩み寄る。
ゆったりとした呼吸音。そこには静かに、穏やかに、眠りについたままのアルクェイドが横たわっていた。

ほっと胸をなでおろす。
何の異常もない。よく当たる、といわれる自分の勘も、さすがに彼女には太刀打ちできなかったのだろう。そう思った。
閉じられたカーテンに歩み寄り、ゆっくりと開いて朝日を取り込む。
そして、未だに目を覚まさないアルクェイドの傍らに立ち、声をかける。

「おはようございます、アルクェイド様。お目覚めの時間です」

サイドテーブルを見れば、原因と思わしき幾冊かの本がおかれている。図書室から持ってきたのだろう。ごくごくありきたりな物語、囚われの姫君を助ける勇者の話だ。それはなんとなく、彼女が好きそうな話に思えた。
それも何冊ともなれば熱心なことである。だが楽しみも過ぎれば身体に毒だ。出すぎた真似ではあるが、少し注意したほうがいいだろう。

「アルクェイド様、朝です」

整った白磁の寝顔を見つめながら繰り返す。

……、繰り返して、いる?

さっき枯れたはずの不安の芽が一気に花を咲かせた。昔、翡翠がアルクェイドが目覚める前に起こした時、彼女は声をかけるまでもなくノックするだけで目を覚ました。無駄に性能のいい身体だから、眠るつもりのないときはちょっとした音でも目覚めてしまうのだ、などと苦笑しながら語ったアルクェイドを翡翠は覚えている。

ならば何故今日に限っては目覚めない?

花が実をつける。大きく熟れた赤い実を。

「アルクェイド様!」

不躾とは分かっている。目を覚ましたら例え叱責されても仕方がない。だがそれでも声を上げずにいられなかった。胸騒ぎが止まらない。募る危機感が消えてくれない。

「アルクェイド様っ!」

祈るように叫ぶ。しかし叫びは届かずに──実は熟れすぎて、ぐしゃりと地面に落ちて潰れた。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




窓から差す影は短く、正午に近いことを教えてくれていた。
先ほどと同じアルクェイドの部屋。違うのは時間と、そこにいる人物のみだ。
朝、翡翠が立っていた位置に椅子が一脚置かれている。その上で、遠野 秋葉はただじっとアルクェイドを見つめていた。

朝、琥珀が部屋に緊張した面持ちで駆け込んできたときから、既に悪い予感はしていた。琥珀が取り乱すほどだ、どれほど大変かは容易に想像がついた。
その琥珀が告げた事実。
アルクェイドが目を覚まさない。呼吸はしている。脈も確かだ。
だが、目を覚まさない。呼んでも、肩を揺らしても、その目は硬く閉じられたまま。
秋葉の身体が、嘆息に震える。
彼女は真祖。人間相手が常の医者ではどうしようもない。魔術をかじっている琥珀ですら原因は分からなかった。
志貴は仕事でおらず、連絡も付かない。外国にいる四季、さつきにも電話をかけたが、留守番電話の機械音が虚しく返ってきただけだった。半ば禁じ手とも言えるシエルも報告のためヴァチカンに帰っている。
なんと間が悪いことだろう。手助けはない。この状況を何とかできそうな人たちは、残らずこの場にいない。

命に別状はない、そう琥珀は言う。
だが、それで安心できるはずがない。もちろん琥珀も分かっているはずだが、何も言わないよりは良いという心遣いからだろう。
分かっている。分かってはいる。
だが、安心できるわけがなかった。

「お姉さま……」

アルクェイドの手を握る。暖かい、血の通った手。
生きている。大丈夫だ。そう言い聞かせても、焦燥は募っていく。今何もしないことが致命的なのではないだろうか。自分は何もできないのだろうか。
琥珀は四季の書斎の本を片端から探索し――真祖についての記述など、ほとんどないと知りながら――似たような状況がないか探している。
翡翠は志貴や四季、他にもこの状況に対応できそうな人を探して――この状況を話せるほど、信用できる人物などいるかどうかもわからないのに――先ほどから奔走している。
……自分だけが、何もできない。ただここで無為に座り込んでいるだけだ。
歯を食いしばる。こんなことなら、無理にでも兄に魔術の手ほどきを受けておくのだった。なにか手が打てたかもしれないのに。
自分、だけが。なにも、できない。
失意に沈みそうになったとき、後ろから秋葉に声がかかった。

「秋葉様……申し訳ありません、ご返事がなかったものですから……秋葉様にまで、なにかあったのでは、と」
「ごめんなさい、気づかなかったわ。でも、私は大丈夫よ」

遠野 秋葉は振り向いて応える。だがその顔に映る焦燥の色は隠しきれない。
翡翠はおずおずと、持っていたトレイをサイドテーブルに置く。その上には琥珀製らしきサンドウィッチが乗っていた。

「姉さんが、せめて何か食べないと身体に悪いと……
 これならここでも召し上がれますし、秋葉様までお体を壊しては、アルクェイド様も目を覚ましたときに悲しまれますでしょう。どうかご自愛なさってください」
「そうね……ありがとう。
 それから貴方たちも何か食べなさい。お姉さまは貴方たちが倒れても同じように心配なさるわ」
「はい、そのようにさせていただきます。それでは何かあればお呼びください。すぐにでも参上致します」

一礼して、去る翡翠。パタンとドアを閉めるが、彼女はしばらくその場に立っていた。
その顔には苦悩の色が濃い。
秋葉は自分だけが何もできないと思っている。だが、それとまったく同じことを翡翠も思っていたのだ。
彼女は知らせを聞いてから、ずっとアルクェイドの傍らにいる。食事もせず、ずっとアルクェイドが目を覚ますのを待っている。ずっと彼女に、何か変化の兆しが訪れないかと、今にも折れそうな心境にいながら淡い希望をつなげ続けている。
それに比べて自分は、どれ程のことができただろう。何もしていないに等しい。失敗ばかりでなんの利も引き出せていない。

翡翠は知らないが、その思いはこの場にいない琥珀も同じだった。それ故に彼女は今なお書庫であがき続けている。

沈みそうな心根を深呼吸一つで立て直す。何かあるはずだ。自分にもできる何かが、きっと。
静かな瞳に決意を込めて、翡翠は役目を探して扉の前を立ち去った。




部屋の中で、秋葉は翡翠がおいていったサンドウィッチを一つ手に取り――しばし逡巡して、皿に戻した。
二人には申し訳ないし、食べるべきなのも分かっているが、今は食欲がわかない。気持ちが食事を受け付けないのだ。いくら安らかな寝顔をしているとはいえ、義姉が目を覚ますかどうかも分からない状況で、二人が必死に動いている中で、どうして自分だけ食事などできよう。
嘆息しながらうつむいて──秋葉はそこに、一匹の黒猫を見つけた。
毛も艶やかな、真っ黒な猫。アルクェイドと一緒についてきた、レンという猫だと秋葉は思い出した。
普段は兄以外には懐きもせず、姿を見せたと思えばすぐに消えている、一種猫らしいと言えば実に猫らしい猫である。だが、今日は機嫌がいいのか、珍しく彼女の方から歩み寄ってきた。こんな時でもなければ素直に喜んだのだろうけれど、と秋葉はため息をつく。
重い呼気とともに下げた視線の先で、レンと目が合った。不思議な、深い赤い目と。
その色はまるで、すいこまれるような、ふかい、あかで――

抵抗する暇はなかった。秋葉の頭はかくりと落ち、そのままベッドになだれ込む。ちょうどアルクェイドの腕を枕にするような姿勢で、彼女は意識を失った。
それを確認して黒猫はベッドの上に軽やかに乗り、アルクェイドの胸の上で丸まった。すぐに聞こえ始めた規則正しい呼吸が、彼女も静かに眠りに付いたことを示していた。

動くものは何もない。風さえ凪いでいて、カーテンを揺らすことさえない。
彼のごとくして、現実世界には静寂が訪れたのだった。




◇  ◆  ◇  ◆  ◇




月が、近い。
空を覆う白銀の真球が地上を無言で見下ろしている。観測者の目は感情の色を持たず、静寂を自戒としているかのように、天から変わらぬ視線を投げかけていた。
その月に最も近い場所。山上にそびえ立つ古城の庭で、少女が一人眠っていた。

「ん……んん……」

彼女らしい可愛らしい声があがる。わずかな身じろぎをして、彼女はうっすらと目を開けた。
鼻をくすぐるヴァニラのような甘い香りにか、それとも間近にあった白い華にか、目覚めたばかりの少女はまどろんだ瞳を瞬かせて身体を起こす。
長い黒髪の彼女――遠野 秋葉は呆然としたまま呟いた。

「ここは……?」

怪訝そうに首をかしげる。それも無理はないことである。知らない間にまったく覚えのない場所で眠っていたのだ、不審に思わぬはずがない。

「確か、レンに見つめられて……」

自答しながら思い出したように周りを見回して、彼女は広がる光景に圧倒されたらしく、かすかに息を呑んだ。
秋葉の周りにあるものは、白い庭とそれを取り囲むように巡る高い壁だ。中世風の古城である。積み上げた歴史は重く、染み出す気配も重く、ひたすらに見るものを威圧している。感嘆の一声がもれ出ても、何の不思議もない風景だ。
だが、彼女は感嘆などしなかった。真一文字に引き締められた口元から漏れる吐息のうちの感情を、瞳の色から推し量るなら――それは悲哀だ。この希望と光をまるごと喪失し、ただ死を待つだけの城に向けての深い哀悼だ。見事すぎる城だからこそ、彼女にとってはその凋落ちょうらくぶりが一層哀れに思えたのだろう。
だがその表情が不意に和らぐ。秋葉が向けた視線の先には、先ほどまで彼女を包んでいた白い花畑があった。
この城には不釣合いなほど、花々は白く生き生きと月光を受けて輝いている。
不釣合い。それは実に正しい。何故ならあの花々は、秋葉と同じくこの城で枯れていない、灰色に染まっていない唯一のものだからだ。この朽ちた城に生まれた、唯一の光だからだ。

秋葉の視線が再び上がる。向かう先は白い絨毯の端の小さな黒色。姿勢よく座って、彼女に赤い視線を向ける一匹の黒猫、レンであった。
レンは秋葉が自分の姿を確認すると小さくうなずき、身を翻して走り出す。向かう先には黒々と開いた城の中への扉があった。あ、と秋葉が声を上げる暇もない。黒猫はその姿を溶かすように闇の中へと体を躍らせる。
逡巡は一瞬だった。すぐに秋葉はレンを追って走り出す。その瞳に、先ほどまであった迷いはない。
聡明な彼女は既にこの場が何なのか気づいているだろう。あの秋頃に起きた、唐突に始まりひっそりと終息した一つの事件を、義兄から聞いて知っていたはずだからだ。ならばレンの能力もわかっているはず。
だがそんな後付の理由は秋葉にふさわしくはない。それよりは――そう、彼女は信じたのだ、あの一瞬でレンを。
それに応えるようにレンもその速度を上げる。続く石造りの廊下は、月光により一層冷たく染まっている。黒猫と少女は、そんな青白い回廊を駆け抜けていく。カッカッカッと高い靴音が、無人の城にこだまする。
廊下。
広間。
アーチ。
階段。
また、長い廊下。
それはどこか、不可思議な絵の構図に似ていた。建物の影と少女の影と、影そのものの黒猫が織り成す不思議な光景だ。しかしそれも仕方がない。これは夢の中なのだ。不思議、現実離れ、そんなことが往々にして成り立つのだ。
だが、これは絵とは違う。夢とはいえ、彼女たちは生きているのだ。変わらないように、永遠に同じように見える風景でもしっかりと変わっているのだ。その当たり前の結論を裏付けるように、決定的な変化が訪れた。鋭く動くレンの足が、止まっていた。
そこはある広間へと続くアーチの傍らだった。レンは秋葉を見上げ、ここが終点とそう言わんばかりに一声鳴く。
レンの紅い瞳を上から見下ろし、視線を交わして、秋葉はアーチを無言でくぐる。
一際大きな聖堂だ。とはいえ、あるのは小さな窓だけ。それ以外には何もない。広いだけの場所。それだけの場所に、
カツン、と秋葉のものでない足音が響いた。

「まったく……何時からこの城は、斯様かように騒がしくなったのか。ゆるりと眠ることすらままならぬ」

足音とともに空気を刻んだ声に、秋葉は喜色を浮かべて振り返る。お姉さま、と小さく叫んだからにはアルクェイド・ブリュンスタッドだと思ったのだろう。確かに、口調は違えど声音は気味が悪いほどに等しいものだった。秋葉といえど間違えるのも無理はない。
だが、振り返って気づいたのだろう。秋葉の整った唇から滑り落ちた言葉は、直前とはまったく別の色を宿していた。

「え……?」

理解できない、そう疑問の声をあげる先に、ソレはいた。
金色の長い髪を揺らせながら秋葉を見つめる紅い瞳。豪奢な白と金のドレスのまとったソレは、無表情に秋葉を睥睨している。

「おぬしは――」

少しだけ、間。

「アレの義妹、確か秋葉と申したな」

静かに言葉を紡いだ女。そのカタチは紛れもなくアルクェイド・ブリュンスタッドと同一のものであり――同時に、その心は果てなくアルクェイド・ブリュンスタッドとは乖離していた。あのような目など断じて秋葉に向けはしない。あんな、秋葉をなんでもないものでも見るような嫌な目で。
だから違いは歴然であり、隔たりは絶望的だ。秋葉にも、いや秋葉だからこそ、それはすぐに理解できただろう。大きく開いた深い谷底を垣間見て、彼女は小さく肩を震わせた。
だがそれだけ。たったそれだけの反応で、秋葉は己の制御を取り戻した。

「貴女は、誰なのですか?」

問う声にもう震えはない。瞳にかすかに寂しさの残滓といえるものが残っていたが、むしろその程度なのは賞賛に値する。もちろん、それを解する機能はソレにはないから、返す言葉も冷徹だ。

「アルクェイド・ブリュンスタッドの影といえばよかろうか。もっとも、斯様な身に名があるとすれば、それは朱い月であろうな」

無表情にソレ――朱い月が名乗った。あかいつきさま、と秋葉が小さく繰り返す。彼女の発音に、朱い月は頷き、そして少し苦笑い。

「秋葉よ。迷い込むにしても、もう少し場所を選ぶべきであろう。いくら黒猫を連れておるとは言え、ここは鏡の向こうではないのだ。もう少し己に合う場所に行くがよい。
 あと、廊下は走るものではないぞ。おぬしも淑女なれば、常に身の振る舞いは気をつけよ。眠るところであったのだが、叩き起こされてしまったではないか」
「あ、そ、それは失礼しました」

何様のつもりか、少し眉根を寄せて朱い月が不満を漏らした。普段ならあんなしおらしい態度をとるはずもない秋葉なのだが、今は勝手が違っているらしく、顔を赤らめてすぐさま非礼をわびている。
まあよい、と朱い月は秋葉に声かけて、いつものように何も話さず、あわてる秋葉を尻目に立ち去る。

「――いや、それもまた一興か」

その寸前で、朱い月は何故かぴたりと足を止めた。ゆっくりと振り返り、秋葉を見直す。

「秋葉」
「はい、何か?」

きょとんと応じる秋葉に、朱い月はかすかに口元をつり上げ、

「少し付き合え。さすればアルクェイド・ブリュンスタッドの現状について、幾らか話をしてやろう」

などとのたまって、やはり勝手に歩き出した。秋葉がついてくるのは当然とでもいうような傲慢な態度である。だが秋葉はその態度を気にした風もなく、むしろ傲慢などとカケラも思わない様子で素直に後をついて行く。すこしの焦りは隠せないが、その足取りは落ち着いていた。どうやら、朱い月を信用してしまったようであった。
歩きながらも朱い月は口を開く。よく考えればそれは、らしくないといえばらしくない行動である。いや、らしくないといえば秋葉のような来訪者と積極的に関わろうとすること自体がらしくなかった。だが外様の違和感を彼女が気にするはずもない。言葉は滑らかに、何者にも邪魔されることなく空を舞う。

「まず聞くが……アレのどこがよいのだ? 私には、アレをおぬしが好む理由が何一つ思いつかぬのだ」

しょっぱなから、めちゃくちゃ失礼な質問だった。さすがの秋葉も顔が引きつっている。だが前を歩く朱い月は秋葉の顔色の変化に気づかない。真祖なのだから、気配ぐらい察してもいいものだが。

「志貴――ああ、おぬしの義兄であったな――も言っておったぞ。わがままで手に負えない、とな。思いつきで騒動を引き起こすのだけは勘弁してほしいとか申して、私に泣きついて来た。アレの記録は私にもあるが、私にはどこまでやればわがままなのか、という基準が分からぬ。故にとりあえず信じたのだが」
「そう、ですか……兄さんがそんなことを」

ぞわりと秋葉の長い艶やかな髪が赤みを帯びる。口元に浮かぶのは心底愉快そうな笑みだが、目はまったく笑っていない。話題に上った彼の行く末はいろいろと悲惨なものになるらしい。しかし発言内容を鑑みるに情状酌量の余地はまったくないので、それは致し方ないことである。必然的な未来、というやつだ。

「うふふ、朱い月様。兄さんはまじめな顔をして嘘を言うのが得意なんです。真に受けてはいけませんわ」
「ほう、そうなのか。それは気をつけねば。と言うことは、あやつが言っておった“いんすたんとらーめん”とやらも空言なのか? 湯をかけてしばし待つだけで食事が出来上がるなど、如何なる魔術かと思うたのだが」
「ええ、もちろん嘘ですわ。そんなものは食事ではありませんもの。少なくとも朱い月様やアルクェイドお姉さまが口にするような」

きょとんと振り返りながら問い返す朱い月に、秋葉はにこやかに応じる。鈍い女は秋葉の額に浮かぶ青筋にはやっぱり気づかない。確かに表面上は笑顔だが、笑顔でとても可愛らしいが、それでも普通は気づくだろう朱い月。

「ふむ……まあ、あの男の虚言は置くとして、繰り返すがおぬしは何故にあれほどアレを慕っておるのだ?」
「それは――」

しばし、秋葉が沈思する。
無音。朱い月も歩を止め、考える秋葉を見つめている。
数秒の後、秋葉は彼女なりの答えを口にした。

「優しいから、でしょうか。他にもたくさんありますけど」
「……あれが?」
「もちろんです」

納得いかないと眉をひそめる朱い月とは対照的に、秋葉は自信満々にうなずいた。そこまで断言されるとは考えていなかったのか、朱い月は困った顔でむぅ、とうなる。うなるが、否定はしなかった。
代わりに再び歩き始める。向かう先には、小さなバルコニィがある。いつの間にかそこには、古めかしい椅子が二つとテーブルが並んでいた。朱い月の仕業だろう、普段はそんなものは存在しない。

「立ち話ばかりでは疲れよう。座るが良い」
「お気遣いありがとうございます」

ひとりでに椅子が引かれ、合わせて朱い月と秋葉が座る。これも朱い月だろう、普段は何もしないくせに今日ばかりは嫌味なほどによく動く。さらには虚空から飲み物まで用意して見せた。もうあきれるほどの歓待ぶりだ。
ただ問題は、その二つの豪奢なグラスに注がれた赤紫の液体にあるわけで。

「ええと、朱い月様。これは?」
「うむ、葡萄の絞り汁だ。酒精は入っておらぬし、幾らでもある。遠慮せず飲むが良い」

自信満々に朱い月。どうにも空気を読めていない。致命的なほどに読めていない。この城この時この空気で、よくブドウジュースなんぞ出す気になれたものである。ほら、秋葉だって困っているではないか。

「あの、私、気にしませんので……朱い月様はワインでも召し上がってくださいませ」
「……客人に酒を出さずに、私が飲む訳には行くまい」

どこか憮然と言い返す。言っていることはもっともなのだが、あからさまに視線をそらす以上、別の理由があるのは明らかだった。秋葉もそれに気づいているのだろうが、秋葉はよくできた優しい子なのでつっこまない。素直に出されたグラスを取った。

「では、ありがたく頂戴します」
「うむ」

二人はグラスを持ち上げ、秋葉は微笑と共に、そして珍しいことに朱い月も何の含みもない笑みを小さいながらも確かに浮かべ、
あおったグラスを皮切りに、話の花を咲かせ始めた。
時間がないということを、朱い月はよく知っているのに。

それを知らない秋葉は、朱い月の求めるままに話を続ける。日常の話、ちょっとした記念日の話。楽しかったこと、少し悲しかったこと。大変だったこと、うれしかったこと。
それらを表情を交えて語っていく。その一つ一つに朱い月は、それなりの言葉と表情を返している。あの朱い月が、である。それがどれほどの驚異か、言い表すには相当の努力を要するだろう。
時間はどんどん過ぎていく。ただそれを知らない秋葉だけが、哀れだ。悔しいことに、あんなにも楽しそうなのに。
砂時計の砂は落ちていく。その砂が落ちきる前に――

「さて、そろそろ私が代価を払う頃か」

朱い月は、終わりの始まりを歌った。グラスを置き、彼女は改めて秋葉を見る。

「ここが如何なる場所か、もはや見当がついておろう」
「はい、確証こそありませんが」

頷く秋葉も、朱い月の気配が変わったのを察して表情を変え、真摯に答える。そう答えるのを予想していたのだろう、朱い月は小さく笑む。

「アレの悪夢と、そう解釈しても問題はない」
「悪夢、だったのですか? ただの夢ではなくて、悪夢と――」

秋葉の上げた声は、静かながら半ば悲鳴のそれだった。聡い、あまりに聡すぎる反応だ。朱い月の一言だけで、秋葉は彼女の正体を察してしまった。
それを朱い月も了解しているのだろう。続ける言葉は短く、それゆえに結論として凝縮されていた。

「解りやすく言えばな。だがそれは、一点で真実を射抜いておる。
 つまり――私が、アレにとって忌避すべきモノである、という点だ」

ふ、と軽く息を吐いて朱い月は断言する。それは絶対的に正しい。アルクェイド・ブリュンスタッドと朱い月は、全くもって相容れない。
何故ならそれは――

「私は破滅をもたらすモノである故な。
 このままで手を講じねば、いずれ私はアレの身を奪い取り、真なる朱い月へと至ろう。しかしそれは世界にとって受け入れられぬことであり――私は、世界を相手に戦うことになろうな。私とて、再びの顕現を経ておきながら滅ぶのは避けたいのだ。戦う他ない、のだが。
 その様は破滅に相違あるまい? アルクェイド・ブリュンスタッド自身にとっても、秋葉、おぬしの世界にとっても、だ」
「――――ッ!」

朱い月の立ち位置が分かれば、秋葉にその後を悟れないはずがない。後とはつまり、時限爆弾を抱えたアルクェイド・ブリュンスタッドがとる選択だ。
古来より、己の身の内に魔を飼う者が、その制御を成せぬと判じたときどうしていたか。秋葉はよく知っている。悲しいほどに、知っている。ことさらに青ざめた顔が、それを如実に示していた。

「では、ではお姉さまは!」

椅子を蹴って立ち上がる。悲痛な悲鳴を聞きながら、朱い月はことさら無表情のまま結論を口にする。

「アレは私が何があろうと外に出れぬよう、そして己が朱い月に至らぬよう、その身を今に留めたのだ。深い眠りに落ちることでな」

言って彼女は視線をそらした。連なる山々に囲まれた古城を包む、月からの光。それがいまや変質しはじめ、舞い降るのは白い雪だ。
見下ろせば世界は、かなりの部分が白い覆いに隠されている。徐々に、徐々に、この城に近づきながら。この雪が完全に世界を包めば、もはや目覚めはこないだろう。だがそれには、まだ少しの間がある。それは朱い月のための猶予ではなく、訪れた秋葉のための時間だ。彼女まで閉じ込めてしまわないよう、彼女が去るための時間なのだ。

「理解したであろう」

朱い月が、座り込みうなだれる秋葉に声をかける。その声は聞き間違いか、この女のものとは思えないほどに優しい声音をしていた。

「さあく行くが良い。もう幾許かすれば、此処は閉ざされる。その前に、おぬしはおぬしの世界に戻れ。誘ったのが猫なれば、家路を作るも猫に頼ればよかろう」

立ち上がり、秋葉に背を向けた朱い月は、振り返ることなく別れを告げる。振り返らない理由は、わからない。ただ、言葉だけはしっかりと秋葉に届いたはずだった。

「然らばだ、秋葉。おぬしとの時間は、なかなかに――いや、とても楽しかったぞ」

それは最期だからか。かつてない態度を見せていた朱い月は、結局それを終始崩すことなく秋葉の前から去っていく。

「お待ち、ください」

それを、秋葉は引き止めた。すがり付いたのではない、強い意思をこめた声で引き止めたのだ。その意思は朱い月をして、歩みを止めるほどだった。
うなだれていた顔をあげ、立ち上がった秋葉はまっすぐに朱い月を見つめる。その顔はいつもの自信に満ちた秋葉の顔だ。
朱い月は振り返らない。歩みを止めはしたけれど、振り返らない。

「朱い月様、今の興味深いお話ですが……残念なことに二つほど、朱い月様は勘違いをされています」
「……勘違い、とな」
「はい。正確に言えば、朱い月様とお姉さまが、ですが」

秋葉は振り向かない朱い月にかまわず言葉を続ける。彼女の気配に気圧されることなく堂々と、自身の言葉で語っている。
それを、いまだ顔を背けたままの朱い月はどう思っているのか。彼女の表情が見えないために、それはわからない。秋葉も気になるはずだが、彼女の態度がどうであろうと己の心は変わらないとばかりに立ち居を変えない。変えずに、告げた。

「私の世界と、そしてお姉さまと朱い月様。それが相容れないなんて、そんなことありませんわ」

言葉と言葉の間、短い時間に、ゆらぐ朱い月の姿を幻視する。

「だって、貴女は今の今までずっと、アルクェイドお姉さまと同じように、私を義妹として見てくださっていたではないですか!」

決然とした言葉に、ようやく朱い月は振り返った。顔を彩るのは驚愕だ。莫迦な、と彼女は小さくつぶやいて、相対する少女の甘さを叱責する。

「何を申す。如何様にしてその結論を得た。
 秋葉。アレがそのような甘言で封を解くと思うのならば、それはあまりに楽天が過ぎるぞ」

朱い月の言うことはもっともだ。いったい何があれば、そんな結論に至るのだ。
まさか、朱い月が秋葉を義妹扱いするわけが――そんな、まさか、だ。
真っ向からの否定を受けても、秋葉の瞳は揺らがない。決意は消えない。

「朱い月様、私が兄さんの態度に思わず癇癪を起こしたとき、お姉さまが何と仰るかご存知ですか?」

秋葉の切り返しは全く予想外の角度から来た。朱い月がひるむのも無理はない。何の利もない発言は、自らを不利に追いやるだけなのだ。そんな、暴投としか思えない訴えのボールを、

「“あなたはレディなんだから、身の振る舞いは気をつけないといけないわよ”です。覚えておられませんでしたか?」
「――――!」

曲芸のような受け方で、秋葉は次につないだ。驚愕を通り越し、愕然といった面持ちでその言葉を理解した。死角からの一撃は思った以上に、どうしようもないほど効いた。
それを見逃してくれるほど秋葉は甘くない。

「そうそう、ブドウジュースというのもアルクェイドお姉さまそっくりの反応でしたね。お姉さまは私がお酒を飲めるのを知っているのに飲ませてくれない。
 それでもブドウジュースは……なんというか、その、やりすぎでした」
「……おぬしを相手に、水でも出せというのか?」

苦笑いを添えて、朱い月が嘆息した。それが事実上の敗北宣言だと気づくのに時間は要らない。ただ、強情極まる彼女が引き下がるなんていう、天地がひっくり返っても起きそうにない現状に納得するのは、しばし以上の空白を要する事態だった。
その間に、朱い月は城内からバルコニィへ引き返し、眼下の風景を眺めながら問う。

「確信を持ったのはいつだ?」
「ついさっき。貴女がここを出ろと仰ったからです。
 あれだけは何があっても、私の身を案じての言葉以外には取れませんもの」

その隣に歩み寄る秋葉。もう中庭すら白雪に覆われ始めている。秋葉が眼を覚ました花畑も、うっすらと雪をかぶっていた。

「しかしあれだけは、言わぬ他無かったのでな……成程、ならば私の負けはおぬしを引き止めた時から決まっていたか。
 これは道化を演じたな。ブリュンスタッドたる私が、いくらアレに影響を受けているとしても、人間相手に心動かす様は笑い話にもならぬと格好をつけて見たが。全く、慣れぬ事はするものではないな」

く、と自嘲するように朱い月は小さく笑って続けた。

「だが、この雪が止まぬのならば、アレは納得しておらぬのだろう。
 それをどうする。アレは私以上に頭が固い上、私を敵と見做しておる。私の今までの行いすら、おぬしを取り込むためと取りかねぬぞ?」

こんな状況だというのに、朱い月はなにか楽しげに秋葉を見やる。見返す秋葉も同じような顔をしていた。

「大丈夫です。お姉さまは話せばわかってくれますから。
 確認ですが、お言葉からして、ここからでもアルクェイドお姉さまに声は届いているのですね?」
「うむ。自らの内の境界を崩すことで、此処の支配権はほぼアレが握っておる。我等の動向も筒抜けであろう」

ならば、と秋葉は城に向かい合う。大きく息を吸い、声を張り上げる。

「アルクェイドお姉さま! お聞きですね? お姉さまは私によくしてくれた方を閉じ込めるようなことはなさらないでしょう? それとも、これもこの方の策略と邪推なさるおつもりですか? そんなことを考えている顔だったと、お姉さまは本当に思っておられるのですか?
 それに、この方が本当にお姉さまの側面だというのなら、もうお分かりでしょう? この行動は自分を貶めることにしかならないと!」

まっすぐでひた向きなその声に、声は返らない。声を返せない。

朱い月は明確な敵である。己の居場所を奪う略奪者だ。だが、もし……もし彼女が同じように遠野 秋葉に好意を抱いていたら。秋葉に対して、違う態度で同じ思いを抱いているなら。他の誰でもない、秋葉がそう結論したのなら。
それは、いつかに彼が言っていたように、アルクェイド・ブリュンスタッドと朱い月は、同じで違う存在ということなのでは……?

戸惑いは言葉にならず、空から降る雪に表れる。かすかに、けれど先ほどより確実に、雪の勢いが落ちていた。
その戸惑いを完全に決するように、秋葉は、

「世界が滅ぶ? あるはずがないではないですか! そんなこと、私や志貴兄さんが全力で止めますし、何より――」

今まで吸った息を、すべて吐き出した秋葉は、これで終わりとばかりに深呼吸をいれ、

「お姉さまがご自身の側面とすらうまく付き合えないような、そんなやわな方ではないと私は信じていますもの!」

そう断じた。さっきまでの言質をとるやり方などをすべて放棄し、証拠もなくただ言い切る。そこにある論拠は、遠野 秋葉は信じているという、ただ一点のみ。思い込みと私情に満ちた、願望だけの叫びである。

響いた声が残響し、消えるその前に――雪は止んだ。

だがその願望にだけは、アルクェイド・ブリュンスタッドは逆らえない。義妹の心からの願いをどうして義姉が蹴ることができよう。
ああ、それが間違っているのなら正してみせる。彼女が頑強に拒んでも、彼女が間違ったままでいるのは許せない、それを正すのは姉の役目だ。
しかし、さっきの叫びは心底からの信頼より来るものだ。アルクェイド・ブリュンスタッドは間違えないと、そう信じる心の形だ。己の影から眼をそらすなという激励の声だ。ならばそれに応えずして、どうして姉を名乗れよう。

止んだ雪は、元通りに青い月光に身を転じる。その光を羽衣のようにまとって、秋葉がくるりと振り返った。

「言ったとおりでしょう? お姉さまは話せばわかってくれるんです」
「私とは話そうともしなかったがな、あやつは」

やれやれと肩をすくめる朱い月。その仕草に、秋葉は花のように笑いかけて、爆弾を落とした。

「それはこれからやっていけばいいことです。
 でも、きっとうまく行きますわ。だってどちらも、私のお姉さまですもの」
「…………」

朱い月は音を立てかねないレヴェルで固まった。不思議そうに見やる秋葉に自覚はない。さすが遠野家の誇る核弾頭。こういうところもかわいいのだが、時と場合と場所は考えて欲しい。
凍結した朱い月は、やがてゆっくりと自身を指差し、問うた。

「……姉? 私が?」
「え……ええ。だって、朱い月様はアルクェイドお姉さまの半身なのでしょう?」

彼女にとっては当然の事実だったのだろう、聞かれたことに若干の戸惑いを含みながらも秋葉は答える。それに朱い月の顔が驚き、無表情、沈思とめまぐるしく変わり、仕舞いには無表情のまま秋葉に歩み寄った。

「秋葉」

呼ぶ声に、秋葉が応じる暇すら惜しんで。

「っ!?」
「おぬしは愛いやつよの、秋葉」

今度は秋葉が固まる番だった。朱い月のしっかりと抱きしめた腕は、抵抗する気すら奪っているのか秋葉は身じろぎ一つできずにいる。頭を撫でる手の下、秋葉の顔どころか耳まで赤一色。そのかわいらしい耳に、名残惜しそうにささやいた。

「時間だ、惜しいが此度はこれまでだな。
 だが再び会うこともあろう。その時にまたこうしてやる故、待っているが良い」

笑って身体を離すと、そこにはレンが座っている。時期を見計らっていたのだろう、人が自分以外の夢に長くいることはあまりよくないそうだから。
秋葉は一歩、離れた朱い月に歩み寄りかけてすぐに足を戻した。彼女自身も残念そうだが、最後にささやかれた言葉が効いているのだろう。
だから彼女は笑って言うのだ。

「ええ、待っています御姉様。ちゃんと迎えに来てくださいね?」
「契約しよう。朱い月の名に懸けてな」

朱い月の誓約に、安心したように秋葉は目を閉じる。現世から夢に入り込むのが眠りなら、夢魔の力を借りて外に出るのは夢での眠りだ。いつだったかの彼のように、レンがいるならわざわざ死ぬ目にあう必要はない。
しばしの時間をかけて、秋葉とレンは青い光に溶けるようにこの世界から抜け出した。

彼女達が去ったことで、バルコニィに立っているのは朱い月一人だけ。さっきまで座っていた椅子に座りなおし、呆れたようにため息をつく。

「全く……どうせ滅ぶなら、最期の時間を秋葉と過ごすのも悪くないと引き止めたが……いやはや、世は思い通りに成らぬからこそ良いのだと思い知らされたな」

独り言のように言うが、そうではない。その言葉は、明確な方向性を持っている。確信に近いその感覚を裏付けるように、呆れた視線を変えないまま、朱い月はこちらを向いた。

「もはや隠れる意味はあるまい。いい加減に出て来ぬか」

なんだ、最初から知っていたのか。その上で黙っているとは性格の悪いことだ。
しかし朱い月も短い間に、ずいぶん感情的になったものである。今の今まで機械染みた程度の感情しか見せていなかったくせに。
……ああ、それは彼に会う前の自分と同じか。嫌な位にどこまでも似ていて、まったく嫌になる。
嫌になるが、まあ言っていることはもっともだ。秋葉が去った以上、ここにいる意味はない。
小さく頷きながら、アルクェイド・ブリュンスタッドは景色の向こう側から抜け出した。




かつ、と虚空に靴音が鳴る。朱い月の視線の先、月を背にしてにじみ出るようにアルクェイドが姿を現していた。
彼女は地に足を付けずに膝を軽く曲げ、軽やかに跳んでバルコニィに降り立つ。その目は一度として朱い月から外れていない。にらむような半眼で彼女を見据えていた。
無言のまま、音を鳴らして椅子に座る。総合的にも部分的にも不機嫌オーラ全開だった。
そんな彼女を気にしていないのか、朱い月は冷静である。冷静に、ワインとグラスを取り出した。
ただし一人分。

「――て、わたしのはないわけ?」
「誰が貴様等のを用意してやるか。己でするが良い」

彼女は至極冷静ではあったが、思い切り会話に火種を投げ込んでいた。
ぴき、と空間を凍らせる音と共に、アルクェイドの額に青筋が走る。秋葉といるときはえらく沸点が高いのに、朱い月を前にすると急激に下がるようである。低下の原因は極度の空間緊張による真空状態だろうか。テーブルを握った手も怒りに震え……というか、縁が抉り取られていた。どうやらさっきの音の出元はここらしい。
朱い月の視線がすぅと破砕点に向けられる。

「はっ」

あからさまな失笑が来た。手に握られた破片がさらに砕かれる。

「そんな野蛮な振る舞いを秋葉の前でもしておるのか? よく姉が務まるな」
「秋葉の前でするわけないでしょう! あんたそんなに喧嘩売りたいわけ!?」

椅子を蹴倒す勢いでアルクェイドが吠える。強く噛んだ口元は、普段の彼女にはない獰猛な空気をかもし出していた。客観的に言うと、確かに秋葉が見たら泣く顔である。彼女の前ではこんな顔はしないだろうが。
ちなみにだが、彼女の手の内にもう破片はない。正確を期すなら破片といえる大きさのものはない、となるだろう。あるのはさらさらこぼれる砂だけである。
七割増しの殺気を向けられた朱い月はやはり冷静だった。熱気とも冷気ともつかぬ意思を受け、口元を笑みの形に歪める。

「はははようやく気づいたか莫迦め。思考が鈍いぞ」
「――――ッ!」

アルクェイド感情レベル、激昂から憤怒にシフト。わーにんわーにん。付近の非戦闘員は命が惜しくば至急シェルタに退避すべし。
背後に轟音を響かせつつ、アルクェイドは剣呑とか言う段階をとうに通り越した眼で朱い月をロック・オン。その右手が空を割くのは時間の問題と思われた。

「…………ふん」

だが、その時間は訪れなかった。少なくとも今は、アルクェイドは不機嫌ながらも再び席に着き、朱い月も無言で応じる。無言のまま、グラス一つとワインを呼び出してテーブルの上に置いた。
受け取り、アルクェイドはグラスにワインを注ぐ。こっこっこっと小気味よい音だけが風景に溶ける。
中ほどまで紫紺に身を浸したところで、グラスは漸くワイン攻めから開放された。代わり攻め立てられるのはもう一つの、朱い月の前に置かれたグラス。同じく中ほどまで満たしたところでボトルを置く。
両者、同じ動作、同じ時間で、グラスを取る。
一気にあおった。
グラスを置く。

「ああもうむかつくわ。秋葉が姉と呼んでくれるのはわたしだけだったのに、なんでこんなやつまで」
「腹立たしいのは此方だ。私に言わせれば、貴様如きが秋葉の姉など分不相応極まる」
「いきなり出てきてかっさらっていった奴に言われたくないわ。盗人猛々しいとはこのことね」
「その“いきなり出てきた奴”に大事な妹を盗られた姉は、ずいぶんとまあ道化だな」

言い合う一言一言で、殺気が上乗せされていく。レイズレイズの嵐である。ショウダウン前にはいったいどれほど殺意が積まれているのか、想像するだけでも恐ろしい。ショウダウンがくれば、だが。
ふいとアルクェイドの視線が朱い月からバルコニィの外へ体ごとと向く。朱い月も同様に。動きに合わせて、周囲に満ち溢れていた両者の殺意は霧散した。
敵意はある。隔意もある。だが、この場で力を振るう意思は、双方から消えていた。
無言で淡々と、景色を見ながらボトルをひたすら空けていく。言葉の代わりに空き瓶が積み上がる。
そんな、しばしの重い沈黙を経て、ぽつりとアルクェイドが嘆息交じりにつぶやいた。

「わたし、やっぱりアンタ嫌いだわ」
「私もだ」

即答する朱い月。そのぶっきらぼうな応えに、アルクェイドが浮かべるのはさっきまでの怒りではなく苦笑い。

「でしょうね。でも――」

一息。

「嫌いなりに、うまく付き合ってくことにしたわ。
 秋葉のためじゃない。秋葉の言いなりになってるだけじゃ意味がない。これは、秋葉の言葉に納得したからよ。
 そこんとこ、間違えないで」
「……ふん。承知した、と言っておいてやる。
 それよりさっさと行かぬか。秋葉にこれ以上心労を掛けさせるな」
「そ。秋葉に伝言があるなら伝えておくけど?」
「無い」

吐き捨てる朱い月にもう一度ため息をついて、アルクェイドは席を立つ。途端、風に流されるように彼女の姿が消えていく。現実の方へと戻るのだ。
その途中、もうあとわずかでアルクェイドが消えるというそのとき、朱い月はにやりと笑って口を開いた。

「ああ、伝言は無いとも。直接私が伝えれば済む故な」
「え――?」

疑声をあげるアルクェイドに、朱い月は言葉をかぶせる。

「貴様は私を封ずるために境界を崩しただろう。それはつまり、貴様が此処で少々力を振るえる代わりに、私も完全ではないが外に出られるという事だ。
 理解したか? ならば私に秋葉を奪られぬよう、しっかり構ってやるのだな」
「あ、あんたってやつはぁぁぁ――」

言葉は途切れ、虚空に消える。残るのは満足げに微笑む朱い月一人。

「ああ、楽しみだ。さて、秋葉との再会を夢見て眠るとするか」

静かにバルコニィの上の物々を破却し、朱い月は城の中へと消えていく。

彼のごとくして、幻想世界には、少々の変化を残して、再び静寂が訪れたのだった。








Back SSpage